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ヨエニス・セスペデス
キューバの野球選手 (1985 - ) ウィキペディアから
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ヨエニス・セスペデス・ミラネス(Yoenis Céspedes Milanés, 1985年10月18日 - )は、キューバのグランマ州カンペチュエラ出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。愛称はスペイン語でザ・パワーを意味するラ・ポテンシア[1]。
弟のヨエルキ・セスペデスもプロ野球選手(外野手)。代理人は、ラッパーのジェイ・Zが経営するロック・ネーション・スポーツ[2]。
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経歴
要約
視点
キューバ時代
キューバの名門体育大学であるマニュエル・ファハルド国立体育大学を卒業。
2003年より、キューバ国内リーグであるセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルのアラサネス・デ・グランマに所属。
2007年には2007年パンアメリカン競技大会の野球キューバ代表に選出された。
2009年に第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のキューバ代表に選出された[3]。同大会では、全試合に出場し、大会通じて打率.458、2本塁打、5打点の活躍で大会ベストナインに選ばれる。第2ラウンドの日本戦では小笠原道大の打球を落球した。
アスレチックス時代

(2012年4月27日)
2012年2月13日にオークランド・アスレチックスと総額3600万ドルの4年契約を結んだ。この契約は2003年にホセ・コントレラスがニューヨーク・ヤンキースと結んだ、4年契約総額3200万ドルを抜いて亡命キューバ選手としての過去最高額となった。この年は129試合に出場して打率.292、23本塁打、82打点などの成績を残した[4]。
2012年3月28日に日本の東京にある東京ドームでのシアトル・マリナーズとのMLB日本開幕戦でメジャーデビューを果たした。最終的にア・リーグ新人王投票では、2位19票3位6票で計63票を獲得し、全体では2位となった[5][6]。
2013年はオールスターゲームに選出されなかったものの、前日に開催されたホームランダービーに選出され[7]、優勝した。この年は135試合に出場して打率.240、26本塁打、80打点、7盗塁を記録した。
2014年は初めてオールスターゲームに選出された。前日に開催されたホームランダービーに2年連続2度目の出場を果たし、1999年のケン・グリフィー・ジュニア以来史上2人目の連覇を達成した。
レッドソックス時代

(2014年9月19日)
2014年7月31日にジョン・レスター、ジョニー・ゴームスとのトレードで、ボストン・レッドソックスへ移籍した[8]。この年は自己最多となるシーズン通算152試合に出場した。本塁打は自己最少の22に留まった一方で、36二塁打・6三塁打はいずれも自己最多となった。また得点圏打率.309を記録し、MLB移籍後では初となるシーズン100打点を挙げた。
タイガース時代

(2015年7月30日)
2014年12月12日にリック・ポーセロとのトレードで、アレックス・ウィルソン、ゲイブ・スパイアーと共にデトロイト・タイガースへ移籍した[9]。
2015年は左翼手のレギュラーで起用される。102試合に出場で打率.293、28二塁打、18本塁打、61打点を記録した。左翼の守備は99試合で守りに就き、5失策を犯して守備率.977だった。
メッツ時代
2015年7月31日にマイケル・フルマー、ルイス・セッサとのトレードで、ニューヨーク・メッツに移籍した[10][11]。メッツでは57試合に出場し、打率.287、17本塁打、44打点、長打率.604を記録。特に本塁打は、タイガース比でマイナス45試合にもかかわらず、1本少ないだけというハイペースだった。守備は左翼手と中堅手を守り分けた。2チーム計での打撃成績は、159試合で打率.291、35本塁打、105打点、7盗塁。オフの11月2日にFAとなった[12]。
2016年1月26日にメッツと総額7500万ドルの3年契約(2016年オフに契約破棄が可能)を結んだ[13]。シーズンでは開幕から安定した成績を残し、前半戦を打率.302、リーグ5位タイの21本塁打を記録して、自身2度目のオールスターゲームにファン投票で選出された。この年は132試合の出場で、打率.280、31本塁打、86打点だった。オフに残りの2年契約を破棄し[14]、FAとなった。球団は1720万ドルのクオリファイング・オファーを提示した[15]が、11月14日に拒否した[16]。11月30日に4年1億1000万ドルでメッツと契約を結んだ[17]。
2017年4月11日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では3本塁打を放ったが、同27日のアトランタ・ブレーブス戦で左ハムストリングの張りを起こして故障者リスト入り[18]。5月10日に復帰したが、8月25日のワシントン・ナショナルズ戦には右脚のハムストリングを負傷して、そのままシーズンを終えた。81試合の出場に留まった。
2018年は開幕から出場し、4月18日のナショナルズ戦では満塁本塁打を記録した。しかし5月中旬に股関節屈筋の故障で故障者リスト入り。復帰戦となった7月20日のニューヨーク・ヤンキース戦で本塁打を打つも、試合後に石灰化した両足の踵の手術の可能性について明かし[19]、同25日に手術を受けることをGM補佐が明らかにした[20]。38試合の出場に終わった。
2019年は両踵手術から回復中の5月18日にフロリダ州にある自身の牧場で地面の穴にはまり、激しく転倒[21]。足をひねり、負傷した足首を骨折して全休した[22]。オフに翌年の契約を見直し、もともと2950万ドルだった基本給を大幅減の600万ドルにすることに合意した[23]。
2020年は2年ぶりにMLBの試合に出場。しかしシーズン途中にシーズン辞退を表明した。以降、試合に出場することはなく、8試合の出場に留まった。オフの10月28日にFAとなった[24]。
2022年オフはドミニカ共和国のウィンターリーグ・リーガ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル・デ・ラ・レプブリカ・ドミニカーナのアギラス・シバエーニャスでプレーした[25]。
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人物
母親のエステラ・ミラネス(Estela Milanés)は、元ソフトボール選手であり2000年のシドニーオリンピックではキューバ代表(投手)で出場した。弟はヨエルキ・セスペデスで2019年6月にキューバから亡命したプロ野球選手である。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- キューバで通常用いられる個人通算成績は、プレーオフや選抜リーグなども合算するため、この表の合計とは一致しない[26]
WBCでの打撃成績
- 太字は大会最高
年度別守備成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
表彰
- シルバースラッガー賞:1回(外野手部門:2016年)[27]
- ゴールドグラブ賞:1回(外野手部門:2015年)
- ルーキー・オブ・ザ・マンス:1回(2012年9月)
- プレイヤー・オブ・ザ・ウィーク:2回(2012年7月16日、2015年9月14日)
記録
- MLBオールスターゲーム選出:2回(2014年、2016年)
背番号
- 52(2012年 - 2018年、2020年)
代表歴
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脚注
関連項目
外部リンク
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