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稚児

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稚児(ちご)は元々は乳児、幼い子供を意味し、寺院や公家・武家に仕える少年を意味するようになり、寺院の稚児は僧の男色の相手をする場合があったことから、男色の相手をする少年の意味が派生したと考えられる[1][2]。概ね、以下の意味がある。

  • 乳児赤子のこと[2]。稚児の語源は「乳子(ちご)」で、乳児から、やや成長した子ども・童児まで稚児と呼ばれた[2]
  • 寺院に仕える少年[2]公家武家で側仕えとして置かれた少年(寺院の稚児を真似たと言われる)[2]。寺院で僧の男色の対象となる場合があり、とも呼ばれた[2]。近世には寺小姓とも。 → 下記 寺院における稚児 参照
    • 転じて、一般に男色の対象とされる少年の意[2]
  • 社寺の祭礼・法会などの際に天童に扮し、神饌の献納や舞踊の奉納をしたり、行列に加わって練り歩いたりする童児[2]。→ 下記 祭りにおける稚児 参照

童子は、「人間の世界からみた野性、不可視の異界にかかわる境界性を持ち、異界から来訪していまだ(この世の)成員として認知されていない外来性を帯び、この世と異界とをつなぐ媒介性を備えた存在」であり、境界的、媒介・通路的な存在であった[3][4]

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寺院における稚児

要約
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稚児物語(児物語)の『秋夜長物語』。1400年頃
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稚児之草子絵巻』、僧侶と稚児の春画絵巻。真言宗京都醍醐寺蔵[5]
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牛若丸。歌川国芳、1852年

概要

平安時代頃から、真言宗天台宗等の大規模寺院において、剃髪しない少年修行(12~18歳くらい)が現れはじめ、稚児と呼ばれるようになった。童子は神霊がよりつきやすく、依り代として重宝され神事に奉仕し、祭礼などで美しく装って行列を組んだり、舞を舞うなどした[1]。稚児は大法会の際に舞楽散楽延年を上演する場合が多く、他の寺の僧侶からも注目を集めた。

稚児とは、学問や躾のために寺院に預けられた少年であり、僧が学問を教え、芸事や日々の生活を躾けていた。皇族や上位貴族の子弟が行儀見習いなどで寺に預けられる者、中流貴族出身で預けられる者、庶民階級の者が美貌などの一芸により雇われるものの三種類があり、皇族や上位貴族の子弟以外の稚児が性の対象となっていた[6]。僧の身の回りの世話をし、性の相手もする稚児は、天台宗や真言宗では「児」といい、禅宗律宗では喝食と呼ばれたが、内実は同じである[7]

仏教では悪行悪果、善行善果の因果応報の教えがあり、容貌の美しさは前世での善行の善果であるとみなされ、美は尊敬すべきことと考えられていた[8][注釈 1]。中世の僧は醜貌の職業であったとも言われ、平松隆円は、小頭、斜視奇形、短躯などの身体的特徴が生来的に犯罪者の特徴とされ社会不適合者をみなされることもあり、こうした特徴を持つ人が家族や地域共同体により寺に預けられ、寺には醜貌のものが集まっていたと推定し、その中で前世の善行で美貌に生まれた稚児は羨望の存在であり、こうした稚児との性交には救済の道という意味があったのではないかと述べている[9]。美少年を大金を対価に稚児にしようと口説いた僧や、金品を強奪するだけでなく美少年を誘拐する熊野僧兵の存在も残されており、また謡曲『花月』における、英彦山天狗の神隠しにあい京都清水寺の稚児となった少年のエピソードがあるが、この天狗とは、少年を誘拐した人買いか山伏の比喩だと言われる[10]。僧は美しい稚児をそばに置きたいと願い、少年の買い取りも行っており、人買いがその供給を担っていた[10]。また飢饉の際には、口減らしのための子捨て・子売り、子どもを誘拐して売るといったことが日常的に行われており、子別れは珍しい事ではなかった[11]

