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あすと長町(あすとながまち)は宮城県仙台市太白区の町丁。郵便番号は982-0007[5]。人口は6,451人、世帯数は2,737世帯(2024年1月1日現在)[1]。現行行政地名はあすと長町一丁目からあすと長町四丁目。全域で住居表示を実施している[6]。
あすと長町 | |
---|---|
町丁 | |
| |
国 | 日本 |
都道府県 | 宮城県 |
市町村 | 仙台市 |
行政区 | 太白区 |
地区 | 長町地区 |
人口情報(2024年1月1日現在[1]) | |
人口 | 6,451 人 |
世帯数 | 2,737 世帯 |
面積(2013年7月現在[2]) | |
0.82 km² | |
人口密度 | 7867.07 人/km² |
設置日 |
2006年(平成18年) 7月18日 |
郵便番号 | 982-0007 |
市外局番 | 022 |
ナンバープレート | 仙台 |
町字ID[3] |
0014001(一丁目) 0014002(二丁目) 0014003(三丁目) 0014004(四丁目) |
運輸局住所コード[4] | 04004-0800 |
面積は土地区画整理事業の施行面積 | |
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日本国有鉄道の民営化と貨車操車場の廃止により発生した長町機関区の大規模な貨物ヤード跡地を中心に、宮城県と仙台市の要請により都市機能更新型土地区画整理事業としてUR都市機構が整備を行った[7]。同時にJR東北本線の高架化や太子堂駅の設置、超高層マンションや大型商業施設などの建設が進み、現在では仙台の新たな拠点として市街地整備が進んでいる[8]。
宮城県仙台市の南部、長町地区のうち東北本線の東側、長町機関区跡地にあたる[8]。東は長町と、西は郡山と、南は太子堂・諏訪町と、北は八本松と接する。かつて旧国道4号だった宮城県道273号仙台名取線(広瀬河畔通)や仙台市主要地方道90号仙台南環状線が通る。
歴史は古く、多賀城創建以前に陸奥国府だったと推定されている郡山遺跡をはじめ、7世紀前半から8世紀初めごろの竪穴住居跡が700軒以上見つかっており[9]、古代の律令体制下において重要な地だったとされている[10]。主な遺跡として長町駅東遺跡・西台畑遺跡・郡山遺跡が存在し、このうち長町駅東遺跡と西台畑遺跡は1998年(平成10年)から発掘調査が始まり、郡山遺跡に存在した官衙の造営や運営に関わった人々が生活していたと考えられている[9]。
明治に入り東北本線が開通、大正には長町操車場が設置され、昭和になると貨物輸送の増加に伴い東北一の規模を持つようになった[10]。当時のあすと長町は不整地で接道条件も十分でなく、鉄道施設の要地や工場、住宅が混在した土地利用となっており[11]、郡山地区は長町地区から隔離され、バスなどの公共交通機関が入れない状態になっていた[12]。
「仙台市にとっては今世紀最後のプロジェクト」「最後に残された最大の都市空間」とも称された旧国鉄の長町機関区貨物ヤード跡地の開発事業により[13]、仙台の副都心として開発が進められた。景気低迷やリーマン・ショックによって計画が停滞するも、東日本大震災によって仙台市に人口が流入し、保留地の残るあすと長町は商業施設や高層マンションの建設ラッシュが起こった[14]。
あすと長町は2021年(令和3年)3月に策定された仙台市都市計画マスタープランにおいて、長町地区の一部として「広域拠点」に位置付けられている[8]。当初は業務・商業を中心とした「長町副都心」として計画されたが、社会状況の変遷とともに土地利用の見直しが行われ、現在は住宅も立地する広域拠点となった[7]。都市づくりにおけるエリア図では「商業・業務ゾーン」「商業・業務・居住ゾーン」に分類され、交通結節機能と都市基盤の特性を生かし、賑わいを生む商業・業務施設の立地を誘導することが方針として定められた[15]。
