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尖閣諸島問題
日本、中国、台湾間の領土問題 ウィキペディアから
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尖閣諸島問題(せんかくしょとうもんだい、簡体字中国語: 钓鱼岛问题、繁体字中国語: 釣魚臺列嶼主權問題)とは、日本が沖縄県石垣市登野城尖閣として実効支配する尖閣諸島に対し、1970年代から中華人民共和国[1][2]と中華民国(台湾)が領有権を主張している事実上の国際紛争のことである[3]。特に中華人民共和国は年数百回以上の侵犯(グレーゾーン事態)を繰り返しており、準戦争行為と解釈し得る。
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歴史でたどる領土問題の経緯
要約
視点
以下では原則として「尖閣諸島」の呼称に統一して表記する。
→尖閣諸島の領有権を巡る争点についての詳細は争点を参照
沖縄県編入までの経緯
尖閣諸島は琉球王国から中国大陸への航路上にあり、その存在は古くから琉球王国で知られていた。また、沖縄の人々、特に海人(ウミンチュ海坊主)と称される沖縄の漁民は、この島々を沖縄の言葉で、「ユクンクバジマ」あるいは「イーグンクバジマ」と呼んできた[4]。「ユクン」は魚の群れているところ、「イーグン」は魚を突く銛(もり)のことであり、「クバ」は、この島々に繁茂している樹木を指している[4]。沖縄では、ほとんどすべての人たちが、この島々は、沖縄と一体のものと考えており、自らの生死に直接かかわる「生活圏」と考えている[5]。もとより、生活圏といった場合、単に経済的意味だけではなく、歴史的文化的意味を含むのは当然である[5]。1819年には、公務中の琉球王族が魚釣島に上陸して飲水を調査している[6]。
これらの島々が「中国固有の領土である」と最初に主張した日本の学者はマルクス主義歴史家の井上清であり、それは、1972年刊の『尖閣諸島 釣魚諸島の史的解明』(現代評論社)によってなされた[4]。井上の主張は明代の『冊封琉球使録』等古文書の記述をもとにしたもので、中国側でも頻繁に援用されているが、その主張や根拠となる古文書理解等については、数多くの批判が寄せられている[4]。ことに彼は、独自の歴史的主体である琉球・沖縄の存在をきわめて軽視している[4]。たとえば、井上は 「琉球人のこの列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られなかった。彼らが独自にこの列島に関して記述できる条件もほとんどなかった」 と記しているが、これに対し、『冊封琉球使録』を完訳した原田禹雄は、明代には冊封使の船の10倍以上の進貢船が那覇と福州の間を往復しており、初めて琉球に赴く冊封使は、尖閣諸島の知識を琉球の船員から得ていたことを指摘し、中国語通訳を兼ねた琉球の針路案内人は中国の使臣とのあいだでは共通語として中国語を用いたのであるから、標識島の呼称が中国風になったのはきわめて当然であるとして、井上の見解を否定している[4]。
沖縄・琉球は、1879年の廃琉置県(琉球処分・沖縄県設置)まで、幕藩体制下の異国として薩摩藩の支配下に置かれながら、同時に清国との冊封関係にある独自の二重朝貢国としての歴史を歩んできた[5]。そのなかに尖閣諸島を含んでおり、当然のことながら、琉球処分後に日本国内で発行される地図には尖閣諸島は琉球諸島の一部として記載されたのである[注釈 1]。

沖縄県が、かつて冊封使の航路の目標島であったこれらの無人島に日本領であることを告げる国標を建てようと、明治政府に伺いを立てたのは、大東諸島などが無主地先占の法理によって日本領となった1885年のことであった[5]。同年8月、内務卿山県有朋は沖縄県に対して、魚釣島、大正島、久場島の三島への調査を命じた。沖縄県令の西村捨三は部下の石澤兵吾に現地住人からの聞き取り調査を行わせ、9月21日に石澤が現地住人から受け取った報告書では、「『中山伝信録』の赤尾嶼(せきびしょ)は久米赤島、黄尾嶼(こうびしょ)は久場島、釣魚台(ちょうぎょだい)は魚釣島に相当すへき」と記された[7]。石澤からの報告を受けた西村は翌日の9月22日に山県有朋に「既に清國も旧中山王[注釈 2]を冊封する使船の詳悉せるのみならず、夫々名称をも附し、琉球航海の目標と為せし事明らかなり。依て今回大東島同様、踏査直に國標取建候も如何と懸念仕候間」と国標建設に懸念を表明したが[8]、10月9日、山県有朋は外務卿井上馨に「清国所属の証跡は少しも相見え申さず」と書簡を送り意見を求めた。
10月21日、井上外務卿は山県内務卿に、清国がその存在を知り清国の新聞が台湾附近の島に注意を促している時期に公然と国標を建てるのは政治的に好ましくないと回答した[注釈 3]。すなわち、沖縄県の伺いは、外務卿井上馨の「清国にいらざる疑念を抱かせてはならない」という判断によって却下されたわけである[5]。9月22日付「大阪朝日新聞」によれば、「清国新聞」とは英人の英字紙「上海マーキュリー」であり、台湾附近の島は八重山諸島を指す[9]。10月30日午前8時に石澤ら一行は魚釣島西岸に上陸し午後2時に離陸、計6時間の現地調査を行い、調査の中で石澤は魚釣島に漂着した中国式小船(伝馬船)の遺物を確認している[注釈 4]。魚釣島を後にした一行は久場島を目指すが上陸できず[注釈 5]、久米赤島でも上陸調査は出来なかった[注釈 6]。
こうした国家間の駆け引きや思惑をよそに、石垣島、宮古島、沖縄本島南端の糸満などの漁民の周辺海域での漁業活動は活発化してゆき、最初にこの周辺海域を漁場として開拓・活用したのは、沖縄のウミンチュ(漁民)であった[5]。
また、1884年、福岡県八女市出身の実業家、古賀辰四郎は人を使って尖閣諸島を探検させている[11]。古賀はもともと八女茶を商う寄留商人で、茶の販路拡大のため沖縄に赴き、そこで知った夜光貝に着目し、貝殻を集めて神戸居留地に運び、高級ボタン用として輸出するなどの事業をおこなっていたが、尖閣諸島のことを知ると人を送り込んで島の探検を始めたのである[11]。そして、この島々が無人島であり、どの国の影響下にもないことを確認したのであった[11]。尖閣諸島での事業を将来有望とみた古賀は、政府が国有地としたうえで自分に貸与してほしい、島の開発を推し進めたいと日本政府に申請した[11]。
1887年6月軍艦「金剛」は水路部測量班長・加藤海軍大尉を乗船させ、那覇から先島群島(尖閣諸島方面)に向かい、魚釣島等の調査を行った[注釈 7]。ただし笹森儀助は、金剛は附近を回航したのみであるとしている[12]。日本政府はそれ以降も、1890年に沖縄県属の塙忠雄による漁業状況聞取調査、1893年に沖縄県八重山島取調書(野田正以下の提出資料他尖閣諸島に関する聞き取り調査)を行い、尖閣諸島における漁業者(糸満人)の活動実態を確認している[10][13]。
