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島崎和歌子

日本の女性歌手、タレント、女優、司会者 (1973-) ウィキペディアから

島崎和歌子
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島崎 和歌子(しまざき わかこ、1973年〈昭和48年〉3月2日 - )は、日本の歌手タレント女優。所属事務所はゴールデンミュージックプロモーション。愛称は「和歌ちゃん」「ワッコさん」。本名の表記は同じだが、「しまき わかこ」と読む[1]。高知県出身。

概要 プロフィール, 愛称 ...
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略歴

要約
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1973年、高知県南国市で誕生。名前は父親が女優の酒井和歌子にちなんで名付けた。

1987年夏、大過なく過ぎていく人生に疑問を抱き「何か思い出に残る大きなアクシデントが欲しい」と思い立って[2][注 1]ロッテ CMアイドルはキミだ!」に応募。中山美穂の「50/50」を歌って準優勝、芸能事務所ゴールデンミュージックプロモーション社長の市村義文にスカウトされる。父親は猛反対したが[4]、これを押し切って芸能界入りを決め、高校入学のタイミングで上京[5]

1989年1月、フジテレビ系列で放送されたテレビドラマ『こまらせないで!』で女優デビュー。同年5月、ポリドールから「弱っちゃうんだ」でアイドル歌手デビュー。同期歌手デビューに親友の田村英里子や、深津絵里中山忍石原詢子星野由妃マルシア千葉美加川越美和らがいる。

同年7月には、小沢なつきの降板により打ち切りとなった『魔法少女ちゅうかなぱいぱい!』の後番組として急遽制作が決定した『魔法少女ちゅうかないぱねま!』のヒロインに抜擢され、幼年層の支持を得た。デビュー2年目の1990年には、東宝映画『スキ!』で映画初出演にして主演に抜擢される。

1991年に放送開始の『クイズ!当たって25%』(1992年3月まで)、および『オールスター感謝祭』(2024年時点で30年以上に渡って)の司会を務めている(後述)。以降はアイドルから、徐々にバラエティー番組にシフトしていき、バラエティアイドル(通称・バラドル)の一人として活躍。

2001年、写真集『wakako』でセミヌードを披露。デビュー以来初の握手会を実施した[6]

2003年にはDJのトシユキゴトウ (Toshiyuki Goto) とクラブで抱擁やキスを繰り返していた、と『週刊女性』で報じられた[7][8]。この件について、キスはあいさつのようなものであるとして、交際を否定した[9]

2008年にはデビュー20周年を記念してボックス・セット『島崎和歌子 20th anniversary BOX』を発売、サンシャインシティ噴水広場で開催された20周年記念イベントではデビュー曲『弱っちゃうんだ』を17年ぶりに披露した[10]。2009年には自らが主演するドラマ『オーバー30』の主題歌『Happy Life 〜明日に向かって〜』を発売、島崎和歌子名義では16年ぶりとなる楽曲となった[11]。この曲のレコーディングにあたりボイストレーニングに通い[12]、カップリング曲「世界で一番熱い夏」でもハイトーンボイスを披露。『オーバー30』では専業主婦役を演じる一方で実生活では独身であることに注目が集まったが「焦りはない」と明言した[13]

2011年以降は、美容に関係した活動が増加している。『週刊女性』で美容関係の連載を持つほか[14]、2012年には美容書『美人』を発売、記念イベントではマツコ・デラックスが「無駄にキレイ」と評した[15]

2016年には東映アニメーション制作の映画「ポッピンQ」で高知出身の主人公の母親役を演じ、ネイティブな土佐弁を劇中で披露した。声優を務めるのは今作品が初[16]

2023年、2度目の連続テレビ小説出演となる『らんまん』では、出身地・高知の女性である楠野喜江役を演じた[17]