都市計画法上では全域が防火地域・準防火地域に、あすと長町三丁目の一部が第4種高度地区に指定されている[16]。また、仙塩広域都市計画の地区計画の名称ではあすと長町南部地区・あすと長町北部地区・あすと長町中央地区にあたる[17][18][19]。それぞれの地区整備計画名と用途地域は以下の通り。
地区計画 | 地区整備計画名 | 用途地域 | 地区計画決定日 |
---|---|---|---|
あすと長町南部地区 | 太子堂駅周辺A地区 | 商業地域 | 2006年(平成28年)1月27日[17] |
太子堂駅周辺B地区 | |||
沿道商業業務地区 | 近隣商業地域 | ||
大通り線周辺南部A地区 | |||
大通り線周辺南部B地区 | |||
太子堂駅南部A地区 | |||
太子堂駅南部B地区 | 第二種住居地域 | ||
近隣商業地域 | |||
工業地域 | |||
生活サービス地区 | 第二種住居地域 | ||
一般住宅地区 | |||
あすと長町北部地区 | 杜の広場周辺A地区 | 商業地域 | 2007年(平成19年)5月18日[18] |
杜の広場周辺B地区 | |||
あすと長町中央地区 | ⾧町駅周辺A地区 | 2007年(平成19年)5月18日[19] | |
⾧町駅周辺B地区 | |||
大通り線周辺A地区 | |||
大通り線周辺B地区 |
あすと長町の「あす」は日本語の「明日」と英語の第一人称複数目的格である「us」を掛けており、これに「と(都)・街」を付け「未来の私たちの街」という意味が込められている[20]。
長町駅東遺跡では地表面下約3メートルから5メートルの地層より、縄文時代前期・後期・晩期の土器が出土しており、当時から人が住んでいたことが判明している[21]。また、長町駅東遺跡と西台畑遺跡では弥生時代中期の竪穴住居跡や土器埋設遺構、土壙墓、水田跡も発見されており、竪穴住居跡の可能性のある遺構も数基存在するが、
行政区画としては陸前国名取郡根岸村・平岡村・郡山村の各一部にあたり、明治4年7月14日(1871年8月19日)に廃藩置県によって仙台県の管轄に、明治5年1月8日(1872年2月16日)に宮城県へ改称された。同年4月9日(6月10日)には大区小区制の施行により宮城県第14大区小1区となり、1874年(明治7年)には根岸村と平岡村が統合され、長町村となった。当時あすと長町に鎮座していた諏訪神社は明治5年(1872年)に郡山村の村社に列されている[22]。大区小区制は1878年(明治11年)10月21日に廃止され、1889年(明治22年)4月1日には新たに町村制が施行、全域が茂ヶ崎村となった。1915年(大正12年)2月1日、茂ヶ崎村は町制施行と同時に改称して長町となり、郡役所廃止後の1928年(昭和3年)4月1日には仙台市に編入され、仙台市大字長町および大字郡山の各一部となった。
1887年(明治20年)、日本鉄道によって現在のあすと長町付近に鉄道が通過したが、当初は駅が設置されなかった。しかし、1894年(明治27年)日清戦争によって大日本帝国陸軍第2師団が長町から出征したことをきっかけに駅が設置され、1896年(明治29年)に長町駅が開業した[23]。東北本線による貨物輸送は開業以降増加の一途を辿り、仙台駅では貨物の取扱作業が東北方面において最も難しいとされていた[24]。このため、1924年(大正13年)に長町操車場が設置された[25]。また、諏訪神社は境内地が長町操車場の敷地として買収されたため、現在地の郡山五丁目に遷座している[26]。
年度 | 扱車数 | 通過車 | 合計 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
到着 | 発送 | 中継 | 小計 | |||
1934年 | 119 | 148 | 677 | 974 | 242 | 1,216 |
1935年 | 146 | 146 | 786 | 1,078 | 257 | 1,335 |
1936年 | 161 | 160 | 847 | 1,168 | 279 | 1,447 |
1937年 | 174 | 174 | 994 | 1,342 | 290 | 1,632 |
1938年 | 162 | 161 | 1,109 | 1,423 | 300 | 1,723 |