1893年、沖縄県は漁業取り締まりのための国標設置を再度日本政府に要請した[5]。沖縄県の上申書は、無人島を含む海域での漁業に秩序をもたらすため、尖閣諸島が沖縄県の行政区内であることを認めてほしいという内容であり、沖縄県が名実ともに実効支配をすべきであるという理由とともに、沖縄県と清国の間にある島嶼がいずれに属するのか確かめたかったという動機からであった[14]。この要請を受けて、日本政府は1895年1月14日の閣議で、無主地先占という国際法の原則にもとづき、正式に尖閣諸島を日本領として編入し、現地に国標を設置することを決定した[4]。沖縄県への編入という形を採ったのは、当時の清国がこうした島々に格別の配慮をしていないという事情も関係していた[14]。
そして、尖閣諸島を翌1896年4月1日、沖縄県八重山郡に編入し、魚釣島、久場島、南小島、北小島、大正島を国有地とした[15]。大正島を除く4島は、福岡出身の古賀辰四郎に30年間の期限付きで無償貸与された[11][15][16]。日本による実効支配の始まりである[14][15]。
尖閣諸島の開発

尖閣領有の閣議決定後、政府から4島の無償貸与を受け、開発許可を得た古賀は魚釣島で鰹節工場を経営した[15][16]。魚釣島には多額の資本が投下され、桟橋、船着場、貯水場などが建設され、また、海鳥の保護や植林、実験栽培などもなされた[15]。日本人の入植も進み、アホウドリの羽毛の採取や海鳥の剥製の製作もなされた[15]。特に鰹節の製造は島の基幹産業となり、最盛期には同島には99戸、248人もの日本人が暮らしていた[15][16]。尖閣諸島周辺にはカツオやマグロなどの回遊魚が多く、鰹節工場は当時としては鮮度保持の難しいカツオを商品化するための工場であり、工員は先島諸島からの移住者を主としていたが、技術者は当初宮崎県から送り込まれ、続いて高知県から鰹節製造に通じた女性グループを勧誘して移り住んでもらった[15]。
1932年、古賀辰四郎の息子の古賀善次は、無償貸与されていた島々の有償払い下げを受けた[16]。これが尖閣諸島における私有地の始まりであった[16]。しかし南洋諸島からの安価な製品が出回るようになると経営が苦しくなり、1940年、戦時体制下の燃料欠乏などによって鰹節工場は閉鎖された[16]。尖閣諸島は再び無人島となった。なお、島の所有権は1972年の沖縄返還後、別人に譲渡された[16]。魚釣島、北小島、南小島の3島は2012年に国有地となったが、久場島は現在も民有地である[17]。
日本政府は、尖閣諸島は歴史的にも一貫して日本の領土である南西諸島の一部を構成しており、1885年頃から沖縄県を通じて何度も現地調査を行い、また、民間人古賀辰四郎による探検活動の結果、尖閣諸島が無人島であるだけでなく,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを確認した上で、1895年1月に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行って、正式に日本の領土に編入したとしている[18]。そして、この行為は先占の法理によって国際法上正当であり、かつ尖閣諸島は日本が清国から割譲を受けた「台湾および澎湖諸島」には含まれない(台湾・澎湖諸島の領有は、1895年の下関条約第2条による)としている[18]。
一方、中国政府は、明の時代、琉球への冊封使の報告書である古文書に釣魚台を目印に航行したとの記述があることや、江戸時代の日本の学者林子平が書いた三国通覧図説にある地図の彩色などを主張の根拠に挙げている[19]。また、日本政府が「秘密裏に」領有を閣議決定し、国際社会に宣言しなかった等の歴史的な経緯から見ると、日本のいわゆる「領有権の取得」は国際法上の意味を持たないと主張している[注釈 8]。
中兼和津次は、「古文書、地図に尖閣の記述があり、島々を発見したのは歴史的にも中国。地理的にも中国に近い」という中国側の主張について、「なぜ地理的に近いことが中国の領土という主張に結び付くのか、私にはその根拠が判らないが。日本の主張は『無主地先占の法理』。尖閣は無人島であるばかりでなく、清国の支配が及んでいた痕跡がいないことを慎重に確認し、1895年1月14日に正式に領導に編入したということになっている」「国際法における『無主地先占の法理』とは何か? 『いずれの国にも属していない無主の土地を、他の国家に先んじて支配を及ぼすことによって、自国の領土とする国が、先に先占を宣言し、実効支配している』とすると、この問題は専門外だが、尖閣については圧倒的に中国が不利で、法的根拠がない」と述べている[20]。
アメリカ合衆国による沖縄統治時代


第二次世界大戦後は一時連合国(実質的にはアメリカ合衆国)の管理下に置かれた。連合国の一員であった中華民国は1945年10月25日に[注釈 9]、台湾総督府が統治していた台湾と澎湖諸島を接収し[注釈 10]、日本も1951年に締結したサンフランシスコ平和条約で最終的に放棄した。台湾は1945年以降中華民国台湾省となったが、尖閣諸島は含まれていなかった。尖閣諸島を行政的に管轄していた八重山支庁が機能不全に陥り八重山自治会による自治が行われていたが、12月になって11月26日に告示された「米国海軍軍政府布告第1-A号」によってアメリカ軍による軍政下に入り、その後琉球列島米国民政府および琉球政府が管轄する地域に編入された。またアメリカ空軍が設定していた防空識別圏も尖閣諸島上空に設定されていた。この時期の中華人民共和国および中華民国で編纂された地図では尖閣諸島が日本領として明記されている(後述)。
日本は1952年に台湾に逃れた蔣介石率いる中国国民党政権との間で、その支配下にある台湾を適用範囲とする日華平和条約(1972年失効)を締結しており、同2条で台湾における日本の領土権の放棄を規定しているが、ここでは「日本国は、1951年9月8日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第二条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南群島[注釈 11]及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される」としているものの尖閣諸島は台湾に属するとは解釈されていなかった。
また、1953年1月8日付けの中国共産党中央委員会の機関紙「人民日報」は「琉球群島人民による反米闘争」と題する記事で、琉球群島(当時の米軍占領地域)の範囲を記事冒頭で「琉球群島は中国の台湾東北(北東)と日本の九州島西南の海上に位置する。そこには尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、トカラ諸島、大隅諸島など7つの島嶼からなっており(後略)」と紹介しており、琉球群島に尖閣諸島が含まれていると紹介している[21]。
これに対し清華大学国際関係研究院の劉江永は、2011年以降、「この記事は1953年1月8日4面の資料欄に掲載されたもので、日本語の資料を翻訳した無署名の資料で、評論でも社説でもない。よって中国政府の釣魚島帰属に関する立場を代表するものではない。いわゆる中国側が釣魚島は日本に属すると認めたとの説は成立しない」と反論している[22][23]。「人民日報」の記事は、大隅諸島を琉球群島に含めているなど、沖縄県民や日本人からみても決して正確なものとはいえない[21]。
