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増位山太志郎
日本の演歌歌手、元大相撲力士・元大関 ウィキペディアから
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増位山 太志郎(ますいやま だいしろう[1]、歌手活動時は「たいしろう」[2]、1948年11月16日[2] - 2025年6月15日[3][4])は、東京都墨田区(大相撲の登録上は兵庫県姫路市)出身の元大相撲力士で、最高位は東大関。
引退後は10代三保ヶ関として三保ヶ関部屋師匠を務めた。日本相撲協会を退職した後は本格的に歌手(ムード歌謡・演歌)として活動し、ゴールデンミュージックプロモーションに所属した。
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来歴・人物
要約
視点
7代目増位山。大関・増位山大志郎の長男として東京の三保ヶ関部屋で生まれる。生まれも育ちも東京都であるが、日本相撲協会発表の出身地は実父と同じ兵庫県姫路市となっており、番付の出身地欄も「兵庫」と記されていた。日大一中・一高では水泳部(競泳)に所属し、インターハイ出場の経験がある。
大相撲・現役時代
小学生の頃から相撲が好きで、入門前から三保ヶ関部屋の大部屋に入り浸る内に力士生活への憧れが芽生えた[5]。中学2年のときに実父に相撲界への入門を志願したが断わられた。しかし、どうしても入門したかったため「ここで許されないなら他の部屋に入る!」と切り出し、父親も折れて入門を許し[注 1]、1967年1月場所、瑞竜の四股名で初土俵。北の湖と同期であった。
三段目にいた1968年5月場所から父の四股名である増位山を継ぎ、1969年7月場所新十両と2年余りで関取の座を掴む。1970年3月場所に入幕したが負傷で何度か往復した。その後上位に進んでは大負けして落ちる繰り返しであったが、1979年9月場所(小結)より躍進、翌11月場所関脇で11勝4敗と三役で初の2桁勝利を達成し、2場所連続で三賞(技能賞)を獲得。
1980年1月場所は年齢的に最後のチャンスという覚悟で[6]大関昇進に挑み、初日に対戦成績で18連敗中だった苦手の横綱・輪島を外掛けで破り[7]勢いに乗った。この場所を12勝3敗で終え、高砂審判部長(元横綱朝潮)は「今場所の十二勝の成績や大関が現在一人である点を考慮する」[8]と述べ、場所後の理事会で増位山の大関昇進を決定した。この前場所から大関は貴ノ花1人しかいない番付上の状況が増位山には有利に働き、この3場所合計31勝で直近の大関昇進の事例と比較すると勝率で劣ることや、副業(歌手)によるイメージダウンも「反対意見として押し切るには至らないとみられる」[9]とされた。春日野理事長(元横綱・栃錦)は「増位山は多彩な技の持ち主だから、いかに自分を有利な体勢に持ち込むかが今後の課題」「優勝をねらえる大関になってほしい」[10]とエールを送った。年6場所制が定着した1958年1月場所以降初土俵の力士では、旭國の28歳11ヶ月を上回る31歳2ヶ月の当時最年長(現在では琴光喜の31歳3ヵ月に次ぐ2番目)。新入幕から所要52場所での昇進は当時の最長記録で、史上初の親子大関が実現した。昇進に際し増位山は「今後は栄誉ある大関の地位を汚さぬよう努力していきたい。(中略)ここ三場所は自分の相撲が取れたので、それを忘れず、さらに上(横綱)をめざす気持ちでがんばる。番付ではおやじに追いついたが、本当はまだまだと思っている」[11]と述べた。
しかし新大関の1980年3月場所は、右ヒジ関節挫傷で途中休場。場所後に昇進披露宴が行われ、俳優・歌手も含めた1500人余りが出席したが、昇進場所での不振との対比で「一億円の角番披露」と揶揄された。いきなり大関角番となった翌5月場所は、8勝7敗と勝ち越して角番脱出。その後も2場所連続の9勝6敗と1桁勝ち星がやっとで、1980年11月場所は3勝12敗と大きく負け越した。2度目の角番となった1981年1月場所は、10勝5敗と増位山自身大関として唯一の二桁勝利を挙げたが、これが大関としての最高成績だった。
1981年3月場所、2連勝の後2連敗したところで左ヒジ痛の悪化を理由に、同3月場所5日目限りで現役引退を表明した(取組相手の予定だった隆の里は不戦勝となる[注 2])。
増位山の大関在位はわずか7場所で、「短命大関」としては年6場所制以降、大受(在位5場所・関脇陥落)に次ぐ当時2位の最短記録となった[注 3]。大関の地位で引退した力士としては、現在でも増位山が歴代1位の短命大関である。現役引退後は18代小野川を襲名するとともに、三保ヶ関部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたった。
