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オメガトライブ
日本のアダルトオリエンテッドロック・プロジェクト (1980-) ウィキペディアから
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オメガトライブ(OMEGA TRIBE)は、1980年代前半から1990年代前半にかけて日本で活動したバンドであり、プロデューサー藤田浩一の総合指揮の下、作曲家林哲司並びに和泉常寛、アレンジャー新川博らの制作陣を中心としたプロジェクトの総称。
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
「オメガトライブ」とは実質的にプロデューサー「藤田浩一」そのものであり、その指揮の下、制作陣から生み出された楽曲を藤田が最終カスタマイズし、杉山、カルロス、新井の3名のボーカルが歌う方式でCDが作られている。
一般的にはサザンオールスターズやTUBEと並んで「夏バンド」のイメージが強い。
概要
夏・海・リゾートをテーマとした彼らの作品の数々は、『サザンオールスターズ』や『TUBE』[注 1]と共に日本のサマー・ソングのヒット曲として知られている。
杉山清貴をボーカルとするアマチュアバンド「きゅうてぃぱんちょす」は1980年「第19回ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)」入賞後、メジャーデビューのオファーを受けながらもオリジナル楽曲の完成度に納得できず、誘いを断っていた。プロデューサー・藤田浩一はポプコン入賞以降同バンドに注目しており、デビュー条件としてプロによる提供楽曲の演奏を提示。バンドはこれを受け、「杉山清貴&オメガトライブ」と名を変え、1983年4月にレコードデビューした[1]。
藤田は、1980年代に角松敏生やオメガトライブ、菊池桃子を擁した芸能事務所トライアングル・プロダクションの代表。藤田が関わる業務は、作詞家や作曲家、アレンジャーとのプリプロダクションからレコーディング・スタジオでのミュージシャンへの指示やエンジニアへの注文、レコード・ジャケットの決定からマーケット戦略まで多岐に亘っており、全ての最終決定権は藤田にあった[注 2][注 3]。
バンド名称の名付け親は、藤田と親しいハワイのカリスマDJのカマサミ・コング[2]。
メンバーは候補に挙がった中の「タイクス」という名前を気に入っていたが、藤田が「オメガトライブ」に決めた。「オメガトライブ」とは、「オメガ」(Ω, ω)=ギリシャアルファベットの最後の文字(「最後」を意味する)と、「トライブ」=種族を合わせ「最後の種族」という意味がある[注 4]。詳細は後述。
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「オメガトライブ」というプロジェクト
杉山清貴&オメガトライブのメンバーは、後日「”オメガトライブ”は、バンドでは無く、プロジェクトであり、自分達はその一員であった。」と答えている[3][4][5]。
藤田が考えるオメガトライブというプロジェクトを、林哲司主導の下で楽曲制作を行う。またレコーディングではプロデューサーである藤田浩一の製作に対する要求が高い為に[5]、バックコーラスも含めプロのスタジオ・ミュージシャンが演奏したため、ボーカルの杉山以外のメンバーはレコーディングに関わっておらず、アマチュアバンド「きゅうてぃぱんちょす」のメンバーは、バンド名や制作した楽曲を全て封印し[注 5]、「オメガトライブ」を演じるバンドになった[4]。
バンドは名付けられ、オリジナル作品は制作出来ず[4]、作品は準備され[注 6]、演奏はスタジオ・ミュージシャンの演奏をなぞる[注 7]。ビジュアル・イメージは絶えず「海」「夏」「リゾート」がつきまとう[6]。
そのため、メンバーは「楽曲を与えてもらって、それを売らなきゃいけない使命感が物凄くあって、その使命感の中で疲れ果てて」しまい、また「いつか売れたら、自分たちで曲を作り、演奏もしたい。そこで挫折したら自分たちの責任だし納得もする。ところが、売れたらますますその願いは叶わず、いつしか与えられるだけで、なにも制作に関与しない[5]」と言う状況が続いた。またデビュー後の楽曲は他人から作ってもらっていたため、俯瞰の目で自分たちを見ながら、曲が売れても他人事のような感覚だった為、『このまま俺たちやってて、どうするんだろう?』と思い、「自分たちで楽曲作ってないし、アルバムではちょっと作ってるが、メインではない。