一方新崎盛暉は、中国が自国の「固有の領土」と考える島々を誤って琉球群島に組み込んでしまうことは考えにくく、この時点では、中国は尖閣諸島を中国「固有の領土」とは認識しておらず、沖縄の人々にとって不可分な生活圏であるという事実を認めていたのではないかと主張した[21]。さらに、沖縄を軍政下に置いた米軍は、尖閣諸島の2つの島、久場島と大正島を射爆場として使用していたが、もし仮に中国が当時から尖閣諸島を中国固有の領土として認識していたとするならば、「アメリカ帝国主義」が、「中国固有の領土」を軍政下に置き、そこに射爆場として利用していたことに対し、一度も抗議声明を出していない事は不自然であるとした[21]。
米軍政下にあっても、1950年代には、沖縄の漁民たちは尖閣諸島に数か月間滞在しながら、鰹節の半製品製造を繰り返していた[16]。冬場には、尖閣諸島周辺海域では、カジキ漁、大規模なダツの追い込み漁、マチ類の底魚釣りなどが行われており、食料不足だった戦後初期の沖縄住民のタンパク源を補った[16]。戦火によって船を失った漁民は、米軍の上陸用艇などを改造して尖閣諸島まで出かけた[16]。また、琉球大学の生物相調査団は、困難な条件のもと、米軍政下において6次にわたり魚釣島の調査を行っており、その記録を残している[16]。
尖閣諸島近海は好漁場であるため、台湾漁民による操業が行われており日本側漁民との摩擦が生じていた。1955年には第三清徳丸襲撃事件が起き、中華民国国旗を掲げた海賊船による襲撃で死者行方不明者6名を出す事件が発生している。
1960年代に入っても尖閣諸島に大量の台湾人漁民が入域し、島に生息する海鳥とその卵を乱獲したほか、付近海域で密漁する事態は続発していた。日本の気象庁離島課は絶滅危惧種のアホウドリが尖閣諸島に生息している可能性があるとして、関係部署に依頼し琉球大学の高良鉄夫教授らを1963年春に調査団として派遣した。この調査団は100万羽以上の海鳥が生息する事を確認したが、アホウドリではなく台湾漁船をも発見した。この漁船は夜の漁のために停泊していたが、その合間に海鳥や卵を乱獲していた。そのため調査団は不法行為だと注意したが無視されたという。そのため高良教授は「このまま放置しておいたら現在生息している海鳥も衰亡の一途をたどる。何か保護する方法を考えなければいけない」と語ったが[24]、実行力のある対処は行われなかった。
これは尖閣諸島を管轄する琉球政府には外交交渉権がなく、また本来主権を持つ日本政府も当時の沖縄の施政権は返還されていなかったため、当時国家承認していた中華民国(台湾)に対して尖閣諸島における台湾漁民の行動を制止できなかったという。そのうえ琉球政府の上部にある琉球米民政府およびアメリカ合衆国政府は、在台北のアメリカ大使館を通じて「抗議」したものの、台湾の蔣介石政権との「米華関係」を重視したため、台湾当局が厳しい取り締まりをしなくても不問にしたとみられている[25]。
1968年に行われた調査では台湾漁民の乱獲による海鳥の激減が数字の上でも明らかになった。5年前の調査と比較して南小島のカツオドリが20万羽から1万羽、北小島のセグロアジサシは50万羽から10万羽に激減していた。これは島から漁民が台湾に海鳥の卵を菓子の原料として大量に運び去ったうえに、無人島ゆえに人間を警戒しない海鳥を捕獲していたためであった。調査団は台湾人に食べられた大量の海鳥の屍骸や漁船だけでなく、南小島において台湾人60人が難破船を占拠しているのも確認している。
このような台湾人による領土占拠の既成事実が積み重なることで、当時から地元西南群島の住民から第二の竹島になる危惧を指摘する声もあったが[25]、当時の日本国内では尖閣諸島における台湾人の不法入域はあまり重要視されなかった。なお南小島の占拠者であるが、退去勧告を発し再度の入域を希望する場合には許可証を得るように指導した。彼らは解体作業を片付けるために翌年にかけて入域したが、この時は琉球列島高等弁務官の入域許可を得た合法的な行為であり、この措置に対しては台湾の中華民国政府からの異議申し立てはなかった。
その後も台湾漁民の入域は続き、「朝日新聞」1969年7月11日付け夕刊には「沖縄の島に招かざる客」との題で、北小島に停泊している台湾漁船と漁の合間に海鳥の卵を取っている漁民の写真が掲載されている。この記事を執筆した筑紫哲也は、「(沖縄への)日本人の出入域にはきわめてきびしい統治者の米国もこの"お客様"には寛大」と揶揄するとともに、「地元の声」として台湾との間で第二の竹島になる可能性があることを警告していた。
当時の琉球政府も、尖閣諸島が石垣市に属することを前提に警察本部の救難艇による警備を実施し[26]、接近した台湾漁船に退去を命令する等の活動を実施していた。1970年7月には領域表示板の建立を行っている。
問題の発生
1968年の国連機関による海底調査の結果、東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘され、1970年に台湾が領有権を主張しはじめ、これに中国も追随した。1969年および1970年に国連が行った海洋調査では、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告された。結果、周辺海域に豊富な天然資源があることがほぼ確実であると判明すると、1970年7月に台湾はアメリカ合衆国のパシフィック・ガルフ社に周辺海域の大陸棚探査権を与え領有権を主張した(1971年4月パシフィック・ガルフ社は米国務省の意見で撤退)[27] また、石原慎太郎は江藤淳との共著において次のように記している[28]。
「尖閣列島周辺の海底に油田があるという話が持ち上がって以来次々と妙なことが起こった。返還前のことですが、米国の石油メジャー会社が、時の佐藤首相に、外相がらみで自分たちによる試掘を持ちかけてきた。佐藤首相は自国日本のことだからといってそれを退けた。すると彼らは同じ話を台北と北京に持ち込み、『あの島々は本来なら中国の領土の筈だ』とそそのかした」
1970年9月2日には、台湾の水産試験所の船が魚釣島に上陸、中国国民党の旗である青天白日旗を掲揚した。この際周辺海域で操業中の台湾漁船からは拍手と万歳の声が挙がったという[29]。台湾当局はこの時の「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。なおこの「青天白日旗」はその後間もない9月中旬に琉球政府によって撤去され、米国民政府に保管されている[30]。
1971年2月にはアメリカ合衆国在住の中華民国籍で台湾生まれ育ちの留学生らによる尖閣諸島は固有の領土だと主張する反日デモが発生し、6月に中華民国、12月に中華人民共和国が相次いで領有権を主張した。熱心な祖国復帰運動の結果、1972年(昭和47年)5月15日に沖縄が日本に返還され、日本国の施政下に置かれることとなったが、台湾・中国の領有権主張は沖縄返還の直前であった。その根拠は、尖閣諸島が中国側の大陸棚に接続しているとの主張にくわえ、古文書に尖閣諸島を目印として航海に役立てていたという記述がみられることで、最も古くから同諸島の存在を認識していたという解釈による。中国人が先に発見したから領有権を主張できるというものである[注釈 12]。ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していたようで、米国の施政時代にも米国統治へ抗議したことはないため、中国と台湾がの領有権主張の動機が油田発見にあることは明らかである。そのため、国際判例上、以前黙認によって許容した関係に反する主張は、後になって許されないとする禁反言が成立する可能性が指摘されている[注釈 13]。
