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小林晋哉
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小林 晋哉(こばやし しんや、1952年10月28日 - )は、兵庫県宍粟郡山崎町[1]出身の元プロ野球選手(外野手)。
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経歴
育英高等学校から京都産業大学へ進学。1年春の京滋大学リーグでいきなり首位打者になる。京滋大学リーグで通算58試合出場、206打数79安打、打率.383、6本塁打、55打点。首位打者2回、最優秀選手2回受賞。1973年の春季リーグで優勝、代表決定戦を勝ち抜き、入れ替え戦で関学大を破りチームは旧関西六大学リーグに初昇格する。しかし1974年春季リーグ後の入れ替え戦で立命大に敗れ、チームは降格。関西六大学リーグでは2季で通算21試合出場、68打数24安打、打率.353、5本塁打、11打点、ベストナイン2回受賞。京滋、関西の2リーグで大学通算103安打を記録した。
1975年に神戸製鋼に入社。1976年には三菱重工神戸の補強選手として都市対抗に出場、チームの準決勝進出に貢献する。同年の第24回アマチュア野球世界選手権日本代表となり、社会人ベストナインにも選出された[1]。翌1977年は神戸製鋼の四番打者として都市対抗に連続出場。決勝で熊谷組と対戦、試合を決める先制本塁打を放ちチームに初優勝をもたらす[1]。
1978年のドラフト4位で阪急ブレーブスに入団[1]。1980年ウエスタン・リーグで首位打者になり、ウイリアムスの退団もあって、1981年には左翼手のレギュラーとなる[1]。同年は生涯唯一の規定打席(22位、打率.282)にも達する。1984年までは定位置を手中にしていたが[2]、熊野輝光の台頭により出場機会が減少。その後は控え外野手、代打、守備固めとして起用された。1987年シーズン限りで現役引退[1]。
現役引退後も、1988年から2010年まで、阪急および後継球団(オリックス・ブルーウェーブ→オリックス・バファローズ)に在籍。阪急時代には球団職員、ブルーウェーブ時代には打撃コーチ・守備走塁コーチ・スカウト・編成部副部長・スカウトグループ部長、バファローズ時代には球団本部長補佐(球団本部育成部長)や一軍チーフコーチ(2010年)を務めた。
2011年に、韓国プロ野球・SKワイバーンズの春季キャンプへ臨時インストラクターとして招聘。そのままSKの打撃コーチに抜擢されたが、シーズン中の8月18日に監督の金星根が解任されたことを機に、コーチを辞任した。
2012年には、韓国・高陽ワンダーズの春季キャンプで臨時コーチを務めた[3]後に、3月10日から横浜DeNAベイスターズのスカウトへ就任[4]。2015年と2016年には、韓国のハンファ・イーグルスで、春季キャンプの臨時インストラクターとして外野守備を指導している。 その後、横浜ベイスターズでスカウトをしていたが、2019年のレギュラーシーズン終了をもって、ベイスターズとのスカウト契約終了。担当した選手には山本祐大[5]。
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家族
妻は、日本スケート連盟のフィギュアスケート強化部長で、バンクーバーオリンピックのフィギュアスケート日本代表コーチだった小林芳子[6]。晋哉とは、知人の紹介で知り合った後に、同じ兵庫県出身という縁で1981年に結婚した。晋哉によれば、「交際当時の自分は(阪急の)二軍暮らしで、(高校時代までフィギュアスケーターだった)芳子もスケート連盟の事務職に就いていたので、(現役プロ野球選手とフィギュアスケーター経験者の)交際と言っても地味なものだった」という[7]。
詳細情報
年度別打撃成績
記録
背番号
- 26 (1978年 - 1987年)
- 76 (1992年 - 1999年)
- 72 (2010年)
- 81 (2011年)
脚注
関連項目
外部リンク
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