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有吉道夫
日本の将棋棋士 (1935-2022) ウィキペディアから
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有吉 道夫(ありよし みちお、1935年7月27日 - 2022年9月27日)は、将棋棋士、九段。2010年、引退。大山康晴十五世名人門下。棋士番号は66。岡山県備前市出身。
棋聖のタイトル獲得1回のほか優勝9回。また、タイトル戦の舞台での大山との師弟対決は4度実現。
現役55年を数え、2001年には史上6人目の通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成。過去に7人しかいない『六十歳代A級棋士』の一人でもあった[注 1]。順位戦A級在籍21期。同じ関西本部所属では、内藤國雄とは自他ともに認めるライバル関係で[1][注 2]、共に関西棋界を長年にわたって牽引した。
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棋歴
要約
視点
将棋に熱中したきっかけは、「矢倉囲いの美しさに感動したから」だという[1]。
年齢差が12歳ほどしかない大山の一番弟子で、1951年に15歳で入門してからの奨励会の4年間、大山のもとで内弟子生活を送る。ほぼ同時期に大山に入門した市川伸と2人で、当時倉敷市にあった大山の自宅に住み、屋根裏の四畳半で3年半生活を共にした[2]。
1955年、19歳でプロ入り。
初参加から2期目の第11期(1956年度)C級2組順位戦で、10勝2敗で1位となり、C級1組へ昇級。さらに、翌年も同じく10勝2敗で1位となり、2年連続昇級でB級2組へ上がる。
1957年度、難関・王将リーグ(第7期)に、初めて入る。第12期(1962年度)には、二上達也、加藤一二三、升田幸三、山田道美らを破り6勝1敗で1位タイとなるが、プレーオフで二上に敗れ、挑戦権を逸する(一方の二上は、その勢いに乗ったまま大山から王将位を奪取する)。
第14期(1959年度)B級2組で9勝3敗の2位とし、B級1組へ昇級。第19期(1964年度)B級1組順位戦で10勝4敗の2位の成績を収め、1965年4月1日をもってA級八段となる。
1966年、第7期王位戦の王位リーグを抜け、挑戦者決定戦で山田に勝ち、タイトル初挑戦。師匠の大山との初のタイトル戦でもある。七番勝負の結果は1勝4敗で敗退。
第11回(1966年度)高松宮賞争奪選手権戦の決勝三番勝負で加藤一二三を2勝1敗で破り、同棋戦の最後の優勝者となる。
第7回(1967年度)最強者決定戦の準決勝で前回優勝者の内藤國雄を破るが、決勝三番勝負で山田に敗れる。
第9期(1968年度)王位戦で、大山に2度目の挑戦(2勝4敗で敗退)。また、第23期(1968年度)A級順位戦で8勝2敗で優勝し、ついに、名人戦七番勝負(第28期名人戦)の舞台で大山名人と戦う。3勝2敗として大山を追い詰めるが、そこから2連敗で惜敗。
第17回(1969年度)王座戦で決勝三番勝負に進出。中原誠に1勝2敗で敗れる。同年、第9回最強者決定戦の決勝三番勝負では大友昇を2勝0敗で破り、優勝。
第21期(1971年度)王将リーグで、内藤、升田、二上らに勝ち、5勝2敗の1位タイ。プレーオフで中原を破り、王将戦七番勝負に初登場。大山王将に3勝4敗で敗退。これ以降、大山とのタイトル戦での対決はなく、師匠の壁を打ち破ることはできなかった。
第12回(1972年度)最強者決定戦で、決勝三番勝負で原田泰夫を2勝1敗で破り、同棋戦で2度目の優勝。
第21期(1972年度後期)棋聖戦 で中原棋聖(名人・十段と合わせ、三冠王)に挑戦。五番勝負では2連敗の後に3連勝し、タイトル奪取(1973年2月5日)。初タイトル獲得時の37歳は当時の高齢記録[注 3]。師匠の大山も多数回のタイトル獲得歴があり、師弟ともにタイトル獲得歴を有するのは史上初[注 4]。師弟が同時期にタイトル保持者であった唯一の例[注 5][注 6]。しかし、翌期は米長邦雄に棋聖のタイトルを奪われてしまう(一方の米長は、これが初のタイトル獲得であった)。結果的に、これが棋士人生で唯一のタイトル獲得歴となった。