楽曲から見放されたら自分たちに何にも残らない」と思った時に、メンバー同士でツアー中の飲みの席で『じゃあ今売れてる内に解散しようぜ!』と杉山より解散を切り出し、「年内(1985年)一杯で解散すること」をメンバーだけで決意、その意思をプロデューサーかつ社長である藤田に報告、吉田が一足先に脱退後、1985年12月24日で解散となった[7] [8]。解散を切り出したのは杉山、解散に賛成は廣石と大島と吉田、反対は高島と西原であったが、最終的に満場一致での解散となった。その後、杉山はソロ活動を開始し、高島と西原の活動継続の意向を尊重した藤田の意向があり、新たに加入したカルロス・トシキ、黒川照家と共に「1986オメガトライブ」の一員となった。また大島・廣石・吉田は藤田のもとを離れてそれぞれの活動を開始した。
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杉山清貴&オメガトライブ
要約
視点
メンバー
- サポートメンバー
- 大阪哲也(キーボード)…ライブCD『The open air live "High & High 2018" Complete』より、オリジナルメンバーと共にメインビジュアルに登場している。メンバーカラーは、 ピンク
- Juny-a(パーカッション、サックス)…本名、旧芸名は、近藤淳也。2024年のライブツアー『~FIRST FINALE TOUR 2024~ “LIVE EMOTION”』より参加。メンバーカラーは、 紫
- 小川幸夫(ドラムス)…通称 GAAA(ガー)、2024年のライブツアー『~FIRST FINALE TOUR 2024~ “LIVE EMOTION”』より廣石の代役で参加して以来、現在も参加している。メンバーカラーは、 白
略歴
1978年12月結成。この時期は現在芸術音楽の作曲家である千住明や後にSugarを結成する長沢久美子(クミ)と毛利公子(モーリ)も在籍していた。
1980年5月に前身となるバンド「きゅうてぃぱんちょす」にて第19回ヤマハポピュラーソングコンテストに入賞。同年10月第20回ポプコンでは落選するが、プロデューサー藤田浩一の目に止まることとなった。キーボードの千住はプロへ直結するポプコン優勝を逃したことから、在籍していた慶応義塾大学から東京芸術大学への受験により音楽家になることを希望し、グループを離れる[10]。キーボード担当は西原俊次が新たに加わり、グループとしてプロデビューを目指した。
1983年4月、藤田の第1弾プロジェクト『杉山清貴&オメガトライブ』としてレコードデビューする。
- なお、「オメガトライブ」という名前は「バンド名の候補でも一番下にあった名前」であった(後に杉山自身が公言している)。1985年12月、プロデューサーとメンバーとの方向性の違いにより、横浜文化体育館のライブを最後に解散。
代表曲としては、1983年4月「SUMMER SUSPICION」、1984年1月「君のハートはマリンブルー」、1985年3月「ふたりの夏物語 -NEVER ENDING SUMMER-」(最大のヒット曲)など。
2004年2月、杉山の呼びかけにより、杉山清貴&オメガトライブを再集結し(前座:きゅうてぃぱんちょす)、2月11日NHKホール、2月14日愛知厚生年金会館、2月15日大阪厚生年金会館に於いて、『First Finale2 〜オメガとライブ〜』と題したコンサートを行う[11]。
2018年5月5日、日比谷野外大音楽堂での杉山の野外ライブ「The open air live "High & High 2018"」を、デビュー35周年記念として杉山清貴&オメガトライブ名義にて行なう[12]。
2019年5月5日、前年同様日比谷野外大音楽堂でライブを開催[13]。
2019年には12会場13公演に及ぶ全国ツアーを開催。
2024年に結成40周年を迎えるに当たり、2021年9月29日発売の『AQUA CITY REMIX』を皮切りに、『40周年シリーズ』の企画をスタート[14]。2023年までに発売されるCDに付随している帯を集めると、40周年を迎える2023年に行われる企画に参加出来るようになっている[15]。
2024年3月9日よりライブツアー「杉⼭清貴&オメガトライブ〜FIRST FINALE TOUR 2024〜“LIVE EMOTION”」を開催した。
2024年5月9日に40年ぶりに「杉⼭清貴&オメガトライブ」名義でテレビ出演することが発表された[16]。
2025年3月16日、ドラムの廣石恵一が脳出血で死去、享年64歳[9]。