海底油田という要素のほかに中国で流布している言説によれば、中華人民共和国との国交樹立締約に怒った中華民国が国交締結前日にいやがらせとして提出した領土主張を、機をみて中華人民共和国側(周恩来)も同日に領有問題の追加主張を開始したところ、これを当時の日本国交渉担当の福田赳夫 大平正芳が「棚上げして後世に託す」という玉虫色のままで国交樹立を妥結させ、今日の領土主張の齟齬にいたったとされている。また、根底には蔣介石の中華思想があったという見解もある。「棚上げ合意」については、龍谷大学の倪志敏が史的経緯を上梓している[31][32][33]。
中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネルーの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張した[34]。当時はキューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった[35]。
軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便である。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事力が優位になってきた事がもたらしたものである[36][37]。
また1968年に地下資源が発見された頃から、中国と台湾は領有権を主張しはじめた。例えば、1970年に刊行された中華人民共和国の社会科地図において南西諸島の部には、"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてあった[38]。しかし、1971年の版では、尖閣諸島は"釣魚台"と記載され、国境線も日本側に曲げられている。
いずれにせよ、1895年の沖縄県編入に対し、当時の清国はなにひとつ苦情を言っておらず、尖閣諸島はほとんど無視されていたに等しい[14]。また、名実ともに日本の領土となってからも、国際社会の中で特に異議申し立てもなかった[39]。そして、太平洋戦争終結時まで、尖閣諸島は何ら問題なく日本の領土としての扱いを受け続けてきた[39]。対日講和の段階では、条約草案を準備したアメリカ合衆国のみならず、条約に調印しなかったソビエト連邦や講和会議に招かれなかった中華人民共和国も、日本への沖縄返還を支持し、アメリカの沖縄支配は批判しても、沖縄が日本であることを疑問視していなかった[21]。また、サンフランシスコ平和条約においても、台湾と澎湖諸島は日本の領土から切り離され、放棄対象となったが、尖閣諸島は沖縄の一部として扱われ、放棄対象とはならなかった[40]。それは、アメリカが沖縄返還の1972年まで尖閣諸島の施政権を行使したことによっても証明されている[40]。1968年から1972年にかけての5年ほどの間に尖閣諸島が急速に対立状況を生むこととなったのである[41]。日本の外務省も、小冊子やパンフレットなどで常に、尖閣諸島は下関条約に基づき清国より割譲を受けた「台湾及び澎湖諸島」には含まれず、歴史的には一貫して日本の領土である南西諸島の一部を構成しているのであり、中国や台湾の主張は尖閣近海に石油資源が埋蔵されているとわかってからの主張であって、日本はその主張を認めることはできないとしており、その姿勢は一貫している[39]。
1978年4月、機銃で武装した100隻を超える中国漁船が海上保安庁の退去命令を無視して領海侵犯を繰り返した[42]。福田赳夫内閣が抗議すると中国は事件は「偶発的」と応えた[42]。1978年8月に鄧小平が「再び先般のような事件を起こすことはない」と約束し、福田内閣は日中平和友好条約に調印した[42]。 このとき、鄧小平は「われわれの世代の人間は智恵が足りない。われわれのこの話し合いはまとまらないが、次の世代はわれわれよりももっと知恵があろう。その時は誰もが受け入れられるいい解決方法を見いだせるだろう」と発言している[43]。実質的には棚上げし、いつになるか定かでない次世代に託すとしながら、長期にわたって尖閣諸島問題を国境問題として固定化することに成功し、「次の世代」の判断が下されるまでにいくつかの既成事実を積み重ねておくことが可能となったのである[43]。これこそが、中国側の企図したものではなかったと思われる[43]。
船橋洋一による著書「こども地政学」では、「中国は大陸国家(ランドパワー)で、石油がとりにくい。そのために、大陸に接しておらず海洋国家(シーパワー)の日本が持つ尖閣諸島の領有権を主張している」としている。実際、中国人に対する調査では日本人に悪印象を持つ理由として「魚釣島の領有権を主張しているから」との回答が一位になった。
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各国の立場と主張
要約
視点
中華民国および中華人民共和国は1971年以降、尖閣諸島を「固有の領土」であるとの主張を繰り返している[41][44]。
中華人民共和国の立場
中華人民共和国は、1895年1月の日本の閣議決定は日清戦争の結果としての台湾・澎湖の日本への割譲と実質的には一体であると認識に立っており、『冊封琉球使録』等の古文書の記載等をもとに、これらは明代から中国「固有の領土」であったと主張している[4]。すなわち、尖閣諸島は台湾に付属しており、その台湾は中国に付属しているから、尖閣諸島は中国の一部であるという主張である[45]。中国のメディアもまた「中国的聖神領土釣魚列島」他、神聖な領土と形容している[46][47]。
排他的経済水域については、海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)においては両国の合意により境界を画定すると定めており、海域が両国間で重複する場合には中間線方式で決めるのが原則となっている[48]。中国政府は、東シナ海における境界については中間線方式による合意を拒否しており、南西諸島の西側に沿って走る沖縄トラフまでの大陸棚について、そのすべてに権利があると主張しており、その大陸棚の上に載っている海域すべてが中国の海だと主張している[48]。かつては中国の主張する大陸棚延伸論が認められることもあったが、1994年の国連海洋法条約発効以降は中間線方式が原則となっており、これは国際裁判でも同様の判例が示されている[48]。中国の主張が認められた場合、東シナ海の大半が中国の管轄海域となる[48]。
なお、尖閣諸島周辺に出漁する中国漁民は、福建省の晋江市を拠点としている[49]。晋江は東シナ海と南シナ海へほぼ等距離にあり、国策として両海域に進出する拠点となりうる場所に建設されたと考えられる港湾都市である[49]。尖閣諸島までは500キロメートルも離れているが、晋江の漁民によれば尖閣諸島周辺で獲った魚は格別に高く売れるという[49]。