1939年 | 163 | 164 | 1,153 | 1,480 | 391 | 1,871 |
1940年 | 149 | 148 | 1,173 | 1,470 | 301 | 1,771 |
1941年 | 149 | 148 | 1,201 | 1,498 | 310 | 1,808 |
1942年 | 128 | 128 | 1,368 | 1,624 | 282 | 1,906 |
1943年 | 127 | 127 | 1,304 | 1,558 | 319 | 1,877 |
1944年 | 121 | 121 | 1,236 | 1,478 | 482 | 1,960 |
1945年
(12月) |
91 | 89 | 637 | 817 | 30 | 847 |
1946年
(4月) |
106 | 109 | 801 | 1,016 | 145 | 1,161 |
1948年 | 138 | 138 | 987 | 1,263 | 341 | 1,604 |
1949年 | 134 | 134 | 1,094 | 1,362 | 309 | 1,671 |
改良工事後[27] | ||||||
1955年
(9月) |
203 | 164 | 1,511 | 1,878 | 190 | 2,068 |
第二次世界大戦後の国土開発により、東北本線の大宮操車場・常磐線の田端操車場と青森操車場との中間地点に位置する長町操車場は、東北地方最大の操車場として発展した[10][28]。仙塩地区の貨物基地や東北地方と京浜工業地帯の貨物輸送の基点として輸送状況は急激に増加した反面、線路容量は限界に近づいたことから、1950年(昭和25年)10月には大規模な改良工事が開始された[28]。
工事前の長町操車場は一日平均で300両前後の貨車が常時通過する状況にあり、一ノ関駅、小牛田駅、福島駅、郡山駅、原ノ町駅の各駅の負担となっていたほか、東北本線の輸送力を抑制する原因となっていた。操車場は開業以来、仕分線の増設など拡幅が行われていたが、入換能力の向上については根本的な対策が講じられておらず、1949年(昭和24年)8月の調査によって稼働率は下りの入換線が91.5%、上りの入換線が89%に留まっていた[25]。
改良では宮城野貨物駅や宮城野貨物線の新設による小運転を考慮した上、さらに従来より40%増の2,400両を取り扱う計画により[29]、約140,000立方メートルの盛土など大規模な工事が施行された[30]。この工事は1955年(昭和30年)5月1日に下り組成入換線の使用開始を以て大部分が竣工し[28]、同年9月の一日平均扱車数は大きく増加し、通過車数は半減するに至った[27]。
長町操車場の改良工事と同時に、構内南端において平面交差していた国道4号との立体交差事業も行われた。当時平面交差していた国道4号は仙台市内に入る唯一の道路であったため一日で自動車延べ1,200台が往来し[27]、東北本線も同線内で最も列車の往来が激しい区間であったことから、遮断回数は100回に及ぶ開かずの踏切となっていた[31][32]。国鉄は第一種踏切として4人の踏切警手と踏切警報機を設置していた。このような状況に内務省も事業の必要性を認め、事業の計画が行われていたが、戦争によって頓挫していた[31]。工事においては国鉄と建設省との間で工事費の分担方法を巡り着工までに難航を重ねたが、1953年(昭和28年)12月1日に協定が成立し[27]、長町こ線橋として1954年(昭和29年)12月に竣工した。鉄道と道路を立体交差化させた東北初の橋として半世紀に渡り利用されていたが、あすと長町土地区画整理事業の進捗に伴い、2006年(平成18年)12月3日に渡り納めが行われ廃止された[32]。
1960年代に入ると、モータリゼーションの急速な進展に伴うトラック便の急増により、輸送量が減少し[10]、長町操車場についても貨車置き場のような状態になっていた[33]。貨物輸送を含めた収支の悪化を受け、国鉄は日本国有鉄道経営再建促進特別措置法に基づき経営改革を行い、1984年(昭和59年)にヤード集結型輸送を全廃した[34]。同年2月、長町操車場も同時に廃止され、これを契機に土地利用の調査が行われるようになった[11]。
