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日本の俳優 (1934-2022) ウィキペディアから
宝田 明(たからだ あきら、旧字体:寶田 明󠄁[出典 2]、1934年〈昭和9年〉4月29日[出典 3] - 2022年〈令和4年〉3月14日)は、日本の映画俳優、タレント、声優、司会者。
たからだ あきら 宝田 明 | |||||||||||
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本名 | 寶田 明 | ||||||||||
生年月日 | 1934年4月29日 | ||||||||||
没年月日 | 2022年3月14日(87歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本統治下朝鮮・咸鏡北道 清津[2][3][注釈 1] | ||||||||||
死没地 | 日本・東京都 | ||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||
身長 | 183 cm[注釈 2] | ||||||||||
血液型 | O型 | ||||||||||
職業 | |||||||||||
ジャンル | |||||||||||
活動期間 | 1953年 - 2022年 | ||||||||||
配偶者 | 児島明子(最初の妻) | ||||||||||
著名な家族 | 児島未散(長女) | ||||||||||
公式サイト | with Akira Takarada | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
映画 テレビドラマ 舞台
バラエティ番組 『アメリカの夜』 | |||||||||||
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父は技師であり、越後国村上藩藩士の末裔で朝鮮総督府で海軍武官を務めていた祖父の勧めで朝鮮総督府鉄道に勤務した[11][12]。6人兄弟(兄3人、姉、弟)。2歳の頃に、父の南満洲鉄道(満鉄)への転勤のため、満洲へ移る[12]。終戦後、12歳でハルピンから引き揚げ。博多から、本籍地の新潟県岩船郡村上本町(現・村上市)に移り、同市大工町にある寶田家の菩提寺笠原山善行寺に身を寄せる。寺の四畳半で2年間暮らし、村上本町国民学校に通った[出典 4]。
1953年、東京都立豊島高等学校卒業後に東宝ニューフェイス第6期生として俳優生活をスタート[出典 5]。同期には佐原健二、河内桃子、藤木悠、日活に移籍した岡田眞澄がいる。同年、映画『かくて自由の鐘は鳴る』でデビュー[出典 6]。翌年、特撮映画『ゴジラ』で初主演を果たす[出典 7]。長身・美形の二枚目俳優として東宝映画の若手トップスターとなり、数多くの映画に主演[5]。全盛期には連日連夜銀座に繰り出し夜遊びに精を出していた。
1959年の日本人初のミス・ユニバースの栄冠に輝いた児島明子と1966年4月29日(32歳の誕生日)に結婚し[17][18] [注釈 3]、1974年1月の次男誕生までの8年間に2男1女をもうけた[19][注釈 4]が1984年に離婚した[20]。1991年に『ジプシー』がヒットした歌手・女優の児島未散は長女で、明子との最初の子供である[19]。
1960年代は、東宝と香港のキャセイ・フィルムとの合作映画(『香港の夜』他)で、香港の女優・尤敏(ユーミン)とコンビを組んで[5]、香港、台湾など、アジア地域で絶大な人気を博した。1961年には小津安二郎監督が東宝で撮った映画『小早川家の秋』にも出演している。
特撮(怪獣)映画には『ゴジラ』の翌年の『獣人雪男』以来疎遠だったが、1964年の『モスラ対ゴジラ』の主演で復帰。以後も昭和から平成まで多く出演し[4]、日本の特撮映画の代表的なスターと称される[3]。
明るく華やかな雰囲気であり[7]、映画では『100発100中』の最初からフランス語のセリフで登場し、ヒーローなのか悪人なのか分からないまま終わるキャラクターなど持ち味を存分に発揮している。また、映画斜陽期以降はミュージカルの世界にも活動の場を広げ[3][5]、『マイ・フェア・レディ』などで人気を集め[6]、日本におけるミュージカル俳優の草分け的存在としても活動した。1980年、東京都中野区江古田に日本初のミュージカル俳優養成学校「宝田芸術学園」を開校するも、1983年5月末で閉鎖となった。
1970年代に入ってからは人気が低迷していたが、1990年代に『あげまん』(1990年)、『ミンボーの女』(1992年)で伊丹十三の監督作品に起用され、『ゴジラvsモスラ』(1992年)でゴジラシリーズに再出演するなど、再び注目された[21]。