2010年、中国国家海洋局のまとめた「中国海洋発展報告」には、中国が「本格的に海洋強国の建設に乗り出す」との記載がなされるようになった[50]。
中華民国の立場
中華民国の場合、尖閣諸島は台湾に付随する諸島の一つであり、1895年の台湾併合以来、日本に領有権が移ったものというのが公式見解である。しかし、1970年以前に用いていた中華民国の地図や公文書などでは尖閣諸島を日本領であると認識しており、米国の施政時代にも米国統治に対して抗議しておらず、中華民国による尖閣諸島の領有権主張は周辺海域に豊富な天然資源があるとの国連の調査結果が公表されてからである[51]。1971年4月10日、中華民国外交部は、4月9日にアメリカ国務省のスポークマンであるチャールズ・ブレイが「アメリカは来年、尖閣列島を含む南西諸島の施政権を日本に返還する」と発言したことに対して、情報司長談話を発表してこれに対抗し、尖閣列島は中華民国に返還すべきであると発表した。中華民国が尖閣の領有権に関してアメリカ政府に要求したのはこれが初めてである。
また、4月10日午後、アメリカ東部の大学に留学している中国人留学生を中心にした尖閣列島の日本領有に反対するデモ隊が、ワシントンのアメリカ国務省横の広場で集会を開いたのちに、アメリカ国務省、国民政府大使館、日本大使館に向かい、抗議行動を行った。ロサンゼルスでも、中国系のアメリカ人学生200人が日本総領事館にデモ行進を行い、「大東亜共栄圏粉砕」「佐藤内閣打倒」などのプラカードを掲げながら、20分にわたり気勢を上げた[52]。
台湾独立派の政党である台湾団結連盟(台連)は、尖閣諸島は「日本固有の領土である」と主張している。また、中華民国総統であった李登輝は『沖縄タイムス』(2002年9月24日)のインタビューで「尖閣諸島の領土は、沖縄に所属しており、結局日本の領土である。中国がいくら領土権を主張しても証拠がない。国際法的に見て何に依拠するのか明確でない」と語っている[51]。
李登輝はまた、日本は民主国家であり、沖縄県が民主国家の中に置かれていることはきわめて重要である、尖閣諸島は完全に沖縄に属するのであるから、沖縄県全体が日本の領土である以上、尖閣諸島は日本の領土にほかならないと語り[53]、1970年頃に周辺海域に石油の埋蔵が確認されてから、急にこれが自国領土だと言い出して騒いでも国際法からみて何の根拠もないとした[53]。中国の主張については「外できれいな女の子、他人の奥さんを見たからといって、勝手に『これは私の妻だ、私のものだ』と言うのと同じ」と評した[54]。ただし、漁業権については日本と中華民国の間で話し合いをもつ必要があり、かつまた、将来的には日本と中華民国を結ぶ中間地としての沖縄を考えるべきとの見解を示した[53]。日本政府による尖閣諸島国有化後の2013年には、「(中国は)周辺国への内政や領土干渉を繰り返すことによって、自分たちの力を誇示しているのである。こうした中国の動きを説明するのに、私は『成金』という言葉をよく使う。経済力を背景に、ベトナムから西沙諸島を奪い、南沙諸島でフィリピンが領有していた地域に手を出し、そして日本領土である尖閣諸島の領海、領空侵犯を繰り返す中国は、札束の力で威張り散らす浅ましい『成金』の姿そのものである。それこそ私は事あるごとに日本や沖縄の要人、中華民国内部に向けて『尖閣諸島は日本の領土』と言い続けてきた。しかし、肝心の日本の政治家のほうが中国に遠慮して、『尖閣は日本の領土』という態度を示してこなかった。野田前首相の時代に尖閣諸島は国有化されたが、あのような手続きを行ったところで、どれほどの効果があるのか。国が買わないなら都で買う、と表明した石原慎太郎前都知事にしても、彼の個人的な意気を示すだけの話であったように思う。もともと尖閣諸島は日本国民の領土なのだから、日本政府は手続き論に終始せず、中国が手を出してくるなら戦う、ぐらいの覚悟を示す必要がある」と述べている[55]。また李登輝は、中国人民解放軍は、陸軍には覇権を拡張する道がないため、海軍の強化に努めており、尖閣諸島周辺の領海・領空侵犯を繰り返して日本に揺さぶりをかけるであろうが、現在のところ軍事侵攻する可能性は低く、それは日本の同盟国であるアメリカ軍を恐れているからであり、従って中国は尖閣諸島の「共同管理」を突破口にして、太平洋に進出することを狙っており、中国による尖閣諸島の「共同管理」の申し出は断固拒絶すべきであると述べている[55]。
台北市長であった馬英九は、「中華民国は日本と交戦することを躊躇してならず、中華民国は東京に対し漁業域の確定を要求すべき」と発言していたが、総統就任後、2008年秋に尖閣諸島の主権問題の棚上げ・周辺海域の共同資源開発を提案し、漁業権交渉を優先させる方針を明らかにしている。中華人民共和国の海洋調査活動については「問題を複雑化する」として否定的であり、日台間にトラブルに対処する緊急連絡窓口を設けることで合意するなど、「主権問題棚上げ論」に傾きつつある。また、中華民国当局は尖閣諸島問題で中国側との連携、協力は一切しないと再三にわたり言明している。
2008年6月に発生した聯合号事件では、中華民国側が行政院海岸巡防署の巡視船を派遣するなど緊張が高まったが、日本の海上保安庁が謝罪と賠償を表明して収束した。中国漁船衝突事件直後の2010年9月13日には、日本側EEZ内に侵入した中華民国の抗議船を保護する名目で、海岸巡防署巡防船12隻を派遣している。ここでの中華民国政府の行動は冷静であり、日中間の争いには関与せず、中華人民共和国の動きに便乗しようという姿勢もなかった[56]。2012年には中華民国の漁船団を護衛するため尖閣諸島海域に入った中華民国の巡視船が日本の巡視船に放水するという事件があった[57]。
馬英九政権誕生以来、中華民国は積極的な中華人民共和国との経済融和策を推進してきたが、2009年以降は中華人民共和国の過度の経済膨張を冷静に見直し、対日関係の再構築を図るようになってきた[56]。2009年12月の統一地方選挙でも、2010年1月~2月の立法委員補欠選挙でも国民党が敗北した[56]。2010年6月、日本と中華民国は国境問題で大きく前進し、日本は与那国島上空の防空識別圏見直しを実施した[58]。それが可能となったのは、亜東関係協会などによる緊密な日台協力関係のおかげである[58]。また、台湾と共通の経済圏・文化圏を形成してきた長い歴史をもつ与那国町はさかんに台湾との交流関係を進めている[59]。このような動きは石垣市にも広がっている[59]。
2011年の東日本大震災に際しても、台湾から寄せられた義援金は150億円以上(2014年12月31日までに総額253億円)と群を抜いており、その物心両面からの支援は被災地の人々をおおいに勇気づけた[56]。尖閣諸島問題に関しては、過激な活動家が存在することは事実であるが、その多くは反中華民国政府の立場に立っており、バックに中国共産党に近い組織があるといわれている[56]。活動資金も香港経由で中共からもたらされている[56]。中華民国政府に比較的近い筋からは、台湾漁民が尖閣近海に出向きたがるのは漁獲という生業のためであり、漁業さえやらせてくれれば国民感情を抑えることができるという声も聞かれる[56]。