長町操車場の廃止に伴い、1983年(昭和58年)には宮城県・仙台市・日本国有鉄道・運輸省・建設省・学識経験者を含む「仙台市長町地区土地利用計画調査検討委員会」が設立され[35][11]、宮城県と仙台市によって初めて地区の現況調査が開始された[12]。翌年度には宮城県と仙台市に加え、住宅・都市整備公団を交えた三者による基本構想策定調査が行われ[20]、当時の仙台市長である石井亨が掲げた4つの副都心(泉中央・長町・愛子・仙台港)の拠点事業として位置付けられた[12]。副都心構想は当初長町商店街周辺の再開発を対象としていたが、操車場跡地の売却構想が引き金となり構想に取り入れられた。操車場跡の貨物ヤードが売却されるのは予想されておらず、市長の石井は当時「ヤード地域を全部、市で購入してもいい」と言ったほど開発に意欲的だったとされ、箱物行政を推し進める上で絶好の立地だったとの見解もある[36]。
1986年(昭和61年)にはさらに国鉄を含めた四者による基本計画策定調査を行い[20]、翌年度には区画街路や公園など基盤整備事業の青写真づくりに着手[35]、1988年(昭和63年)には建設省の新都市拠点整備事業としての調査が進められた[12][11]。この間に国鉄は分割民営化を迎え、跡地は日本国有鉄道清算事業団が保有することになった[10]。1990年(平成2年)には事業化検討調査に入り、1992年(平成4年)からは都市計画決定に関する地元説明会が行われ[20]、ここで初めて土地区画整理事業を行う方針が公表された[12]。事業の発表後、郡山二丁目・六丁目などの地権者の約7割から8割が参加する「長町駅東地区区画整理研究会」や、郡山一丁目の住民による「反対する会」が発足し[37]、白紙撤回を求める陳情書を当時の市長・藤井黎に提出するなど、開発に対する反対運動が起こった[38]。
1993年(平成5年)2月、国鉄清算事業団の第26回資産処分審議会にて「長町地区の土地利用に関する計画」の答申が出され、以下の基本方針が示された[11]。
— 第26回資産処分審議会「長町地区の土地利用に関する計画」[11]
- 国鉄事業本部用地を主体とする当該地区は、長町副都心として整備することが望ましい
- 東西及び南北方向の骨格幹線道路を配置する
- 周辺地区との一体的な整備を図るため、鉄道高架化を行う
- 機関区等の鉄道施設は、地区外移転を行う
- 整備手法は土地区画整理事業が望ましい
これにより、当初国鉄清算事業団が計画していた長町機関区の長町駅北部(東北新幹線と東北本線に挟まれた位置)移転を土地区画整理事業の一環として地区外へ移転する方針に変更した[11]。同年4月には住宅・都市整備公団による事業の地区採択が大蔵省によって行われ、住宅・都市整備公団仙台事務所が開設された[20]。
所有者 | 面積(ha) |
---|---|
日本国有鉄道清算事業団 | 30.0 |
東日本旅客鉄道 | 16.0 |
東北ゴム | 18.2 |
北日本電線 | |
日本通運 | |
トーキン | |
その他 | 27.3 |
計 | 91.5 |
1995年(平成7年)6月、仙台市・東日本旅客鉄道・日本貨物鉄道・国鉄清算事業団の四者によって「長町機関区移転に関する基本協定」が締結し[40]、これを契機に同年11月10日には施行区域等の都市計画が決定。事業名を「仙塩広域都市計画事業仙台市長町副都心土地区画整理事業」、施行範囲は91.1ヘクタールとした。11月28日には宮城県と仙台市による住宅・都市整備公団への正式な事業要請を行い、三者の間で覚書が締結された[20]。翌1996年(平成8年)9月13日の都市計画変更、11月21日の施行規程および事業計画の縦覧を経て[41]、1997年(平成9年)5月2日、建設省告示第1170号によって土地区画整理事業認可が告示された[42][20][40]。1997年(平成9年)の土地区画整理事業認可時の計画面積は91.5ヘクタール[20]、うち施行範囲の土地所有者は246人であり、そのうち200人が個人、残り46人が法人だった。法人では、国鉄清算事業団、続いて東北新幹線や東北本線の軌道部分も所有する東日本旅客鉄道、東北ゴム、北日本電線、日本通運、トーキンの順に広い土地を所有していた[39]。