取り口はふわっとした立合いで相手の突進をそらし、右で廻しをつかむと投げや内掛け・外掛け・内無双と多彩な技を繰り出した。中でも相手を引きずるように打つ上手投げ・上手出し投げは増位山独特のものであった[注 4]。
大相撲・親方時代
1984年11月に実父である9代三保ヶ関が定年退職し、10代三保ヶ関を襲名して部屋を継承した。親方としては、名門・日本大学相撲部で活躍した学生相撲出身者を数多く入門させ、小結・濱ノ嶋、幕内・肥後ノ海、十両・増健などをはじめ、エストニア出身の把瑠都、ロシア出身の阿覧らをスカウトして関取に育てた。一方で先代三保ヶ関と同じく運営方針として所属力士の個人後援会を認めなかったことで「けち」と指摘されることもあった。
なお、三保ヶ関部屋からは2003年12月に11代木瀬が7人の内弟子を連れて分家独立、2006年8月に17代尾上が6人の内弟子(幕内・把瑠都、十両・里山など)を連れて分家独立している。また多趣味で、父と同様に絵画は二科展入選の常連である。
大相撲野球賭博問題に揺れていた時期には11代木瀬と10代清見潟が暴力団と交際していることを暴露し[12]、結果としてこの2人は維持員席問題により協会から処分を受けた。23歳から50歳くらいまでは1日に150本くらい吸うヘビースモーカーだったが、病気をしてから一切吸えなくなった。
日本相撲協会では、美声であるため審判委員を長期間務め、物言いがついた場合場内説明を任されるケースが審判部副部長就任前から多かった。2002年2月に監事(2008年に副理事に改称)に就任し、2012年1月まで5期10年務めた。在任中は審判部副部長を長く務めた。停年退職が近くなったため2012年2月に退任し、最後は役員待遇委員として監察委員会副委員長を務めた。
2013年11月場所限りで65歳の停年退職を迎えたものの、後継者がいないことから同年9月場所限りで三保ヶ関部屋の消滅が決定。三保ヶ関部屋消滅時に所属していた部屋関係者のうち床山だけは北の湖部屋へ、自身を含む親方2人と力士6人、世話人・行司各1人、呼出2人は春日野部屋へ、それぞれ10月3日付で移籍した[13]。停年に際して1980年1月場所の初日に輪島を破った一番を思い出の相撲として挙げ「これまで十八連敗中でしたから、輪島関に勝って親子二代で大関昇進も決まりうれしかったです」と語っていた。[14]
ムード歌謡・演歌歌手として
師匠でもある実父から「相撲ばかりやっていては幅が出てこないし、色々な芸を経験して一芸に幅や奥行きが生まれる。何でもいいから大相撲以外で懸命にやってみろ」とアドバイスされため、現役力士時代の頃からムード歌謡・演歌歌手としても活動、レコードを多数リリースしている。1972年に「いろは恋唄」で歌手デビュー。その2年後の1974年に発売した3枚目のシングル「そんな夕子にほれました」が120万枚を超える売上を記録し[15]初ヒットとなる[15]。1977年8月に発売した「そんな女のひとりごと」は130万枚を超える売上を記録して[15]、1978年に行なわれた「第11回日本有線大賞」では同曲で有線音楽賞とベストヒット賞を獲得した。リリースしたアルバムの中には、師匠・実父と共に吹き込んだ相撲甚句のレコードもあった。力士が出場する歌番組では審査員も務めたこともある。
本人は現役時代当時、印税のために歌手活動を行っていたわけではないとし、周囲が「増位山は相撲を取らないで歌ばかり歌っている」と勘違いすることに対しては釈然としなかったという[16]。もっとも増位山の大関昇進を諮る理事会で師匠の三保ヶ関は「今後はキャバレーなどで一切歌わせない、レコーディングやテレビ出演は協会の許可を得てからにする」と公約し[11]、協会内に根強かった歌手活動への批判をかわしている。
1985年から日本相撲協会が親方・力士のレコード発売やCM出演等の副業を原則的に禁止したため歌手活動は行っていなかったが、協会は旧譜の再発売については認めていた。その後、副業規制が緩和され、2007年10月、ともに横綱審議委員会の委員を務める内館牧子作詞、船村徹作曲の「水玉のスカーフ」で歌手として再デビューした。しかし、時津風部屋力士暴行死事件を受け公開レコーディングは中止となった。[17]2008年6月、NHK・BS2で放送された『シリーズ 昭和の歌人たち「中山大三郎〜“人生いろいろ”から“珍島物語”〜」』に特別ゲストとして登場、生バンドをバックにかつてのヒット曲「男の背中」をテレビで久々に歌唱した。