2012年10月19日、中華民国の立法院は尖閣諸島の領有を宣言する決議を史上初めて行った。野党の親民党が提案し、与党の国民党や最大野党の民進党の賛成により可決した[60]。とはいえ、尖閣諸島海域が仮に中華人民共和国領となって一番困るのは実は中華民国である。中華民国当局がこだわっているのは、尖閣諸島の領有権ではなく、むしろ漁業であるという専門家からの意見がある[56]。
2016年1月16日、蔡英文は総統選勝利後の記者会見で「釣魚台(尖閣諸島)は、台湾に属しています」と再び主張した一方、「日本との関係は非常に重視しており、この主権上の争いを関係発展に影響させることは望まない。我々の間には主権やその他の論争が存在するが、我々は日本との関係強化を継続する」とも述べ、従来通り日本との関係強化を図る意志も表明した[61][62]。
日本の立場
日本は「尖閣諸島は歴史的にも国際法上も明らかに日本固有の領土であり、かつ、実効支配していることから、領土問題は存在せず、解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない」とする立場を取っている[63]。日本の国内には民間レベルで灯台の建設を進めたり、定住しようとする計画もあるが、日本政府はそれを押し留めている。
国連海洋法条約は、平和や安全、秩序を脅かさない限り、軍艦であっても他国の領海を自由に通航できる無害通航権を定めているが、日本政府は「中国が無害通航を主張することは、日本の尖閣諸島領有権を認めることと同義になるため、中国が無害通航を求める可能性は低い」とみており、中国軍艦が尖閣諸島の領海へ侵入した場合、無害通航を認めず、海上警備行動を発令して自衛隊の艦船を派遣し、中国軍艦に速やかな退去を促す方針である[64]。また自衛隊は尖閣諸島防衛のために2016年3月に与那国島に与那国駐屯地を開設、約150人を配備した。
アメリカの立場
アメリカは尖閣諸島を日本へ返還する際、中台両国の領有権主張にも配慮し、主権の帰属については判断を避けた[65]。1972年5月に、アメリカニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては(日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とする機密文書をまとめた。同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするための知恵だった。この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるかどうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答えるのではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府高官に指示している。
1996年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙はモンデール駐日大使の「米国は諸島の領有問題のいずれの側にもつかない。米軍は条約によって介入を強制されるものではない」という発言を伝え、10月20日には大使発言について「尖閣諸島の中国による奪取が、安保条約を発動させ米軍の介入を強制するものではないこと」を明らかにした、と報じた。この発言は日本で動揺を起こし、米国はそれに対して、尖閣は日米安保5条の適用範囲内であると表明した。米国政府は1996年以降、尖閣諸島は「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある。」という日中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではない。)した。その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政府関係者から繰り返されている。ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処をする義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない(これは尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改時の情勢を鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定をそこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般には解釈されている[注釈 14]。なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している[67]。
2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」とする見解を日本政府に伝えた。同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないという立場を強調している[68]。
2011年11月14日、フィールド在日米軍司令官は日本記者クラブで記者会見し、尖閣諸島について日米安全保障条約の適用対象とする従来の立場を確認しつつも、「最善の方法は平和解決であり、必ず収束の道を見つけられる。軍事力行使よりもよほど良い解決策だ」と述べ、日中関係改善に期待を示した[69]。
2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリントン国務長官は、日本の前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示し[70][71]、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たす[72]」とし、マイケル・マレン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明している[73]。
2012年11月29日、米上院は本会議で、日米安保条約第5条に基づく責任を再確認する」と宣言する条項を国防権限法案に追加する修正案を全会一致で可決した [74][75]。
2012年12月14日、中国機が記録上初めて日本の領空を侵犯した。飛行高度60メートルとされ、侵犯した領空は尖閣諸島上空であり、日本政府は中国政府に抗議した。また米国政府は中国政府に懸念を直接伝え、日米安全保障条約の適用対象であることなど、従来の方針に変更はないとも伝えたことを国務省は同日記者会見で明らかにした[76][77][78]。
2013年1月2日、前月20日アメリカ下院、翌21日アメリカ上院で可決された尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用対象であることを明記した条文を盛り込んだ2013年会計年度国防権限法案に、オバマ大統領が署名し、法案が成立した[79]。
2013年3月21日、岩崎茂統合幕僚長と、サミュエル・J・ロックリア太平洋軍司令が会談し、尖閣諸島での有事に対処する共同作戦計画を策定することで合意した[80]。2013年7月、アメリカ上院は東シナ海と南シナ海での中国の「威嚇行為」を非難する決議を採択した[81]。
