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小森光生

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小森光生
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小森 光生(こもり こうせい[1][2][注 1]1931年12月2日[1]または11月2日[2] - )は、長野県松本市[4]出身の元プロ野球選手内野手外野手)・コーチ監督解説者

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

要約
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河野旭輝とのクロスプレー(1956年7月)

旧制松本市立中学校(学制改革により1948年から松本市立高等学校に再編)では1946年、戦後初の中等学校野球大会に控え選手としてベンチ入りするが、準々決勝で東京高等師範付中に惜敗。1949年の夏の甲子園には四番打者、三塁手として出場し、準々決勝に進むが、佐々木信也らを擁する湘南高に9回サヨナラ負けを喫す[5]。高校卒業後は早稲田大学に進学し、東京六大学野球リーグでは在学中に4回優勝。同期の広岡達朗と三遊間を組み[4]、華麗な守備で人気を博す。リーグ通算78試合に出場し、290打数74安打、0本塁打、44打点、打率.255。広岡以外の大学同期に投手福嶋一雄がいる。

大学卒業後の1954年に大学先輩の荒川博沼澤康一郎がいる毎日オリオンズへ入団[4]。1年目から三塁手として活躍し、規定打席(45位、打率.208)にも達する。1957年には葛城隆雄に定位置を譲ったが、その後は二塁手外野手もこなすユーティリティプレイヤーとして起用される。1960年は故障もあって先発はわずか4試合、同年の大洋との日本シリーズも出場できなかった。翌1961年には復活し、主に右翼手として48試合に先発出場。1962年には近鉄バファローズへ移籍[4]し、三塁手、外野手、二塁手として活躍。1963年には4月7日南海戦(大阪)に徳久利明の代打で出場し、先発の高橋栄一郎から満塁本塁打を放つ。1965年は開幕から右翼手の定位置を得て自己最高の打率.271を記録し、五番打者としても11試合に起用されるが、1966年には北川公一の台頭で出場機会が激減し、同年限りで現役を引退[4]

引退後は近鉄(1967年一軍コーチ)、広島1968年 - 1970年一軍コーチ→1971年二軍コーチ)、ヤクルト1974年 - 1975年一軍コーチ→1976年 - 1981年二軍監督)、大洋1982年 - 1984年一軍守備・走塁コーチ)で監督・コーチを歴任[4]。監督・コーチ業の合間を縫って、フジテレビニッポン放送解説者(1972年 - 1973年)を務めた。

近鉄コーチ時代はキャンプの企画、立案も引き受けるなど小玉明利選手兼任監督を支え、野手に転向した伊勢孝夫関根潤三根本陸夫の打撃理論を教え込んだ[6]。小森は伊勢に素振りの構えからテークバック、ステップまでを延々と繰り返しやらせたが、スイングをさせなかった[6]。体重のかけ方や捻り方をキープしてトップの位置を確認するものであり、伊勢は「なんでこんなことばかりするんだ」と思ったが、下半身が鍛えられ、下半身でボールを捉える意識付けになった[6]。後に伊勢は指導者として大成するが、この理論をずっと教えている[6]

広島時代は若手の育成を最重点に据えたチーム作りを打ち出した根本に招聘[7]され、関根や広岡と共に若手にチームプレーとは何かを徹底的に仕込む[8]。小森の指導でチーム全員が足を使えるようになり、1970年にはリーグでは群を抜くチーム109盗塁を記録[9]

ヤクルトではコーチ時代に荒川、広岡、沼澤と共に「早稲田カルテット」の一角を担ったほか、1975年オフの11月8日には東京六大学野球連盟結成50周年記念試合プロOB紅白戦[10]メンバーに選出され、1年先輩である荒川率いる白軍の選手として出場。二軍監督時代には近藤昭仁をコーチに推薦し、1979年にはチームをイースタン・リーグ優勝に導く。

大洋退団後は球界から離れ、静岡県伊豆ペンションのオーナーとなった[4]

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に球団名を変更

記録

  • 1000試合出場:1965年8月5日 ※史上100人目

背番号

  • 2 (1954年 - 1961年)
  • 4 (1962年 - 1966年)
  • 65 (1967年 - 1971年、1974年 - 1984年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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