2004年以降、再形成ライブや、何らかの形でのメンバーの共演を行なったりはしているが、「オメガトライブ」名義での新作は製作しないことを公言している。杉山は「オメガトライブというのは、2年8ヶ月の中で作品は完結しており、藤田(プロデューサー)が作った世界なので、藤田がいなければオメガトライブは引き継げない。林哲司や自分達が作ったら、それはオメガトライブじゃなくなる。プロデューサーの思いがすべて集結したものなので、藤田が亡くなってしまった今は、新作はありえない」とインタビューで答えている[17]。こうした経緯もあり、デビュー前にヤマハポピュラーソングコンテストで披露し、再結成時に正式に新曲として録音した『乗り遅れた747』は前身バンド名の『きゅうてぃぱんちょす』名義を使用した。
エピソード
「きゅうてぃぱんちょす」結成とポプコン
1978年、後にオメガトライブのメンバーとなる吉田健ニは高校3年生で、アマチュアでバンド活動をしていた[2]。吉田は、別バンドのベーシストをする兄から「12月に久保講堂(霞が関)でコンサートをやるから、前座をやってくれ」と言われた[2]。この参加メンバーを集めるため、吉田はバンド仲間などに声をかけたがヴォーカル担当が見つからなかった[2]。吉田は、歌が上手い1年先輩の杉山清貴にダメ元でヴォーカルを依頼すると、彼が「うん、いいよ」と承諾したことで17人による寄せ集めバンドができた[2]。このバンドは上記の前座だけやって解散する予定だったため、吉田たちは深く考えずにバンド名を「きゅうてぃぱんちょす」に決めた[2]。
その当日である1978年12月23日、ロックの聖地とも呼ばれる久保講堂でコンサートの前座として出演し、会場を沸かせた[2]。この一日で解散するはずだったが終了後、バンドメンバーのうち杉山や吉田など数人が「もう少しバンド活動を続けよう」と言い出したことから、バンドの継続が急遽決定[2]。後日、上記のライブ演奏の録音カセットを聴いたヤマハのディレクターから、当時プロアーティストへの登竜門だったヤマハポピュラーソングコンテスト(以下、ポプコン)への参加を勧められた[2]。1979年の秋、第18回大会で初出場した後、さらに練習を積んで第19回大会に出場して『GOSPELの夜』で入賞[注 9]。
第20回大会にも出場してポプコン3大会連続で本戦出場したことで、トライアングルプロダクション社長兼プロデューサー・藤田浩一からプロデビューの話を持ちかけられた[2]。藤田には当時手掛けたい音楽があり、それを具現化するヴォーカリストを探していたが、杉山は『バンドでやれない(杉山だけソロ歌手としてデビューする)ならイヤです』と断った[2]。この杉山の意志に藤田が折れ、メンバー全員[注 10]でのデビューが決まった[2]。
デビュー後の音楽活動
オメガトライブの楽曲は都会的な大人のロック「AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)」で、デビュー曲の作詞は康珍化、作曲は林哲司が手掛けることが決まった[注 11]。デビューにあたり、杉山たちメンバーは当初バンド名を「ラグーン」に改名しようとしたが、直後に事務所から「『(杉山の名前を付けない)オメガトライブ』に決めたから」と告げられた[2]。
また事務所からは、「オメガトライブ」が発表する楽曲は作詞作曲を外部の人が行い、レコーディングではプロのスタジオミュージシャンによる演奏を使うことも伝えられた[注 12]。杉山はそれまでロックテイストの歌い方をしていたが、デビュー時のレコーディングの際、藤田から「声を張るな、抑えろ」と指示されるなどして歌い方を変えた[2]。コンサートなど人前でパフォーマンスを披露する時はスタジオミュージシャンの手を借りるわけにはいかないため、観客から“レコードと演奏レベルが違う”と言われないよう、メンバー全員猛練習して演奏技術を磨いた[2]。
1983年のデビュー直前、メンバーの知らぬ間に藤田によりバンド名を「杉山清貴&オメガトライブ」に変更されていた[注 13]。また、当時世間では「トライブ」という単語が耳慣れないこともあって、しばらくの間周りからバンド名を「オメガドライブ」と間違えられることがよくあった[2]。
プロジェクトには明確なイメージ戦略があり、バンドに「夏」、「海」、「リゾート」、「都会」というイメージがつけられた[2]。また、メンバーのほとんどが横浜育ちだが、仕事で人前に出る時は上記イメージに合う“湘南の若者”として振る舞うことが求められたという[注 14]。
解散