稚児の髪形垂髪、または、稚児髷で、平安貴族女性と同様の化粧をし(お歯黒も付ける場合もあった)、極彩色の水干を着た。又、女装する場合もあり、その場合、少女と見分けがつきにくかった。稚児は「容顔才知ともにすぐれ遊戯をたしなみ管弦音曲をよくする者」が最上とされた[3]。稚児は美しいだけでなく、知性があり、僧の身辺の世話が十分できる必要があり、今東光は、僧には師弟契約を結んだ稚児を育てる責任があり、古来より寺には稚児の教育の厳しい掟があり、振る舞いや心遣いを教育したと述べている[12]。こうした稚児の育て方、守るべき掟は、守覚法親王の『右記』などで詳細を知ることができる[12]。厳しく細かい掟を稚児が守ることができなくても、それは稚児ではなく僧の責任とされた[12]。一方稚児は、父子関係や君臣関係のように主人である僧に奉仕し、心身共に従属することが求められた[12]延年舞は、僧が手塩にかけて育てた自分の稚児を自慢する機会になっており、稚児の品評会の面があったとも推定され、稚児の評価は主人である僧の評価につながったと思われる[13]

稚児文化(稚児物語)は、天台宗の寺院に源がある[14]。仏教では初期仏教以来、修行の妨げになることを避けるために、性交を禁じる不淫戒があり、特に僧が女性と性交することは「女犯」として戒律で禁じられていた[15]。また仏教で女性は穢れた不浄な生き物と考えられていた[15]。日本で僧と寺院は国家統治の理念として重要な存在で、国家により特権を与えられ保護されていたため、僧は教団だけでなく国家から法的に性を制約され、処罰されるという面もあった[15]。例えば『公事方御定書』では、女犯の罪を犯した僧は島流し、修行僧は日本橋で晒し者にした後僧籍を剝奪し裸で追放、既婚の女性と性交した僧は、斬首後に首を刑場で晒し遺体は刀の試し切りに使うとされていた[15][注釈 2]。こうしたことから、僧は女性との性交を避けるために、身の回りの世話をしていた少年、稚児を性愛の対象としてきたといわれる[5]

真言宗天台宗等の大規模寺院は修行の場であるため山間部にあり、また、女人禁制であるため、稚児はいわば「男性社会における女性的な存在」となり、しばしば男色の対象とされた(ただし上稚児は対象外)。中世以降の禅林禅宗寺院)や華厳宗などにおいても、稚児・喝食は主に男色、衆道の対象であった。なお、当時の寺院社会には僧侶同士の恋愛はみられず、小山聡子は、稚児は単なる女性の代わりではなかったのだろうと述べている[17]。天台宗では、秘儀「児灌頂」(稚児灌頂)を受けた少年が稚児とされ、神聖なる菩提山王(日吉社の神で、山王信仰山王神道の童形の神十禅師)の化現、観音菩薩と同体である神聖な存在となり、僧侶に性愛を通じて救いを与えると考えられていた[18][19]。稚児は「神とつながり、祭祀と政治をつなぎ、呪宝の相伝にかかわり、その一切が寵童としての身体に集中する」といった存在であった[3]

禅宗大徳寺一休宗純も美少年を愛で遊んでおり、浄土宗門主の知恩院宮尊昭法親王も山科桃丸という稚児を持ち、『徒然草』の吉田兼好も命松丸という稚児を寵愛する等、稚児を持ち昼夜身辺を世話させることは、宗派・僧の身分に関係なく行われていた[20]華厳宗東大寺宗性のように、およそ100人の稚児と関係を持った僧侶もいたという。平安中期以降の説話集や和歌集には、少年である稚児と僧侶の恋愛に関わるものが数多く収められている[21]江の島の稚児ヶ淵は、鎌倉相承院の稚児白菊が鎌倉建長寺の僧自休に度重なる強引な求愛を受け、それを苦に入水自殺したことに由来する[22]。平松隆円によると、史料からは僧の性の対象である稚児として、生きるために僧の心を繋ぎ止めようとする打算と悲痛を見ることができるが、稚児が菩薩として性愛で僧を救うことを喜ぶような言葉はみられない[23]