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人物

  • デビュー時のキャッチフレーズは「ワカコドキドキ」だった。
  • 好物は豚足で、3時の間食として日常的に食べている。子供の頃、おやつが豚足でなくチョコレートだとガッカリしていた[18]
  • デビュー前、特に中学生時代はスレンダーかつ美少女だったと言われる[18]
  • 実家は兼業農家で、母親が喫茶店経営。「ド田舎にありがちな、お客さんが農作業帰りの常連さんばかり」な喫茶店で、都会のおしゃれなカフェのウェイトレスに憧れていた[18]布袋寅泰のファン[19]
  • 出演した映画『ふたり』の主題歌「草の想い」は、主演であった石田ひかり中嶋朋子大林宣彦が歌ったもの以外に、劇中で島崎が歌っている。
  • 3人きょうだいの長女で、妹と弟がいる。
  • 趣味は料理・読書・作詞・カラオケ・散歩・ゴルフ。
  • 2005年7月から地元・高知県の観光特使を務めている。
  • 2012年10月にジュニア野菜ソムリエを取得した。
  • 芸能人との交流が多く、マツコ・デラックス相田翔子は友人[5]
  • 2022年、ダチョウ倶楽部上島竜兵の出棺に際し、若い頃自分のファンだったという事で若い頃の写真集を上島の胸に置いた[20]
  • 酒豪であり、酒癖の悪さでも知られる[21](後述)
  • 過去に元SMAP中居正広と交際の噂が出たことがある。
  • 人柄について、モト冬樹から「大雑把に見えるけど繊細だし、楽しいことが大好きで、実は俺と似たようなタイプだと思ってる」と評された[5]
  • モットーは「どんなことでもコツコツと積み上げていくこと」[5]
  • 2024年現在もガラケー(携帯電話)を使っている[注 2]
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エピソード

要約
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子供時代

生家は裏が山で、窓を開ければカブトムシが侵入し、知人宅を訪ねれば道中にイノシシが出没するという自然豊かな環境にあった[22]。幼い頃は人見知りが激しく、来客があると泣き出す子供だった[23]。幼稚園では同じ園に通う竹馬の上手な男児に恋愛感情を抱くが、特に進展はなかった[23]

南国市立岡豊小学校入学後は近所の男児と遊ぶようになり[23]、夏には川へ行き半裸で水泳に興じるなど[22]、快活な少女に成長した。後に同小学校が100周年を迎えた際には、卒業生として記念行事に出席、トークショーを行い、恩師やかつての級友と再会している[24][25]

南国市立北陵中学校では卓球部に所属[26]、レギュラーとして県大会にも出場した[27]。この頃、卓球部の先輩から交際を申し込まれるが、周囲は中学生の男女交際など論外という風潮であり、両親に長時間説諭される[2]。自身もこうした価値観に影響され、「彼氏とキスした」と話す級友には「ふしだらで許せない」と、嫌悪感を抱いていた。またバレンタインデーには相手がおらず、女子生徒同士でチョコレートの交換会を行っていた[28]

上京後からのアイドル活動

上京後は寮に入って定時制高校に通いながら、歌・振り付け・芝居のレッスンを受けた[注 3]。上京当初は高層ビルの高さと数の多さ、テレビのチャンネルの多さに驚かされ、休日にはテレビばかり見ていたという[2]。デビュー曲「弱っちゃうんだ」のプロモーションでは、スタッフの意向で他のアイドルとの差別化を図られ、しばらくの期間ショートヘアで黄色いパンツスーツの衣装で活動した[注 4]。故郷の高知では、チャンネル数の関係で島崎が出演する番組が放送されておらず、あまり認知されていなかった。

当時はアイドル全盛期が終焉を迎えつつあり、歌番組が減少し、バンドブームが到来した[5]。「アイドル冬の時代」と呼ばれる状況でも、1991年3月には平成3年3月3日午後3時33分の「3並び開演」となった東京公演など、6箇所を巡る全国ツアー「みんなに会いたい! WAKAKO SUN SUN」を開催した[29]。1993年、20歳を迎えて発売したシングル『HのあとにはI(愛)がある』ではヘソ出しの衣装で挑発的なタイトルの曲を歌い[30]、1994年発表のアルバム『ブルージィ・バケーション』では一転して大人びた雰囲気でまとめるなど[31]、楽曲はバラエティーに富んでいた。このアルバムを最後に歌手活動に区切りをつけ、企画物を除いて楽曲を発表することはなくなった。歌手活動の中断はプロダクション社長の判断によるもので、本人も売上不振を認め同意したという[32][注 5]

ほどなくしてバラエティ出演が増えると、井森美幸らのバラドルが登場し始めた[5]。同期アイドルが主に歌手から女優に転向する中、本人は先輩たち[注 6]の後を追うように、人気バラドルの一人として次第に存在感を増していった[5]。1997年の『わいわいティータイム』では肥満気味であることを認め、番組の企画としてダイエットに挑戦するなど[33][34]、仕事の内容も変わっていった。