その後歌番組での活躍やヒット曲に恵まれたため、周りからバンド活動は好調に思われた[2]。しかし、メンバーはライブを重ねて演奏技術が上がったと感じて「自分たちの演奏でレコーディングしたい」と何度も直訴したが、却下される状況が続いた[2]。1985年、これらの活動形態に杉山[注 15]を含めた数人が限界を感じ、ツアー中に杉山はメンバーたちに解散を切り出し、当初は反対するメンバーもいたが話合いにより解散する方向でまとまった[2]。ただし吉田健二だけは、正式な解散を待たずにツアー途中にオメガトライブを脱退した[注 16][注 17]。藤田たちプロジェクト関係者は、杉山たちから解散の申し出を聞いて引き止めたが、メンバーたちの強い意志を感じて藤田側も正式に解散を決定[2]。
1985年12月24日に「杉山清貴&オメガトライブ」は解散したが事務所との契約自体は残っていたため、杉山はシンガー・ソングライターとしてソロ活動することになった[2]。高島・西原は新ボーカルにカルロス・トシキを迎え、『1986オメガトライブ』として再出発することとなった[2]。吉田・大島・廣石は退社・移籍を選択した。
近年のツアーでは、「Last」や「FINAL」、「FINALE」といった「これが最後」と思わせるタイトルを付けているが、杉山は『言葉遊びですよ(笑)。真剣に受け取ってしまっても、そうじゃなくても結構ですよという気持ちです。』と語っている[18]。また杉山は、『オメガトライブは「解散」したが、「再結成」はしていない』と語っており、メンバーが集まった時は「再集結」と表現される事が多い。
主な制作陣
作品
シングル
スタジオ・アルバム
ベスト・アルバム
ライブ・アルバム
リミックス・アルバム
ボックス・セット
合同オメガトライブ・アルバム
映像作品
コンサート
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1986オメガトライブ/カルロス・トシキ&オメガトライブ
要約
視点
メンバー
過去に在籍したメンバー
略歴
1986年、前オメガトライブに在籍していた高島信二(ギター)、西原俊次(キーボード)に加え、新たに日系ブラジル人のカルロス・トシキと、菊池桃子のバックバンドや岩崎宏美のバックバンド(パイナップル・カンパニー)でギターを担当していた黒川照家を迎え、プロデューサー藤田浩一の第2弾プロジェクト『1986オメガトライブ』(ナインティーンエイティシックス - )としてデビュー。
1987年に『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のコンサート(国営昭和記念公園特設ステージ)で、杉山清貴とのジョイントが実現(杉山のソロアルバム「realtime to paradise」収録「THE DREAM」を歌唱。アコースティック楽曲のため、バンドメンバーは演奏せず)。
1988年3月、黒川がバンドを脱退。グループ名を『カルロス・トシキ&オメガトライブ』に変更する。
- 改名の理由として、「黒川が脱退した以上、1986オメガトライブではなくなった」こと、「(1986という)ネーミングが古くなってきた」ことが挙げられている。
- なお、改名に当たりスタッフとしては「もっとカルロスを全面に押し出したい」という意向があったが、本人たちは「あくまでも3人のバンド」と考えていたため、スタッフの思惑通りにはいかなかったようである。
1988年7月、レコーディングにコーラスとして参加していたジョイ・マッコイが正式に加入する。
1990年、ワーナー・パイオニアへ移籍[注 21]。松任谷由実が作詞・作曲した「時はかげろう」を発表後、ファイナルツアーを行ない、1991年3月16日日清パワーステーションでのライブを最後に解散。1990年12月14日放送の『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)にて解散発表を行った。
2005年3月9日、ファンサイト『カルロストシキUNOFFICIAL WEBSITE』(管理人HIROAKI、シンイチ、ゆうちゃん)の呼びかけを中心とした署名活動により、発売された楽曲[注 22]が全曲[注 23]収録されたCD+PVや『歌のトップテン』に出演した時の映像を納めたDVDを収めた『COMPLETE BOX "Our Graduation"』を発売する。
代表曲は「君は1000%」(1986オメガトライブ)「アクアマリンのままでいて」(カルロス・トシキ&オメガトライブ)など多数。
主な制作陣
作品
シングル
1986オメガトライブ
カルロス・トシキ&オメガトライブ
アルバム
1986オメガトライブ
オリジナル・アルバム
コンピレーション・アルバム
カルロス・トシキ&オメガトライブ
オリジナル・アルバム
ベスト・アルバム
ライブ・アルバム
合同オメガトライブ
ベスト・アルバム
ボックス・セット
コンサート [82]
その他
1986オメガトライブ