稚児は成人に達すると還俗する場合が多いが、出家して住職となった者もいたようである。しかし、稚児が皆望むような道に進めたわけではなく、稚児のうち「大童子」は出家することはできず、老年になっても童姿で務めを果たしており、僧になれず童姿で生涯寺院で過ごすものも少なくなかった[24]興福寺尋尊が寵愛した稚児の愛満丸のように、寺院に僧籍のない正式ではない僧になる者もいた[24]

公家武家でも側近に稚児を置いたが、寺院の稚児をまねたものといわれる[2]。武家の稚児は小姓となり、武家の男色につながった[2]

時代的背景

阿部泰郎によると、稚児発生の史的背景は次のようなものである[3]

寺院が律令の枠を破って、あらたな神聖不可侵の祭儀を司どりつつ俗権を行使する機関として誕生したとき、当時の言葉で言えば、出世間(俗世の外)のみならず世間をも含む、複雑な階層をはらんだ社会が出現した。そこに、いわば聖界と俗界の中間もしくは未分化な状態というべき一身分が介在する余地が生まれた。[3]

日本の中世は大変革の時代であり、異界との直接的な接触やその希求により宗教改革が行われ、中世宗教の本質は、異界や神仏の世界にじかに触れる「通路性」にあった[4]。中世史家の佐藤弘夫は中世の精神史的特性を「権化(応化)」というキーワードで読み解いているが、権化とは「神仏などの超越的異界存在(彼岸)が生々しい具象性・身体性を伴ってこの世(此岸)に姿を顕すこと」である[4]。長山恵一は、「こうした異界・冥界への<通路性>という宗教/文化的文脈の中に稚児信仰・稚児文化・男色は位置づけられる」と述べている[4]

童子を重んじ、愛し、愛でることは、中世的な文化特性であり、主従関係や長子相続といった父(大人)と子(童子)をめぐる家族社会制度と深く関わるもので、こうした文化特性をただ単に男色と片付けることはできない(こうした文化特性が性的な色彩を帯びると、お小姓衆道などの男色文化となる。)[4]。長山恵一は、「幼童は異界・彼岸など超越世界への<通路>であり、チャンネルを開く装置」であり、「幼童を飾り立て、その美を愛でる心性は異界との接触・通路性が大きな動機」であると指摘している[25]

イエ制度との関わり

イエ制度は歴史的に、中世に生まれた経済社会的制度である[26]。中世には、各種産業、職業の分業化・専門化が起きており、貨幣経済の隆盛や都市の発展、流通の発達と不可分なものである[26]。イエ制度の誕生は、婚姻形態の変化だけでなく、技術や家職が専門化・高度化したことで、世代を超えて知識・技術を蓄積し、親子間で伝承する必要が生じたことと関係する[26]

母(女)は父(絶対者・カミ)と性で結びつき、子供とは生殖で結びついており(タマヨリヒメ)、女性にはあの世からこの世に新たな生命(胎児・稚児)をもたらすという生物学的な「通路性」がある[26]。母子の関係が明白であるのに対し、父子の関係は推定に過ぎず、不確かで、「社会的な約束事の中ではじめて成立する文化的な『幻想』」にすぎない[26]。長山恵一は、社会レベルで見ると稚児は、「(社会的・文化的な幻想である父-子的な)主従関係や長子相続、徒弟制といった経済社会的な制度や人間関係、さらには婚姻関係が絡み合い、世代を超えて知や技術、財産が伝承・相続される<通路性>の象徴」であると述べている[26]。多くの論者は、男色(衆道)は文化・芸能・宗教や武士社会の主従関係の結びつきの性的表現であり、生物学的な男女の性・母子関係に対し、より文化的と指摘している[26]