俳優活動以外にも、ミス・ユニバース日本代表選出大会では1991年まで司会を担当していた。1990年代以降は、気障な二枚目というキャラクターを逆手に取り、バラエティー番組への出演や、金鳥の入浴剤「音浴湯」のCMでのコミカルな演技で新しい境地を開拓した。
2016年6月10日、政治団体「国民怒りの声」より、第24回参議院議員通常選挙の比例区候補として立候補することが公表されたが[22][23]、17日には立候補を取り止めたことが発表された[24]。立候補を取り止めた理由として「後進の道を阻むのではないかと自問自答した」と述べている[25]。
晩年は入退院を繰り返していた。2022年3月10日、同年4月公開の映画『世の中にたえて桜のなかりせば』の舞台挨拶では、腰痛が悪化したため車椅子姿で登壇したが、同作品が遺作となり最後の公の姿となった。翌11日に体調の悪化を訴え12日に入院、13日の夜に容態が急変し、14日0時31分、誤嚥性肺炎のため東京都内の病院で死去した[出典 8]。87歳没。訃報は4日後の同月18日に所属事務所から公表された。児島明子との離婚後に再婚した一般女性が喪主を務めたことも明らかにされた。
中国語と英語に堪能で、ハルピン時代には、周囲に中国人やロシア人が多かったことから中国語だけでなくボディランゲージも用いることが多く、そのことが俳優となってから演技に活かされてきたという[33]。
1997年12月24日には冠動脈が86%[注釈 5]も狭窄していたことによる狭心症を克服するため、11時間におよぶバイパス手術を受けたが、半日近く経って全身麻酔から覚醒しての第一声が「三船敏郎が亡くなったから、東宝のみんなに連絡しろ」であったという[34]。宝田自身はこの経緯について、「三船さんとボクは満洲から引き揚げて来た者同士で仲良しだったから、三途の川まで一緒だったけどボクだけ途中で戻って来ちゃったんでしょう」と語っている[34][36][注釈 6]。三船のほか、森繁久彌や黒澤明、後輩で同い年の石原裕次郎などとも交流が深かった。
子供の頃から歌が好きで、東海林太郎の歌を時々歌っていた。ただし、高校生の頃に『NHKのど自慢』の予選に津村謙の「上海帰りのリル」で参加したが、鐘2つで不合格だった[6]。
周りから時々優等生タイプに思われることがあるとのことだが、本人は否定している[6]。
映画『世の中にたえて桜のなかりせば』では、主演に加えて初めてエグゼクティブプロデューサーの仕事を経験[6]。後日の阿川佐和子との対談では、上記の仕事を踏まえて「これからは裏方の仕事も頑張りたい」と語っていた[注釈 7]が、その対談からわずか10日後、宝田は帰らぬ人となった[6]。
遺作となった映画『日光物語』の撮影中に不戦不争の書を残した。また「こんな時代だからこそコメディ映画が必要である」とも語っていた。
先述の通り、2歳の頃に家族でハルピンに移住した。当時は日本政府の国策で満洲への移民が行われていたため、ハルピンにもたくさんの日本人が暮らしていたという[注釈 8]。
子供の頃は、軍国少年を目指すことが一般的だったことから、将来は予科練や幼年学校などに入って兵隊になることを夢見ていた[6]。当時の満洲の学校教育は陸軍調で、宝田たちは教師から厳しく育てられた。また、9歳頃に同世代の子供たちと共に日本軍の各部隊に配属され、内務班の兵隊と2日間寝食を共にしながら訓練を受けた[注釈 9]。
終戦間近の1945年8月のソ連軍の満洲侵攻による混乱の際、ソ連兵に右腹を撃たれる[37][注釈 10]。元軍医に弾丸を摘出してもらった[注釈 11]が、その弾丸はハーグ陸戦条約で禁止されていた拡張弾頭(ダムダム弾)だったという(ソ連は条約を否認していた)[12][38]。その経験に加え、満鉄の社宅にいた女性がソ連兵に強姦される現場を目撃した経験などがトラウマになり、ロシアには嫌悪感を抱いていた[37]。実際に、ロシア映画やロシアバレエは「吐き気を催すほど許せない気持ちが湧き起こる」ために観たくないと語っている[出典 9][注釈 12]。
怪我から回復した頃には兄たちがシベリアに抑留されていたため、「僕が働いて家計を助けなきゃ」との思いからソ連兵相手の靴磨き[注釈 13]や満洲の専売公社から仕入れたタバコを売るなどして生活費を稼いだ[6]。終戦後の12歳までハルピンで暮らした後、最後の引き揚げ組で日本に帰国した[6]。
終戦後日本に帰国するが、「自分は本当に日本人なんだろうか?」と自問自答し始める[注釈 14]。その後学生時代のある日演劇部から誘われ、劇作家・真船豊や岡本綺堂の作品などを演じた。役になり切っている間上記の悩みが解放されると共に、自己表現の喜びを感じたことから役者業に興味を持つ[6]。
