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ホルヘ・ポサダ
プエルトリコの野球選手 (1970 - ) ウィキペディアから
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ホルヘ・ラファエル・ポサダ・ビジェタ(Jorge Rafael Posada Villeta , 1970年8月17日 - )は、プエルトリコ・サンフアン出身の元プロ野球選手(捕手)。右投両打。
デレク・ジーター、アンディ・ペティット、マリアノ・リベラと並び、ニューヨーク・ヤンキース生え抜きの"Core Four"の1人であり、長年に渡りチームを支えたフランチャイズ・プレイヤー。現役生活17年でオールスター出場5回を誇る。2015年には背番号20がヤンキースの永久欠番に指定された[1]。その活躍から、1960年代のヤンキース黄金時代の正捕手から名を取ってヨギ・ベラの再来とも称されている。
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経歴
要約
視点
1970年、プエルトリコのサンフアン・サントゥルセ地区で生まれる。父親はロッキーズの中南米担当スカウト、叔父はドジャース傘下のマイナーリーグで打撃コーチを務めるなど野球一家で育つ。後に地元大学に進学し、当時はバスケットボール、バレーボールや陸上競技の短距離走など野球以外の競技にも打ち込んだ。
1990年、ドラフト24巡目でヤンキースから指名され入団。マイナー時代は二塁、三塁、外野とさまざまなポジションをこなし、1995年のメジャーデビューと同時に捕手に定着した。デビュー2年目まではほとんど出場機会がなかったが、3年目の1997年には60試合に出場し、打率.250・6本塁打・25打点と徐々に頭角を表す。
1998年はシーズンを通して出場し、打率.268・17本塁打・63打点を記録。チームのワールドシリーズ制覇に貢献した。翌1999年は17個の捕逸を記録しレギュラー定着に課題を残したが、チームは2年連続のワールドシリーズ制覇を果たした。
2000年、第二捕手であったジョー・ジラルディがシカゴ・カブスに移籍すると、正捕手の座を不動のものとする。打撃力も向上し、チームの主軸打者としても活躍、打率.287・28本塁打・87打点を記録した。ニューヨーク・メッツとのサブウェイ・シリーズとなった同年のワールドシリーズでは好リードを披露。チームを優勝に導いた。
2003年には自己最多となる30本塁打・101打点を記録し、MVPの投票ではアレックス・ロドリゲス、カルロス・デルガドに次ぐ3位。
2004年は5月12日のエンゼルス戦で送球が顔面に直撃し、鼻骨を骨折。4試合を欠場した後、出場を続けたが、このけがを境に好調な打撃が不調に[2]。7月11日のデビルレイズ戦で足首をねんざし、医師から出場できる状態ではないと言われたが、翌戦を先発出場[2]。最終的には、打率.272・21本塁打・81打点と前年より成績が低下し、シルバースラッガー賞とオールスターの連続受賞・選出が4年で途切れた。
2007年はアメリカンリーグ4位の打率.338という高打率を記録し、4年ぶりにシルバースラッガー賞も受賞したが、チームは3年連続で地区シリーズ敗退となった。シーズン終了後の11月29日にはヤンキースと4年総額5240万ドル(当時のレートで約58億円)で再契約した[3]。
2008年は4月28日に右肩痛でキャリア初の故障者リスト入り。6月に復帰したが、万全でない右肩の状態は送球や捕球に悪影響を及ぼし[4]、ホセ・モリーナが代わりに先発マスクをかぶる機会が増えた[5]。ポサダは指名打者や一塁手としての出場を模索したが、7月26日にゼイビア・ネイディがトレードで加入したことに伴い、「チームの助けになることを誇りを持ってきた。しかしゼイビアが加わったことで復帰への重圧は軽減された」と表明[5]。7月20日に右肩関節唇損傷で再び故障者リスト入りした後、7月30日に手術を受け残りのシーズンは出場しなかった[6]。
2009年、9月1日のオリオールズ戦で、2回表にボールカウントを間違えて4ボールになったにもかかわらず一塁に向かわなかったために審判に指摘されてフォアボールで出塁し、さらに同試合の5回表にはストライクカウントを間違え、2ストライクの時点でベンチに戻りかけるという珍プレーを見せた(しかし、戻ったその打席でホームランを放った)[7]。9月16日のブルージェイズ戦では相手投手のジェシー・カールソンと乱闘騒ぎを起こし、カールソンと共に3試合の出場停止処分を受けた[8]。そして2年ぶりとなるプレーオフ進出に貢献した。