天台宗の児灌頂

天台宗では、少年を稚児という特別な存在に変える秘儀「児灌頂」(稚児灌頂)という儀式が行われたが、これは天皇即位の際に行われた天台即位法(即位灌頂)という秘儀に由来する、特別な存在になるための仏教儀式で、稚児を菩提山王(十禅師)の化身とする儀式である[27]。内容的には、阿闍梨が手ずから稚児に鉄漿(おはぐろ)を施し化粧を行うこと以外、ほぼ一般的な灌頂作法となっている[28]。児灌頂を受けた稚児は、十禅師が衆生救済のために稚児の姿を取って現れたものであり、慈悲をもって一切衆生を救う観音菩薩と同体とされ、衆生に慈悲を与える存在とされた[29][18][30][31]。児灌頂を受けた少年は「○○丸」と命名された。稚児は僧侶に性愛を通じて救いを与える存在であり、稚児との性的な行為は悟りに至るための宗教的な行為だと考えられていた[18]。僧は生身の稚児そのものを犯すのではなく、稚児の性を通して観音菩薩と契るとみなされており[30]、僧は児灌頂を受けた稚児との性交で性欲を含め煩悩を消し去ることができ、稚児との性交は救いであるとされた[23]。平松隆円は、菩薩の化身である稚児との性交は尊いという考えには、神に仕える者(巫女采女)との性交は神との交流を可能にするという日本の土着的思想の影響があると指摘している[32]

稚児は菩薩の化身としての宗教的な通路であり聖なる存在とみなされたが、同時に、「少年の肉体の陵辱というこの世の性的快楽(稚児愛・男色=性)と紙一重」であったと指摘されているである[14]。児灌頂で稚児は、衆生の救済を義務づけられ、拒めば仏・菩薩から罰が下されるとされているが、稚児にとって衆生とは特に僧を指すため、救済の方法が性交であるなら、稚児は僧との性交を拒めば仏罰が下るということである[33]。稚児は児灌頂だけで菩薩の位を得るのではなく、その後に僧と性交する必要があり、その事前準備、性交、後始末などの作法も伝えられている[33]。『稚児之草子』では、稚児が僧に身を捧げる徳が賞賛されており、拒めば仏罰が下るのであるから、相手がどのような僧であっても身を捧げなければならないとされた[33]

天台宗の総本山である比叡山の叡山文庫には、『児灌頂私』(元奥書 宝徳2年〔1450年〕)というタイトルの写本が伝わっており、前半は「児灌頂」の儀式と私記を記した「児灌頂私」、後半は稚児の立ち居振る舞いの決まりや、僧と稚児の性愛の作法などを記した「弘児聖教秘伝私」が収録されている[34]。(小説家で出家した今東光が「弘児聖教秘伝私」を下敷き小説『稚児』(1936年初出)を執筆、これにより文献の存在と内容が世間に知られるようになった[34]。)「弘児聖教秘伝私」は比叡山の源信著とされるが、偽作と考えられている[35]。なお、「弘児聖教秘伝私」は経典の形はとっていない[35]。稚児の性による救済を説く児灌頂の思想は、仏教経典には特に根拠がなく、仏教教義による十分な裏付けはない[36]

仏教の出家者に課される戒律のうち最重罪である「波羅夷罪」では、同性を含め性交が禁じられているため、本来僧にとって男色も重罪である[35]。本来は稚児である子供との性交も重罪であり、室町時代に成立したとされる『児灌頂式』(15-16世紀。成菩提院伝、彦根城博物館蔵)では、児灌頂を受けていない子供を犯すと三悪道に堕ちると説かれており、天台宗を中心とする寺院社会や貴族社会に非常に大きな影響を与えた『往生要集』(比叡山の源信著)では、子供に性的な関係を強要したり男同士で性関係を持ったものは地獄に堕ちる、と説かれていた[18][35]。しかし、当時影響の大きかった書物の中で、『往生要集』以外に僧侶と稚児の性関係を咎めたものはなく、特にタブー視されておらず、正当化には児灌頂の思想も寄与したと考えられる[37][35]。小山聡子は、稚児を観音菩薩とみなし神聖視する見方は平安時代からあり、僧侶と稚児の恋愛関係はこうした稚児の神聖視と関連するもので、女性を求めて悩む僧侶の夢に吉祥天が現れ契りを結び性的に救済する話(『日本霊異記』)等に見られる、諸尊による性の救済の思想の延長線上に成り立っていると推定している[37]親鸞の夢告では、女性と性交する時は如意輪観音がその女性になっているので破戒にはならず救済であると説かれるが、これは児灌頂の思想とよく似ている[23]。密教の立川流では、大日如来と一体化する儀式として性交が行われており、平松隆円は、児灌頂の思想は親鸞や立川流の延長線上にあるとみなしている[38]