1998年(平成10年)2月27日には、中核となる杜の広場と仙台市音楽堂の都市計画が決定した[20]。仙台市音楽堂は1992年(平成4年)9月から基本構想の検討が仙台市によって行われ、基本構想検討委員会が同年11月に当時の仙台市長である石井亨へ報告されていた[43]。基本構想当初の計画では1999年(平成11年)に完成を目指し[44]、仙台フィルハーモニー管弦楽団の活動拠点とすることなどが報じられたが[45]、1997年(平成9年)11月29日の基本計画策定委員会によって当時の市長・藤井黎へ計画変更の答申が行われ、長町副都心土地区画整理事業施行地内の大規模集客施設街区(東北ゴム・北日本電線・日本通運敷地[46])に着工することが決定した[47]。計画を変更した背景として、若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール(1995年開催)を継続して開催したいとの意図により、世界へ発信できる施設を目指すためとされており、完成は当初より4年遅い2003年(平成15年)の予定となった[48][47]。
2024年(令和6年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りとなる[1]。
小・中学校の学区は以下の通りとなる[54]。
「あすと長町三丁目公園」は、あすと長町三丁目地内にある都市公園。種別は街区公園であり、面積は2,000平方メートル[57]。
「あすと長町中央公園」は、あすと長町四丁目4-1にある都市公園。施行者は仙台市[58]。種別は近隣公園であり、面積は17,278平方メートル[57]。2015年(平成27年)4月28日にお披露目会が行われ、テープカットや樹木の植樹式が開催された[59]。
整備にあたっては地元住民に加え宮城大学、仙台市の三者で公園整備計画協議会を設立した。協議会では公園景観やデザインの参考にするため、市内の紫山公園や泉中央公園、新田東中央公園などを視察し、地元小中学校へのアンケートも行われた。植栽は協議会の意向を踏まえ、地元町内会から寄贈された三春滝桜の子孫樹やソメイヨシノなど32本の桜、24種70本の高木、キンモクセイ・マンサク・カンボクの中木6本、サツキツツジ・シャリンバイなどの低木3,315本、シバザクラ11,180鉢、ヤブランなどの地被類2,770鉢がエリアごとに植えられた。計画段階では親水施設の整備も提案されたが、維持管理費などの理由から断念した[59]。
「杜の広場公園」は、あすと長町一丁目2-3にある都市公園。あすと長町の「大規模集客施設街区」の中央に位置する[57]。周辺にはゼビオアリーナ仙台や仙台市立病院などの医療・福祉施設が立地している[60]。
施行者は仙台市[58]。仙台市立病院の患者による利用を考慮した植物による憩いの空間と、イベント等の開催を創出する空間として整備された。シンボルツリーとしてモミノキが植えられている。広場北西部の「杜のせせらぎ」では暗渠化された郡山堀の水を引き込んでいる[57]。
「パークタワーあすと長町」は、あすと長町一丁目5-42にある東北最大級のタワーマンションである。開発は三井不動産レジデンシャル、竣工は2019年(令和元年)。鉄筋コンクリート造地上28階建て、敷地面積は6,616平方メートル、延床面積は4万9,997平方メートル、総戸数は468戸であり、1973年(昭和48年)以降に東北地方で新築分譲されたマンションとしては最多の戸数となった[61][62]。
「あすと長町仮設住宅」は、あすと長町三丁目1-1(あすと長町38街区)にかつて存在した東日本大震災後の仮設住宅である。総戸数は仙台市内最大の233戸、敷地面積は約2万3,667平方メートルで、市内で最も早く入居が開始された[63][64]。