高校の同級生に誘われて東宝ニューフェイスのオーディションを受けに行くが、撮影所前に並ぶ参加者の多さに気後れした[6]。そのまま帰ろうとしたが、撮影所の守衛に説得されて押し込まれる形で会場に入って受験して合格した[注釈 15]。
先述の通り「宝田明」は本名だが、デビューするにあたり芸名を考える話も出た。しかし、「宝」という字の縁起の良さに加え、所属会社の「東宝」にも入っていることから、本名での芸能活動が決まった[16][注釈 16]。
『100発100中』や『南海の大決闘』などで監督を務めた福田純は宝田と同じく満洲出身であったことから、宝田は福田を兄貴分として慕っていた[33]。
映画『放浪記』で主演の高峰秀子から「映画はマイクがあるからあまり張って喋らなくても良い」と教えられたことをきっかけに、映画の演技は気を張らずに軽く演じることが必要だと考えるようになった[16][33]。
また、高峰のようにアドバイスを貰える先輩がいたことから、自身も後輩に助言するようになったという[16]。『ゴジラvsモスラ』で監督を務めた大河原孝夫は、宝田が俳優部のリーダーシップを取っており、エキストラの動きにも意見を出していたと証言している[39]。
『ゴジラ』の撮影初日には、撮影現場にて「主役の宝田です」と挨拶したところ、照明スタッフから「主役はゴジラだ!」と怒られ、ゲンコツをもらったと語っている[40][16]。一方、円谷英二からは「主役だから頑張りなさい」と言葉をかけられたという[4]。
『ゴジラ』の内容については、「核兵器を作り出した人類への警鐘」と受け止めており、ゴジラが死ぬ場面には涙したという[16][4]。
『ゴジラvsモスラ』への出演が決まる前には、『モスラ対ゴジラ』を観て感激したという中学生から「ぜひ出演してほしい」との懇願が書かれた手紙をもらっていた[16][4]。同作品の撮影現場では、第1作からプロデューサーを務めてきた田中友幸が病身をおして宝田を訪ねており、対面した際に田中は涙していたという[4][33]。同作品への出演が発表された後には、幼少期にゴジラシリーズを観ていた世代からのファンレターも来るようになった[16]。同作品監督の大河原孝夫は、宝田は明るく飾らない人物であり、芝居以外でも現場をまとめるなど俳優の要であり、人柄の良さを感じたことを語っている[21]。
『GODZILLA』が公開された際には、主演のジャン・レノと対面したが、彼は『ゴジラ』のファンであったものの宝田が存命であったとは知らなかったらしく、シーラカンスを見たかのような顔をしていたという[4]。
『ゴジラ FINAL WARS』では、撮影所の設備などは変わったものの撮影現場の雰囲気は変わっておらず、先に死去した仲間への鎮魂の思いで撮影に参加したと述べている[33]。同作品では、『100発100中』をオマージュしたセリフも取り入れられている[41]。
『GODZILLA ゴジラ』では、カメオ出演として撮影が行われた[42]が、カットされた[10](エンドロールにはクレジットされている)。監督のギャレス・エドワーズには謝られたうえ、もしアメリカでまたゴジラ映画を作る際には必ず登場させるとの言葉も貰った[43][44]が、次作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』では彼が降板したうえに宝田も2022年に前述の通り死去したため、叶わなかった。
自身が出演した200本近い映画のうち特撮作品は十数本であるが、「自身の経歴の中でも重みがある」、「人間の作り出す可能性の凄さを感じられる」と語っている[4]。また、「ゴジラは最強のクラスメート」を謳い、次に『ゴジラ』作品に出演する際は「ゴジラとアイコンタクトで意思疎通が出来る人間」を演じたいと語っている[40]。
脚本を読んで感情移入しながら役を作り上げるため、うまく書かれていない脚本では感情の流れがつっかえてしまうことがあるが、東宝特撮を多く手掛けた関沢新一の脚本ではそのようなことは一度もなかったという[33]。
『太陽の季節』で作家デビューした石原慎太郎と出会った頃、会話の流れで満洲時代の苦労話をした。慎太郎から、「僕はあなたほどの経験がない。宝田さんの苦労には実がある」と褒められた。その直後、慎太郎から「弟の裕次郎が今度日活に入ったんで、面倒見てやってくれませんか?」と頼まれ、後日に裕次郎とも出会うこととなる[6]。
裕次郎との初対面を前に、「何が太陽族だ。俺は鉛玉を食らったことがあるんだ。逗子のボンボンに世間を教えてやる」と意気込んだ。自らのおごりで銀座に飲みに連れて行くと、裕次郎が少しの遠慮もなくレミーマルタンなどの高い酒を平気で飲み始めたため、腹を立てたという[注釈 17]。
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