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十禅師神、16世紀

日本の天台宗の開祖最澄が比叡山に初めて登った際に、最初に菩提山王(十禅師)が化現した霊童(天童)を見て、次に山王(大宮権現、山王権現)を見たという「一児二山王」が天台宗にとって非常に重要な意味を持つという説があり、これは童子・稚児の神聖視がベースにある[21][19]。天台宗では鎌倉末期になると、「一児二山王」(一稚児二山王、一稚子二山王)という言葉が盛んに用いられており、『厳神鈔』(奥書 1414年)では、この「一児」とは日吉社(現日吉大社)の神十禅師であるとされている[39][40]。稚児は神聖なる十禅師の化現とされ「一児二山王」と呼ばれたが、これは平安中期以降に広まった本地垂迹思想の影響を受けて成立したもので、聖徳太子観音菩薩の垂迹とされたように人間に転用され、稚児は十禅師の化身と考えられた[19]。平松隆円は、稚児は元々寺院行事や僧の身辺に世話を行う雑務労働従事者であったが、僧が身近にいる美しい稚児と性交したいがために、神に仕える者との性交は神との交流を可能にするという思想や「子どもは神の子」という日本古来の幼いものを聖なる存在と見る土着的な思想、仏教の本地垂迹思想を基に児灌頂を形成し、稚児を俗なる存在から聖なる存在に高めることで、寺院組織内において僧の性の相手としての稚児の存在を正当化したと推定し、仏教思想に付会して僧の性欲を合理化したものであり、かつ僧の結婚を正当化した親鸞のように女犯で僧の地位を失わない方法として選ばれたと評している[19][38]

『廊御子記』(1603年)では、十禅師は稚児の姿に変じて、性欲に苦しむ天台宗の僧慈円の元に通い慰め、二人の性交から子(十禅師に仕える聖職者集団「廊御子」の祖)が生じたとされている[40][41][42]

宗教学者のオリ・ポラトによると、「一児二山王」は元々天台宗の灌頂の極秘の口伝であった[43]。『児灌頂式』では、稚児は境ノ三諦、つまり具体的な物質的現実を表し、山王は智三観、つまり認識論における絶対者であるとされ、稚児が第一であり、山王がその次、両者は究極的には不二一元であると説明されている[42]。そして「一児二山王」とは、なんらかの行為がこうした非二元性英語版を実現することを示しているとされ、オリ・ポラトは、それが僧と稚児との男性同士の性交であることは明らかだと述べている[42]。山王の姿は僧形とされおり、そのミサキ神である十禅師の姿は若い僧形または童形とされた。天台宗の僧は山王に倣い黒衣を纏うとされており、僧と稚児の性交において、僧は山王であり十禅寺であるともいえ、稚児は僧侶(山王・十禅師)との性交で神格化され、僧侶もまた稚児(十禅師)と性交で神格化されるのだという[42]。山王を最高神とする山王信仰を天台宗の教えにより解釈した山王神道(天台神道)の教義では、十禅師が最高の位置に置かれたが、オリ・ポラトは、これは神道思想と仏教理論を融合させる重要な教義上の考えであると同時に、「the concept of transgression as something that should be harnessed to attain power and protection(破戒〔宗教的な罪・逸脱〕とは力と守護に到達するために活用すべきものだという考え)」をもたらしたとしている[42]。オリ・ポラトは、これは天台寺院において稚児との性行為を正当化するために、高位の神格である山王がその従属神によって降格・失脚させられた特異な事例だと評し、十禅師の性愛の神としての側面の研究の必要性を主張している[42]

「一児二山王」の格言は山王神道に限られず、謡曲(能)『大江山』(比叡山を追われた鬼の酒呑童子が前シテの鬼退治物、14-15世紀)、『七十一番職人歌合』 (16世紀初頭)、『弁慶物語』 (室町時代、御伽草子)、男色(衆道)の教えを説いた『若道之勧進帳』(1482年)など中世文学に見られる[42]