2014年4月6日、チャック・ヘーゲル国防長官は、小野寺五典防衛大臣との会談で、尖閣諸島は日本の施政権下にあり、日米安全保障条約の適用対象に含まれると明言した[82]。ヘーゲルは2014年4月8日、常万全国防相と会談し、アメリカは日米安保条約などで定められた同盟国の防衛義務を「完全に果たす」と主張した[83]。2014年4月11日、第三海兵遠征軍司令官のジョン・ウィスラー中将は、星条旗新聞で「尖閣諸島を占拠されても、奪還するよう命じられれば遂行できる」と主張した[84]。
2014年4月24日、国賓として来日したオバマ大統領は、安倍晋三内閣総理大臣との首脳会談後の共同記者会見と共同声明で、沖縄県尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用範囲内にあるとし、米国が対日防衛義務を負うことを表明した[85][86][87][88][89][90][91][92]。また、これに先立つ来日前の4月23日、読売新聞の単独書面インタビューに応じたオバマ大統領は、沖縄県尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用範囲内にあるとし、歴代大統領として初めてこの適用を明言している[93][94][95]。
2014年9月30日、アメリカ国防副長官であるロバート・ワークがワシントン市内の講演で、「尖閣奪取の企てがあれば対応し、同盟国の日本を支援する」と述べた[96]。
2016年1月27日、アメリカ太平洋軍のハリス司令官は「尖閣諸島の主権について米国は特定の立場を取らない」と従来の見解を繰り返しつつ、「中国からの攻撃があれば、我々は必ず(日米安全保障条約に基づき尖閣諸島を)防衛する」と米軍の軍事介入を表明した[97][98][99]。アメリカ政府・軍関係者が、尖閣諸島について中国を名指しし防衛義務を述べることは異例であるとされている[100]。
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争点
要約
視点
尖閣諸島を巡る日中間の争点については以下、日中両国の主張を整理する。
1971年12月30日、中華人民共和国外交部声明は釣魚台は中国領であると主張した[101]。また、中国に領域権原があるという主張は日本の歴史学者井上清の1972年の著書『「尖閣」列島』でも行われた[102]。井上の主張について、1972年7月28日の竹入義勝公明党委員長との会談で周恩来は「尖閣列島の問題にもふれる必要はありません」と述べたうえで「石油の問題で歴史学者が問題にし、日本でも井上清さんが熱心」であると述べた[103]。この会談での周恩来の発言について村田忠禧は、あえて井上の名前を出したことは井上の研究成果に耳を傾けるよう促しているのであるとし、井上と同じく中国に領有権があると主張している[103][104][注釈 15]。なお黄文雄は、井上の著書『「尖閣」列島』を「井上清・元京大教授の『「尖閣」列島』は、その内容がまちがいだらけで完膚なきまでに論破されている。中国の外務省は今でも、台湾で出版された同書の漢訳本を論拠としている。中国政府が2012年9月25日にやっと出した『釣魚島白書』は、かつての『台湾白書』同様、嘘だらけのもので、逆に中国政府は嘘のかたまりであることを世に知らしめた」と評している[105]。以下の争点の表では、こうした中国政府以外の、中国に領有権があるとする主張についても記載する。
日本の主張は外務省HP「日本の領土をめぐる情勢 尖閣諸島に関するQ&A」(平成25年6月5日)にまとめられているが、政府以外の日本に領有権があるとする主張についても記載する。
決定的期日
→「決定的期日」も参照
国際法判例のひとつのプレア・ビヘア寺院事件では、紛争発生以降の片方の当事国による実効的支配が領有権主張の有利な条件と認められなかった。この紛争発生の時点を決定的期日 (Critical date) といい、国際裁判で領土をめぐる紛争を審理する場合、どのような事実に対し国際法の原則と規則を適用するかが重要になるが、紛争国は互いに自国にとって有利になる行動や措置を実行しているので、時間的範囲を決定する必要がある。この場合中国側が領有権を主張し始めた以降の日本の実効的支配や中国と台湾による主権行使行動については認められないことになる。国際司法裁判所の判例(1953年のマンキエ・エクレオ事件)も、紛争が発生した日以後の紛争当事国の行動を重視しないとしている。そのため、決定的期日以前の紛争国の行動が審議されることになる。裁判例としてクリッパートン島事件がある。
誰が最初に発見し、実効支配をしたか
日本側の主張では尖閣諸島は中国に属したことは一度もなく、先占を領有権の根拠としている[101]。尖閣諸島の西方には、1461年から1871年まで、歴代の中国王朝の領土線が存在し、尖閣は一貫して領土外であったとする[106]。
国際法上の領域権原としての先占は、権原取得のための事実が不明確であるゆえに紛争が発生することがあり、1928年のパルマス島の判例では先占や時効ではなく、「領域主権の継続的かつ平穏な行使」が有効とされた[107]。また、東グリーンランドの裁判において「定住に向かない、無人の地では、他国が優越する主張をしない限り微かな実効支配でも有効」と判示され、近年の無人島の判例(リギタン・シパダン島等)でも支持されている。また、マンキエ・エクレオの判例(1953年)において、中世の諸事情に基づく間接的推定は実効支配と認定されず、当該地の課税や裁判の記録等の司法、行政、立法の権限を行使した直接的証拠が必要とされた。
1895年の日本による尖閣諸島編入の有効性
国際法で言う先占の法理で領土編入の有効性が認められるとされる。古文書の島名は自動的に命名者の領土となるのか、議論の前提として中国側は自国が命名したと主張し、日本側は琉球人が漢文で命名した可能性が極めて高いと主張する[208]。しかし近代国際法に則り島の名前を記しただけでは何処の領土か不明であり実効支配していなければ無主地であるとされる。命名者不明の無主地であるならば先占の法理を適用し得るし、日本の1885年から1895年1月まで行われた編入の手続きはその手順に則っているのだから有効である、というのが日本側の主張である[209]。ただし、その最終決定は日清戦争中であった。
国際法判例においては、不明瞭な記録による間接的推定は認められず、課税や裁判記録といった行政、司法、立法の権限を行使した疑義のない実効支配の直接的かつ近代的な証拠が要求されている[210][211]。
第二次世界大戦終結前までの管轄
第二次世界大戦終結前まで、台湾か沖縄県のどちらに属したかについても争点がある。
第二次世界大戦の戦後処理、条約、抗議時期に関する争点
第二次世界大戦の戦後処理についても対立している。現在事実上台湾を統治する中華民国も中華人民共和国も、連合国と日本との戦争状態を終結させた日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の締結に加わっていない(中華民国とはその後個別に日華平和条約を締結)。中華人民共和国政府はこの点を捉えて、この条約の合法性と有効性を承認しないという立場を取っている。