- 24時間テレビ 「愛は地球を救う」(日本テレビ)
- 9(1986年8月16日)テレビ新潟からの出演
- 10(1987年8月22日)SAVE THE CHILDRENコンサート
- OMEGA TRIBEの青春1000%(1986年10月12日 文化放送)
- カルロス・トシキ&オメガトライブの今日もBe With You!!(文化放送)
書籍
1986オメガトライブ
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ブランニュー・オメガトライブ (BRAND NEW OMEGA TRIBE/BNOT)
メンバー
1993年、かつてパルで活動、ソロとして『機動戦士ガンダムΖΖ』の主題歌「アニメじゃない -夢を忘れた古い地球人よ-」を担当した新井正人をボーカルに迎え、プロデューサー藤田の第3弾プロジェクトとしてスタート。第3弾「オメガトライブ」はバンドの形はとらず、新井のソロプロジェクトであり、藤田浩一プロデューサーの指揮の下、第1弾、第2弾制作陣が脇を固める構成となっている。
主な制作陣
シングル
アルバム
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番外オメガトライブ「D.O.M.E.」
メンバー
略歴
1992年、三上哲をボーカルに迎え、オメガトライブ生え抜きメンバーの高島信二、西原俊次の3名により結成する。「ドーム」と読む[84]。英語表記では「Deconstructed OMEGA by Mints Entertainment」の略称とされていた。シングル「女神達に逢える日」とアルバム『DOME』を、NECアベニューからリリースした。その間、高島はビーイングでプロデューサー・ディレクターとしての活動を始めていた。
シングル
アルバム
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番外オメガトライブ「WEATHER SIDE」
メンバー
略歴
1994年、高島・西原は高取秀明をボーカルに迎え、「WEATHER SIDE」を結成する。1996年に解散するまでアルバム・シングル各3枚をリリースした。作詞は高取が、作曲は高島・西原が、編曲は亀田誠治が中心となっていた。
シングル
アルバム
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番外オメガトライブ「Wオメガ」
メンバー
略歴
ブランニュー・オメガトライブのボーカル新井正人と1986オメガトライブのギター黒川照家にて結成したユニット。2009年に自主制作アルバム『Again』を発売した。
関連項目
オメガトライブ関連
- バップ
- 夜のヒットスタジオ出演歌手一覧
- J-LOVE Super Collection
- J-POP CAFE
- J-POP STATION
- なんでもQ(西原俊次が関連)
- 田原俊彦(西原俊次がスタッフとして参加)
- 秋元康
- 池田政典(トライアングルプロダクションの後輩で、ラジオ「オメガトライブの青春1000%」で最も多くゲスト出演している。高島信二が「池田政典ベストナウ」に参加)
- Bon-Bon Blanco(高島信二がスタッフとして参加・2009年に活動休止)
- TUBE(高島信二がスタッフとして参加)
- Naifu(高島信二がスタッフ、コーラスとして参加)
- 君はレゲエ1000% (1995年に発売されたオメガトライブのカヴァーアルバム)
杉山清貴&オメガトライブ関連
1986オメガトライブ / カルロス・トシキ&オメガトライブ関連
- ワーナーミュージック・ジャパン
- 河内淳一のディスコグラフィ(ジョイ・マッコイが関連)
- 新井正人(1986オメガトライブの黒川照家とWオメガ結成)
- 日浦孝則(1986オメガトライブの黒川照家、ブランニュー・オメガトライブの新井正人が関連)
- 天国のドア(「時はかげろう」が関連)
- 夏歌
- ALWAYS WITH YOU 〜いつも心に青春の歌〜
- Hits on TV
- 花の降る午後 オリジナルサウンドトラック
- 有川正沙子
- 1001%ドラゴンズ(番組名の由来)
- マーティー・ブレイシー(サポートドラマー)
BRAND NEW OMEGA TRIBE関連
- 日浦孝則(Voの最終選考に残った)
WEATHER SIDE関連
- 亀田誠治(シングル・アルバム全曲でWEATHER SIDEと共同編曲)
脚注
参考文献
外部リンク
Wikiwand - on
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