上述の通り2013年11月場所で日本相撲協会を定年退職。同年12月4日、現役時代のしこ名である「増位山太志郎」の名義で、新曲「夕子のお店」の発表会を開催。「これからは歌一本。大相撲では大関止まりでしたが、今後は歌手で横綱を目指します」と改めて歌手として再出発の決意をコメントした[18]。同曲および次作の「冬子のブルース」で、翌2014年の「第56回日本レコード大賞」企画賞を受賞した。
甘く囁くような歌声が持ち味。ラジオ番組『コサキンDEワァオ!』(TBSラジオ)では「小スケベ声」と呼ばれてネタにされた。鳩レースが趣味で、同じくレース鳩の飼育で知られる演歌歌手の同業・新沼謙治と意気投合している(ただし新沼は現在鳩を飼っていない)。またサックスも好きで、1日に4時間から5時間演奏していた[19]。
死去
2025年6月15日、肝不全のため死去。76歳没[3][4][20]。2022年12月に体調不良を訴え、敗血症と診断された[3]。以降は活動を休止し、療養とリハビリを続けていた。死去に際しての弟子・関係者のコメントは以下のとおり[21]。
- 17代尾上(元小結・濱ノ嶋)「お世話になり、感謝しかないです。厳しい時は厳しいが、オンとオフがはっきりしている、やることをやっていればうるさく言わないオヤジだった。あのオヤジじゃなければ、今の自分はいません」
- 11代木瀬(元幕内・肥後ノ海)「怒られたことはあまりない。自由にさせてもらいました。ガミガミ言うタイプではありませんでした。入門した時、(師匠の)現役の相撲は見たことがなかったので、歌っている姿しか知らなかった。(入門後)歌を生で聴いて、テレビで聴いてた歌だと思いました」
- 12代待乳山(元小結・播竜山)「いろいろお世話になりました。どちらかといえばうるさくはないタイプで、自由にやらせてくれた。やっていることをやっていれば、何も言わなかったので、やりやすかったです」
- 22代千賀ノ浦(元幕内・里山)「稽古場では一切言わないけど、1回だけ言われたことがあります。大阪場所前の稽古で気合が入らない日があって、それを見抜かれました。『待乳山親方、胸を出してやってください』と言って、ぶつかり稽古で転がされました。そこから気合が入りました。稽古場は、師匠がいるだけでピリッとした雰囲気になったけど、ちゃんこの時はレコードにまつわるエピソードとか、思い出話をしてくれました。すごい楽しかった」
- 若者頭・虎伏山(元幕下)「温厚な方でした。例えば場所前の部屋の激励会の時。若い衆はちゃんこを作ったり、引き出物を準備したりします。でも、パーティーの前に、まずは食べてから働こうかと言って、食事を準備して食べさせてくれました。(2013年10月に三保ヶ関部屋は閉鎖したが)今でもOB会があります。OBが集まりやすい部屋なんです。それがすべてを物語っているんじゃないですか」
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主な成績
- 通算成績:597勝538敗18休 勝率.526
- 幕内成績:422勝435敗18休 勝率.492
- 大関成績:44勝44敗7休 勝率.500
- 現役在位:86場所
- 幕内在位:59場所
- 大関在位:7場所
- 三役在位:10場所 (関脇4場所、小結6場所)
- 三賞:5回
- 技能賞:5回(1972年11月場所、1974年5月場所、1979年9月場所・11月場所、1980年1月場所)
- 金星:4個(北の富士1個、輪島3個)
- 各段優勝:十両優勝:1回(1972年1月場所)
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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ディスコグラフィ
シングル
デュエット・シングル
アルバム
- LP
- CD
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出演
テレビ
- 大江戸捜査網 第528話「易者は殺しの暗号」(1982年) - 伊之吉役でゲスト出演
- 木曜8時のコンサート~名曲!にっぽんの歌~
- 金曜7時のコンサート~名曲!にっぽんの歌~
CM
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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