オールスター感謝祭

始まりはアイドルとして売り出し中の1990年から1991年に放送されていたTBSテレビの深夜バラエティ番組『青春!島田学校』にレギュラー出演したことであり、これがTBS初レギュラー、島田紳助との初対面となった。後に『オールスター感謝祭』の初代プロデューサーとなる加藤嘉一[注 7]が担当していたこともあり、18歳ながらその進行力が評価され、加藤や紳助の意向により[注 8]1991年秋から『オールスター感謝祭』とレギュラー版である『クイズ!当たって25%』の司会に大抜擢されることとなった。

『25%』は半年で終了したが、1992年以降も『感謝祭』は毎年春・秋の改編期の特別番組として放送されている(2024年4月現在)。紳助が2011年8月に芸能界を引退し降板するまで20年に渡りコンビを組んだ。紳助は仕事に厳しいイメージを持たれるが、彼から怒られたことはないとのこと[5]

『感謝祭』の初回当時は、タレントとしての知名度が低かったため抜擢に驚いた。長時間の番組の司会は初めてだった[注 9]ため、週に何度もTBSに通ってアナウンサーから発声やイントネーションの指導を受け、番組のリハーサルを重ねてから本番に臨んだ[5]

当初はアシスタントのポジションで[5]問題の読み上げが中心だった。20代半ばから司会として認められるようになり[5]、現在では問題読み上げに加えて事実上の進行役を兼ねている。放送開始から30年以上経った2024年現在ではベテラン出演者となり、スタッフの立場で発言することも多い[注 10]。字幕上でも紳助および後任の今田耕司[注 11]とともに「総合司会」との肩書き[5]が付けられている[注 12][注 13]

2015年秋以降は、番組で唯一の皆勤出演者であり[5](2024年3月現在)、過去に島崎が司会者席から退席したのは4回(1999年3月27日・2014年3月29日・2014年10月4日・2015年4月4日)のみである。

酒豪・酒癖

飲酒に関して、本人は「量を飲むというより、(時間をかけて)長く飲んじゃう」と述べている[5]が、実際には以下にあるように酒豪である。観月ありさとは昔からの飲み友達で、一度飲み始めると非常に長時間飲み続けるといい、観月は過去に「朝4時ぐらいからようやくエンジンがかかってくる」と語っている[35]モト冬樹[5]大久保佳代子いとうあさこも飲み仲間である[5]。2023年10月5日放送分の『ぽかぽか』で高見盛が過去最高に飲酒したのは「ジョッキで10杯(ビールのことと思われる)」と話すと、島崎は「そんなもんですか」と返した[36]。色んな人と楽しくお酒を飲みたいと思っているが、近年お酒を飲まない若者が増えたこともあって、昔に比べると外に飲みに行く機会は減っているという[注 14]

同じく酒癖の悪さで知られる和田アキ子になぞらえて「ミニアッコ」[37]、「ワッコ」とも呼ばれる[38]。和田・竹山隆範・サバンナによれば、アッコファミリーの酒席でサバンナ高橋茂雄と抱擁しているのを八木と出川哲朗が制止した。竹山はアッコより「もっと恐ろしいワッコってのが出てきた」と述べた[39]

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出演

現在の出演番組

レギュラー

特番

過去の出演番組

テレビドラマ

ラジオ

ウェブテレビ

  • 和田アキ子 史上初の誕生会生中継(2019年4月10日、AbemaTV[55]

ビデオ

CM

映画

劇場アニメ

舞台

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ディスコグラフィ

シングル

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アルバム

  • マシュマロ・キッス(1989年11月21日)
  • ブルージィ・バケーション(1994年9月24日)
  • 島崎和歌子 ゴールデン☆ベスト(2024年4月17日)

その他

  • アフリカのクリスマス - ポリドールが企画したクリスマスをテーマにしたオムニバスアルバム『White Album'90』(1990年11月10日)の7曲目。平沢進 with 島崎和歌子名義。
  • 島崎和歌子 20th anniversary BOX - 2008年発売。仮初小学校までの全楽曲を収録した2枚組CD+DVD映像を納めたコレクターズ・ボックス。

タイアップ曲

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著書

  • 美人(2012年2月24日、主婦と生活社ISBN 978-4-391-14156-6

写真集

脚注

参考文献

外部リンク

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