幼帝との重なり合い

中世には、政治支配制度が分業・分権化し、天皇が個人ではなく「機関」化し、幼い天皇が誕生したが(院政など)、この幼帝と稚児が重なり合うことが指摘されている[44][45]。幼帝はある意味、己を天皇にした背後の権力者に奉仕する童子であり、時に稚児が呪具・呪宝の伝承に関わっていたように、幼帝は神器を受継ぐ者として異界と関わり合い、異界との「通路・媒介」として機能する存在であった[44][45]

中世の稚児と幼帝は共に、異界・他界・絶対者との「通路・媒介」として機能したと論じられ、それは中世の文化・宗教(呪術)、経済社会制度、国家・法的支配の3つのレベルから見ることができるが、これらを切り離して読み解くことはできない[45]

稚児が登場する文学作品

室町時代に書かれた「お伽草子」には、僧侶と稚児の恋愛や、稚児が観音菩薩の化身として現れる「児物語」「稚児物語」と呼ばれる作品群がある。僧が稚児との性交を通じて悟りを得るという話が多く、稚児は文殊菩薩や観音菩薩の化身として描かれる[46]。僧侶と稚児との恋愛を、宗教的要素を強め、幻想的かつ悲劇的に物語化したもので、稚児は神仏の化身のように扱われ、理想化された美しさが描かれている[47]。中世の流行語「一児二山王」は物語でも用いられており、僧侶の稚児に対する憧憬、敬重を物語っている[47]。稚児物語の成立には、鎌倉時代までの説話集にある僧侶と弟子の様々な説話や、民間伝承の昔話の「和尚と小僧」型の笑話も関連している[47]。物語において稚児は、幼さゆえの場違いな発言で僧侶の失笑を買う等、笑いの対象になる場合もあった。また稚児を巡る社会風潮を批判するために書かれた『若気嘲弄物語』のような作品もあった[48]

稚児は、古典、近代、数多くの文学作品に登場し、これらの中でも、神秘的、繊細、優美、典雅、清楚、可憐、脆弱、等、少女~妙齢の女性と同様の耽美的描写が行われる場合が多い。『稚児物語』で描かれた稚児は美しい少年であり、その美しさを際立たせる演出として、が繰り返し用いられてきた[49]。少年美を際立たせる桜による演出は、現代の少女漫画にまで受け継がれている[50]

  • 今昔物語集(作者不明、平安時代末期)
  • 宇治拾遺物語(作者不明、鎌倉時代前期)
  • 徒然草兼好法師、鎌倉時代後期)
  • 上野君消息(作者不詳、南北朝時代):稚児物語
  • 秋夜長物語(作者不詳、室町時代)」稚児物語
  • 嵯峨物語(室町時代):稚児物語[47]
  • 幻夢物語(作者不詳、室町時代):稚児物語。実話に基づくと考えられている[51]
  • 鳥部山物語(室町時代):稚児物語[51]
  • 足引絵巻(室町時代):稚児物語の絵巻物。延暦寺の僧と興福寺の稚児との恋愛を描く[52]
  • 松帆浦物語(室町時代):稚児物語[47]
  • 弁慶物語(室町時代):御伽草子熊野若一王子の申し子で比叡山の僧に拾われ稚児となった若一(のち弁慶)が、源義経の家来となり、奥州に下るまでを描く[53](弁慶の出生は不明で史実ではない)
  • 青頭巾(上田秋成『雨月物語』の一話。江戸時代後期):読本
  • 桜姫東文章四代目鶴屋南北ほか、江戸時代後期):歌舞伎の演目
  • 青砥稿花紅彩画河竹黙阿弥、江戸時代後期):歌舞伎の演目
  • 二人の稚児谷崎潤一郎、大正7年):小説
  • 稚児今東光):昭和48年(1936年)初出の小説。比叡山の叡山文庫の『児灌頂私』収録「弘児聖教秘伝私」を下敷きに、創作した物語に「弘児聖教秘伝私」の書き下し分を随所にちりばめた[34]。物語は、比叡山の美しい稚児の花若丸と高僧の蓮秀法師の恋愛、別の稚児阿字丸が加わっての三角関係、花若丸に対する慶算法印の横恋慕をからめたもの[34]