東日本大震災翌日の2011年(平成23年)3月12日、宮城県は応急仮設住宅建設のため、あすと長町38街区の用地提供を所有者である都市再生機構および鉄道建設・運輸施設整備支援機構に依頼した。これは震災前から行われていた宅地造成で早期着工が可能だったことや敷地面積の広さ、被災者の生活の便などが考慮されたためであり、仙台市内の第一次建設場所として選定された[65][60]。同年3月28日から4月27日にかけて119戸が、4月6日から5月7日にかけて114戸がリース方式で建設され[66][67][65]、市内で最も早い4月中旬に入居が開始された[63]。
第一次の入居募集では阪神・淡路大震災の教訓で、従前コミュニティの維持と高齢者の孤立を防ぐ申し込み方法を採用し、申し込み条件を「10世帯以上」と設定した。しかし、実際は近隣住民と連絡が取れず入居を希望する知人を探すことが困難だったため、条件を満たすのはとても難しかった。津波で被災した沿岸地域から離れた市街地ということもあり、最終的には3グループ25戸が入居した[68][63]。この3グループについても、被災前から親密な関係だったわけではなく、長期の避難所生活の中で形成されたコミュニティだった[69]。
第二次募集では申し込み条件を「5世帯以上」へと変更、さらにはコミュニティ型入居の条件を撤廃し、同年7月からの第三次募集後にはほぼ全戸の入居が決まった[68][63][70]。第一次募集・第二次募集で入居した5グループの内訳は以下の通りである[69]。
入居者の多くは高齢者世帯の単独入居で、第一次・第二次募集の際に条件だったコミュニティ型入居は5グループにとどまった。また、気仙沼や南三陸、石巻、南相馬といった遠方かつ他市町村の被災者と、太白区緑ケ丘や八木山団地といった宅地被災者の受け皿となったことで、殆どの世帯が隣の入居者を知らない状況になっていた[70][63][69]。多地域から被災者が集まったことで、入居開始直後はゴミ出しや駐車位置などの些細なトラブルが起き[63]、朝から酒を飲んで徘徊する、棒を振り回して他者を恫喝するといった問題行動が日常的となった[71]。
治安の悪化によって自治組織の機運が高まり、従前の居住地が隣接する「ひとのわ」グループと「荒浜」グループが同年8月上旬に合併、「あすと長町仮設ひとのわコミュニティーグループ」が誕生した。他3グループにも声を掛け[69]、同年8月25日「あすと長町運営委員会」が65世帯の賛同を得て発足した[70]。行政への要望が約20項目ある中で、町内会や自治会と名乗れば行政の紐付きになってしまい要望が通らない可能性をや単独入居者との関係性を考慮し、町内会や自治会ではなく運営委員会と名乗った[69]。住宅内の秩序形成や支援団体・行政との交渉窓口となったことで賛同者は200世帯を超え[70]、翌年3月には「あすと長町仮設住宅自治会」へ改組された[63]。
自治会の形成とほぼ同時期に、「あすと長町コミュニティ構築を考える会」が発足し、仮設住宅で築いたコミュニティを維持した災害公営住宅を作るための勉強会を定期的に開催した。結果として住民提案は実現できなかったものの、コミュニティ入居枠という一般抽選の上位の入居枠が生まれることになり、80世帯を超える住民が無抽選で災害公営住宅に入居できた[70][72]。
災害公営住宅の建設に先立ち、2015年(平成27年)4月に「卒居式」という名称で自治会の解散式を行った。会則上の解散には入居者の四分の三以上の同意が必要であること、「自治会」が管理する助成金・義援金の財務処理などが主な理由である[72]。「あすと長町コミュニティ構築を考える会」は災害公営住宅への入居後、「つながりデザインセンター・あすと長町」へ改組[70]、2020年(令和2年)に法人格を取得し「特定非営利活動法人つながりデザインセンター」へ改称した[73]。
2016年(平成28年)8月末に全員が退去し、同年10月17日より解体工事が始まった[64]。解体撤去はリース業者が行い[67]、同年12月16日には最後の1棟が解体、仙台市内から仮設住宅が姿を消した[74]。2017年(平成29年)2月には借主である宮城県から鉄道建設・運輸施設整備支援機構と都市再生機構に返還され[75]、宮城県知事の村井嘉浩より感謝状が贈呈された[7]。