第13期(1974年度)から第17期(1978年度)まで、トッププロが名を連ねる十段リーグに連続在籍。
第25期(1975年度)王将リーグで、大山、二上らに勝ち、5勝2敗の1位タイ。プレーオフで大山に勝ち、中原王将に挑戦するが、七番勝負は1勝4敗で敗退。また、第27期(1977年度)王将リーグでは、米長邦雄、加藤一二三らに勝ち、6勝1敗で挑戦権を得るが、中原王将に2勝4敗で、またも敗退。第32期(1978年度前期)棋聖戦でも中原棋聖に挑戦し、五番勝負は0勝3敗で敗退。これが有吉の、最後のタイトル戦登場となった。
第3回(1976年度)名将戦の決勝で大山を2勝0敗で破り、優勝。同棋戦では、第6回(1979年度)でも大山と決勝を戦い、そのときは0勝2敗で敗れている。
1978年度、テレビ棋戦の第12回早指し将棋選手権で優勝(準決勝の相手は中原、決勝の相手は大山)。1980年度には、同じくテレビ棋戦の第30回NHK杯戦で優勝(決勝の相手は中原)。
1984年、49歳にして史上初の公式戦20連勝の記録を樹立[注 7]。同時期に、第7回(1984年度)オールスター勝ち抜き戦で歴代1位タイ(当時)の11人抜きを達成(5人抜き以上は優勝扱い)。また、第43期(1984年度)B級1組順位戦で9勝3敗で1位となり、A級に復帰。
第36期(1986年度)王将戦の二次予選決勝で大山を破り、王将リーグ入り。
第21回(1987年度)早指し将棋選手権で、52歳にして2度目の優勝。破った相手は、二上、中原、中村修(準決勝)、森下卓(決勝)ら。
第48期(1989年度)B級1組順位戦で10勝2敗で1位となり、55歳にしてA級に2度目の復帰。以降、61歳までA級に在位した。なお、この間(1992年度のリーグ戦の途中)に大山が逝去し、有吉に不戦勝が記録されている。
第12回(1991年度)JT将棋日本シリーズで決勝進出。羽生善治に敗れ、準優勝。
引退間際の戦い
2003年度(第62期)C級1組順位戦で2勝8敗、2004年度には1勝9敗の成績で2期連続の降級点を取り、C級2組へ降級。2005年度(第64期)C級2組でも1勝9敗で降級点を取った。ところが、2006年度(第65期)C級2組順位戦では一転して7勝3敗の成績を収め、順位戦勝ち越しの最高齢記録(71歳)を樹立した。しかし、2007年度には10戦全敗で降級点が累積2点となり引退の危機となった(通常はC級2組から陥落するとフリークラスの棋士になるが、有吉の年齢がすでにフリークラスの定年を超えていたため)。
そして迎えた2008年度の第67期順位戦C級2組最終局(2009年3月10日)は、負ければ3勝7敗で降級点累積3点となり、規定により引退の可能性大という戦いとなった[注 8]。一方、有吉の対局相手は、自身が勝てば昇級という新鋭の高崎一生であったため、この一番は大いに注目され、対局場所の関西将棋会館には数多くの報道陣が集まった。結果は有吉の勝ち。対局後のインタビューでは「将棋そのものが好きだし、面白い」と、現役続行の意欲を語った。有吉の将棋への情熱に対し、谷川浩司は「棋士室で若手棋士と研究会に励む姿は、これからも多くのメッセージを与える事でしょう」とコメントした。
しかし、翌2009年度(第68期)のC級2組順位戦では序盤から苦戦が続き、9回戦の松本佳介との対局に破れて、最終局を待たずにC級2組からの降級及び引退が決まった(最終成績は2勝8敗)[3]。日本将棋連盟による当初の発表では、引退の日付は2010年3月31日とされていたが、2010年2月23日、NHK杯戦予選を3連勝で通過し、本戦出場。これを受けて、2日後の2月25日、連盟は引退規定の変更を発表し、最終対局日(テレビ棋戦の場合は放映日)まで引退そのものも延長することとした(棋士 (将棋)#引退、引退#将棋 も参照 )[4]。なお、74歳でのNHK杯本戦出場は丸田祐三の73歳を更新する史上最高齢記録となった。また、3月24日には棋王戦予選3回戦で村田智弘を破り、棋王戦でも現役を続行出来るようになった。