稚児出身の歴史上の人物

日本以外での僧の男色

僧の男色は日本特有ではなく、チベット仏教でも日本の僧と稚児に近い関係があるが、両者の間には経済的な契約関係があり、金の切れ目が縁の切れ目という売買春の関係であった[54]。日本の仏教における稚児は僧への従属が求められ、児灌頂を受けた稚児は聖なる義務・徳として僧との性交が求められており、大幅に異なっている[54]

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祭りにおける稚児

要約
視点
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深川神明宮の稚児行列(江東区

(以下、少年少女には未就学児を含む)

現代においては、祭りの中で、特徴的な化粧厚化粧の場合が多い)をし、揃いの、または決められた衣装を着た少年少女(概ね小学生以下)が稚児と呼ばれる場合が多い。

ただ、稚児と呼ぶかどうかは祭りの主催者によって一定しない場合が多く、鶴岡八幡宮例大祭の八乙女・童子や花巻市花巻まつりの囃子方のように、見た目が稚児であっても稚児と呼ばない場合がある一方で、姫路市姫路ゆかたまつりのように、素顔にゆかた(無し)の場合でも稚児と呼ばれる場合もある。

歴史

服飾・化粧

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大正時代の稚児(1914年頃)

稚児の衣装は概ね平安装束神官装束巫女装束)か、それを大幅に簡略化した稚児装束の場合が多く、または不可欠と考えられる。少年は烏帽子、少女は天冠を被る場合が多い。持ち物としては舞扇、蓮・桜・紅葉・等の造花等が多い。

化粧は、額に「アヤツコ」と呼ばれる、まじないの意味がある模様、または「位星(くらいほし)」と呼ばれる丸を黒、または赤で入れ、鼻筋を白く塗るのが基本であり、これらの化粧・服飾は単なる装飾ではなく、神性・神聖・神秘等の意味合い・意味付けがあり、また通過儀礼の意味があるともされる。現代では、ほとんど素顔、口紅を塗るだけの場合から、大人のフォーマルと同様の厚化粧歌舞伎舞踊と同様の舞台化粧(極稀にお歯黒を付ける場合や引眉する場合がある)、バレエと同様な洋風の厚化粧、と様々である。

タイプ別の分類

祭りにおける稚児には大きく分けて3つのタイプがある

  • よりまし型
  • 舞踊・芸能型
  • 行列型

よりまし型

古代から6歳以下の幼児には神霊が降臨しやすいと考えられたことから、神社の祭りにおいてよりましの役割をもった稚児が登場した。現在では、その祭りのシンボルとして扱われている。ほとんどの場合、少年に限られ、選ばれる人数も1人か、多くても3人程度。

舞踊・芸能型

神楽舞楽延年田楽風流等を奉納・上演する少年少女も稚児と呼ばれる場合が多く、稚児舞ともいわれる。巫女神楽の場合に巫女装束となる少女の巫女太鼓台の「乗り子」も稚児と呼ばれる場合がある。前節の稚児(有髪の少年修行僧)の芸能の流れを汲むものもある。

この他、少年少女の素人歌舞伎稚児歌舞伎と呼ぶ地方がある。

行列型

このタイプが一番多く見られる。

寺院の花まつり(誕生会灌仏会釈迦の誕生日)や観音菩薩不動明王等の縁日法然日蓮等の宗祖命日お会式)、本堂落慶法要や晋山式といった、数十年~数百年に一度の大法会に行われる他、神社の祭りにも巫女と共に登場、また、時代行列の中で登場する場合もある。少年少女の手古舞も稚児と呼ばれる場合がある。

稚児が出る現代の祭り

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越後一宮彌彦神社の妻戸大神例祭(妃神例祭)に舞殿で奏される、舞楽「大々神楽」の稚児舞「泔珠(かんじゅ、扇の舞)」
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八坂神社祇園祭での長刀鉾の稚児と禿(京都市)
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諏訪神社における少女の巫女(富岡市
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伊勢町祇園祭での手古舞の稚児(中之条町

節分雛祭り花まつりお会式手古舞は各項目を参照

新暦

旧暦

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脚注

外部リンク

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