跡地を含む周辺地域に関する条件は1区画あたり「2,000平方メートル以上」と設定されていたが、用地返還にあたり都市計画審議会で条件を緩和し、北側を除き開発条件を「165平方メートル以上」に変更した[75]。2019年(令和元年)6月28日、ヤマダ電機が店舗建設のため用地の東側約1万6,300平方メートルを取得した。用地は長町駅東遺跡の一部であるため、店舗建設に伴い第14次発掘調査が行われた[76]。その後、2022年(令和4年)11月3日に「ヤマダデンキ Tecc LIFE SELECT 仙台あすと長町店」が開店した[77]。
「あすと長町市営住宅」は、あすと長町四丁目3-58にある災害公営住宅である。敷地面積3,304.68平方メートル、建築面積は1,225.82平方メートル、延床面積は1万1,092.97平方メートル、総戸数は163戸[78]。施工主はピーエス三菱、設計は山下設計[79]。
あすと長町仮設住宅に代わり災害公営住宅として建設された。早期供給を図るため民間企業が建てた建物を行政が買い取る「公募買取方式」を採用し[14]、プレキャスト・プレストレストコンクリート(PCaPC)工法の構造体を利用して工期を約40%削減した[79]。2015年(平成27年)4月より入居が始まったが、西側を除く隣接地に24階建て高層マンション3棟が建設され、日照を確保できない問題も起きている[14]。
長町駅の東側、広瀬川と名取川に挟まれた郡山低地の自然堤防および後背湿地上に位置する[90]。宮城県の遺跡登録番号は010449[21]。標高は10メートル前後であり、面積は約75,000平方メートル、遺跡の範囲は東西200メートル・南北600メートルとされている。かつて国鉄の貨物ヤードであったことから、場所により遺構が完全に破壊されている場所もある。1991年(平成3年)と1994年(平成4年)に遺跡の範囲確認調査が仙台市教育委員会によって行われ、隣接する郡山遺跡と同時期の遺跡であることが判明した[90]。また、縄文時代および弥生時代の遺構や遺物も発見されている[21]。
弥生時代中期の遺構としては竪穴住居跡や土器埋設遺構、土壙墓、水田跡が見つかっており、このうち竪穴住居跡は遺跡中央北部で1軒、土器埋設遺構と土壙墓は合わせて10基が発見されている。水田跡は竪穴住居跡の北側に広がっており、仙台平野における当時に居住域や墓域、生産域がまとまって見つかった例として貴重とされている[21]。
古墳時代から飛鳥時代・奈良時代にかけての竪穴住居については概ね1期から6期に分けられる。1期は第6・9次調査で発見され、遺跡南側の河川跡の近くに数軒存在する。2期は1期と同様の場所に造られているが、遺跡北側にも数軒認められる。3期は2期と同様に遺跡の北側と南側に造られているが、北側に住居跡が増加する傾向がみられる。また、同時期の掘立柱建物跡や区画施設と考えられる柱列跡も見つかっている。4期から5期にかけては郡山遺跡で見つかった官衙の造営・運営時期にあたり、遺跡全体に遺構が分布している。4期では北東側が大規模な溝と材木列によって区画されていたが、5期になるについれて徐々に機能が失われていたことが分かっている。6期になると竪穴住居跡が大幅に減少し、郡山遺跡の官衙機能が多賀城へ移転したことで居住域から耕作地として転用されたと考えられている[91]。竪穴住居跡は延べ700軒以上が発見されており、最大13軒の竪穴住居跡が重なっている例も発見された[92][9]。
商業施設建設工事に伴って2019年(令和元年)7月から翌年3月にかけて行われた第14次発掘調査では、竪穴住居跡からかまどや煙道、貯蔵穴、柱穴、壁際に壁材を立てるための周溝などが発見された。煙道は北側を向いたものが多かった。また、土師器や須恵器のほか弥生土器も少数出土しており、石製の紡錘車や扁平片刃石斧も発掘された[9]。古代集落跡の調査の他に河川跡の調査および下層調査も行われ、河川跡は弥生時代の遺物を含む層を壊し、北西から南東方向にやや蛇行しながら流れていたことが分かった。河岸の調査では土師器や須恵器、切子玉などの石製品が出土し、下層調査では異なる河川跡が縄文・弥生時代の層を一部壊しながら流れていたことも確認された[92]。
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