一方、2010年3月2日の第23期竜王戦5組昇級者決定戦・浦野真彦七段との対局で、2手続けて指す反則(二手指し)を犯して敗れた。通算999敗目となったこの敗戦の総手数は、わずか17手だった[5]。なお、二手指しはプロの公式棋戦では、二歩に次いで2番目に多く発生している反則である[6]。
2010年3月9日の第68期順位戦C級2組最終10回戦(対・村中秀史六段)が、ちょうど通算1000敗目(1086勝)となった。これは加藤一二三以来、史上2人目である(1000勝と1000敗の両方を記録した棋士としても2人目)。この記録は、現役年数が長いことだけでなく、タイトル戦などの番勝負や、王位戦、王将戦、十段戦の挑戦者決定リーグに数多く登場したことを反映している[7]。
同年4月30日の竜王戦5組残留決定戦で勝ち、相手の木下浩一を6組に降級させ、自らは次期竜王戦に出場できないにもかかわらず、5組に「残留」した[注 9]。5月23日のNHK杯本戦1回戦で高橋道雄に、翌5月24日の棋王戦予選4回戦で矢倉規広に、それぞれ敗れ、引退決定時点で出場中だった全棋戦を終了した[8]。引退決定となる対局からなお10局を指し、6勝4敗と生涯勝率を上回る結果を残した。
2022年9月27日、誤嚥性肺炎のため兵庫県西宮市内の病院で死去。87歳没[9]。
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棋風
自玉を堅く囲った後、一転して猛烈に攻める棋風で、「火の玉流」と言われる。矢倉戦の先手番で右の銀を▲4六から使う戦法は「有吉流」と言われる。対振り飛車では玉頭位取り戦法を好み、著書も出している。
人物・エピソード
- 1974年から1989年の長きに渡って日本将棋連盟常務理事を務めた。
- 趣味は毎日欠かさない散歩。
- 2007年の第66期順位戦C級2組2回戦で東和男七段と対戦した際に、東が先手番であるにもかかわらず後手の有吉が1手目を指してしまい、反則負けした。
- 1993年の倉敷市大山名人記念館開設時に館長に就任。生前は名誉館長であった[10]。
弟子
棋士
(2022年4月1日現在)
女流棋士となった弟子
(2024年9月3日現在)
昇段履歴
主な成績
要約
視点
通算成績
- 2090戦 1088勝1002敗 勝率 0.5206
獲得タイトル
- 棋聖 1期(第21期-1972年度後期)
- タイトル戦登場回数9、獲得1
一般棋戦優勝
- NHK杯戦 1回(1980年度 = 第30回)
- 早指し将棋選手権 2回(1978年度 = 第12回、1987年度)
- 勝抜戦5勝以上 1回(1984年度 = 第7回)
- 高松宮賞争奪選手権戦 2回 - 1961年度(第6回)高松宮賞、1966年度(第11回)優勝
- 最強者決定戦 2回(1969年度 = 第9回、1972年度)
- 名将戦 1回(1976年度 = 第3回)
- 優勝合計9回
在籍クラス
→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
将棋大賞
- 第8回(1980年度) 連勝賞
- 第12回(1984年度) 勝率第一位賞・最多勝利賞・連勝賞・技能賞
記録
- 順位戦最年長勝ち越し(C級2組、71歳)
- NHK杯戦本戦最年長出場(74歳)
日本将棋連盟 表彰
(日本将棋連盟以外の表彰等は「#表彰等」参照)
- 勝数表彰
- 1980年将棋栄誉賞、受賞は1984年の賞創設時)[注 10] - 通算 600勝達成(
- 1987年10月5日 - 通算 800勝達成(将棋栄誉敢闘賞)[13][14][注 10]
- 2001年3月5日 - 通算1000勝達成(特別将棋栄誉賞)[15][注 10]
- 現役勤続表彰
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表彰等
著作
脚注
関連項目
外部リンク
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