2010年6月にはヤンキースの選手としては1937年のビル・ディッキー以来となる二試合連続満塁本塁打を放つ。また、7月23日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で通算1000打点を記録した。
2011年はポサダの守備率低下にともないオフにロサンゼルス・ドジャースからラッセル・マーティンが加入。ポサダは指名打者、一塁手として出場させる方針がとられ、捕手としての出場は1試合にとどまった[9]。8月25日のオークランド・アスレチックス戦では大差のついた9回にロビンソン・カノーに代わり二塁手として出場。最後の打者をアウトにする際、一塁への力強い送球がショートバウンドし、守っていたニック・スウィッシャーを苦笑させた。シーズン終了後、自由契約(FA:フリーエージェント)となった。
2012年1月24日、現役引退会見を行った。

ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番に2015年指定。
引退から3年後の2015年2月16日に、古巣ヤンキースはポサダの背番号『20』をかつてのチームメイトであるアンディ・ペティットの『46』、バーニー・ウィリアムスの『51』とともに永久欠番に指定することを発表し、同年8月22日に欠番表彰式が行われた。
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プレースタイル
ヤンキースではヨギ・ベラ以来の強打の捕手といわれ、シーズン30本塁打以上を記録したヤンキースの捕手はベラとポサダ、ゲイリー・サンチェスのみ。シルバースラッガー賞も5回受賞している。スイッチヒッターであり、左打席ではシャープな、右打席ではパワフルな打撃を見せる。ボールを見極めて打つ傾向にあり、三振が多い反面、四球も比較的多く、出塁率も高い。指名打者や一塁手として出場し、クリーンアップを任されることも多かった。また、近年の選手では珍しくバッティンググローブを用いず、素手でバットを持って打席に立った。
守備面では肩も強くフットワークも良い一方で、送球や捕球に難があった。盗塁阻止率はあまり高くなく、パスボールも多い。ワンバウンドしたボールを体全体で止めようとせず、片手で取りに行くような、やや軽率な捕球姿勢が目に付く。リード面では成長をみせたが、これらの弱点は最後まで改善されず、ゴールドグラブ賞とは縁がなかった。晩年は守備力の低下が如実にあらわれ、2009年シーズンに第2捕手だったホセ・モリーナが出場した試合の防御率は3.31だったのに対し、ポサダの場合は5.04だった。特にA.J.バーネットと相性が悪く、バッテリーを組むことを拒否された[10]。
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人物・エピソード
2008年にヤンキースの監督に就任したジラルディとは1996年から1999年にかけてポジション争いをした仲であり、不仲説が取りざたされた。これに対してポサダは、「ジラルディは私の師匠だ。捕手というポジションを毎年続けることがどれだけ重要かを教えてくれた」という文章を発表した。一方のジラルディも、就任会見で「選手時代のポサダとの関係は、お互いに切磋琢磨するものだった」と、こちらも不仲説を否定。しかし、2011年5月14日のレッドソックス戦でポサダが出場を拒否する騒動が起き[11]、両者間に溝が存在することがうかがわれた。
息子のホルヘ・ポサダJr. が生後10日で頭蓋骨縫合早期癒合症と診断され、生後から数回に渡り手術を受けている。ポサダはこの病気の治療法の研究と、息子と同じようにこの病気の影響を受けている子供たちやその家族へのサポートを目的に "ホルヘ・ポサダ基金" を設立し、オフシーズンにはチャリティイベントなどを行っている。
共にヤンキース一筋の主力打者であり続けたデレク・ジーターからは「サド」と呼ばれている。理由はデビュー戦で正確な発音で知られたヤンキースタジアムの名物場内アナウンサーのボブ・シェパードが「Posada」を「Posado」と勘違いし、「ポサド」とアナウンスした。この珍しい間違いをジーターが面白がってその後も「サド」と呼んだためである。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
表彰
- シルバースラッガー賞 5回:2000年 - 2003年、2007年
記録
- MLBオールスターゲーム選出 5回:2000年 - 2003年、2007年
背番号
- 62 (1995年)
- 41 (1996年)
- 55 (1996年)
- 22 (1997年)
- 20 (1997年 - 2011年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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