一方、日本政府は第二次世界大戦の戦後処理は妥当なものであり、尖閣諸島は1895年1月14日の編入以来一貫して日本が統治し続けてきた固有の領土であって、このことは国際社会からも認められている、としている。
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現状
要約
視点
保釣運動
→詳細は「保釣運動」を参照

保釣運動とは、「中国固有の領土である釣魚台列島(尖閣諸島)を守れ」と中国人社会で湧き起こっている運動。1971年、アメリカに留学中だった台湾人学生の間から発生したのが始まりといわれる[3]。1996年以降、頻繁に日本の領海を侵犯をするなど、活動は活発化している。
1996年以降の動きの中心になっているのは香港(中国)や台湾の活動家であり、1997年の香港中国返還を目前にして盛り上がった民族主義的な動きの反映との見方もある。最近は憤青やその代表格の童増のようにネットも活用している。
保釣運動を中国政府が煽っているのではないかと考える日本人もいるが、保釣運動の激化は、中国政府にとって必ずしも好ましいものとは限らない。中国政府が現状維持や日本への譲歩を望む場合、中国国民や軍部から弱腰であると突き上げを受けるからである。
なお、保釣運動に参加するのは中国人だけでなく香港や台湾の中国人活動家も含まれているほか、大陸の中国共産党政権に反対する立場の反共愛国連盟も含まれている。
1969年発行の中国の公式地図の発見
2015年2月、1969年に中国で刊行された「中華人民共和国国家測絵(そっかい)総局(現・国家測絵地理信息局)」の「公式地図」で魚釣島から赤尾嶼(大正島)まで「尖閣群島」として掲載されていたことが判明した。巻頭には毛沢東主席の言葉が掲載されており、尖閣諸島海域で海洋資源が発見されたのが1968〜69年であったことから、資源が発見される直前まで日本領だと判断していたとみられる[228][229]。
中国政府・大陸中国人の言動
中国で発行された地図に対する見解
中国で発行された地図に尖閣諸島が日本名で記載されているものがあることについて、中国の「人民日報」は、「地図の一部は植民地時代の地図を使用したもので、改訂されず日本風の名称のまま記載されている。」「戦後中国が復興する過程で過去の古い地図を修正していた。」との理由を述べ、過去の地図の名称や国境が矛盾している事は現在の中国政府の立場と無関係だと主張している[230]。また上海国際問題研究院の廉徳瑰は、「日本の1970年代以前の地図にも、釣魚島(尖閣諸島)が日本に属すことを明らかにしていないものが多数ある」「1946年1月29日に外務省が米軍に提供した「西南諸島一覧表」では「赤尾嶼(せきびしょ)」「黃尾嶼(こうびしょ)」などの中国語の名称が使われている[231]。」との主張をしている[232]。
中兼和津次によると、紅衛兵が文革中に出した地図にも、尖閣諸島は日本の領土と書いてあり、それらの地図は古本屋から買い占められてしまったという[20]。
中国による沖縄の領有権の主張
→「中国人による沖縄県への認識」も参照
近年、中国は沖縄の領有権を主張する動きを見せている。また台湾もかつて沖縄返還に抗議していた(中華民国#沖縄県への認識参照)。例えば政府系研究機関が「沖縄県は終戦によって日本の支配から脱しているが、いまだ帰属先の策定が行われていない」と沖縄未定論を主張しはじめている。これに対して日本側で尖閣諸島問題は将来的な沖縄侵攻の布石と見ることも出来るとの指摘もある[233]。
韓国の『東亜日報』によれば、2012年7月12日に中国国防大学戦略研究所長の金一南少将は中国ラジオ公社において「釣魚島(尖閣諸島)に関しては日本側に必ず、行動で見せてやらなければならない」「沖縄の中国への帰属問題を正式に議論しなければならない」「沖縄は本来、琉球という王国だったが1879年に日本が強制的に占領」したとしたうえで、「琉球がどの国に帰属し日本がいかに占領したのか、詳しく見なければならない」「日本は琉球から退くのが当然」と主張した[234]。
2012年11月14日、中国、韓国、ロシアによる「東アジアにおける安全保障と協力」会議で、中国外務省付属国際問題研究所のゴ・シャンガン副所長は「日本の領土は北海道、本州、四国、九州4島に限られており、北方領土、竹島、尖閣諸島にくわえて沖縄も放棄すべきだ」と公式に演説した。そのためには中国、ロシア、韓国による反日統一共同戦線を組んで米国の協力を得たうえで、サンフランシスコ講和条約に代わって日本の領土を縮小する新たな講和条約を制定しなければいけない、と提案した。モスクワ国際関係大学国際調査センターのアンドレイ・イヴァノフは、この発言が中国外務省の正式機関の幹部で中国外交政策の策定者から出たことに対し、中国指導部の意向を反映していると述べている[235]。
中国は、ロシアに対し、北方領土問題においてロシアを支持する代わりに、ロシアも尖閣諸島問題において中国の主張を支持するよう2010年ごろから働きかけている。ただし、日本との関係を重視するロシアは、中国の提案を受け入れていない[236]。
中国の尖閣海域における侵犯行為数
日本政府による尖閣国有化以降、同海域において中国の行動が活発化している。以下はそのデータである。
「核心的利益」
→「南沙諸島」も参照
2010年3月、南シナ海に関して戴秉国国務委員が「南シナ海は中国の核心的利益に属する」と、米政府スタインバーグ国務副長官へ伝えた[237]。のちに中国は「そんなことはいっていない」「南シナ海問題の解決が核心的利益といった」と発言を修正した[238]。従来「核心的利益」の語は、台湾やチベット自治区、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)に限って用いられていたもので、毎日新聞は「安全保障上で譲歩できない問題と位置づける」用語であると解説している[239]。
同2010年10月には中国が東シナ海を、国家領土保全上「核心的利益」に属する地域とする方針を新たに定めた[237]。2012年1月17日には人民日報は尖閣諸島を「核心的利益」と表現した[238]。2012年10月25日には中国国家海洋局の劉賜貴局長が再び「南シナ海での権益保護は我が国の核心的利益にかかわる」と発言し、同局サイトにも掲載され、事実上公式の発言となった[240]。2013年4月26日には中国外務省の華春瑩副報道局長が「釣魚島問題は中国の領土主権の問題であり、当然中国の核心的利益に属する」と明言したが[239]、4月28日の同省の公式サイトの掲載文では曖昧な表現に改竄された[241]。
海洋調査
排他的経済水域内での海洋調査は、一般には主権国の同意のもとでおこなわれる限りなんら問題のない科学探査であるが、同意を得ない場合は問題となる。海洋調査船が政府所属の船舶(公船)である場合、国連海洋法条約により公船に対し拿捕・臨検等の執行措置をとることはできないとされており、同意のない海洋調査について可能な対応に限界がある。この場合相手国政府に対して現場水域での、あるいは外交ルートを通じての中止要請をおこなうことや再発防止の要請をおこなうことになるが、中国の海洋調査行動については違反調査が繰り返されている状況にある[242]。
漢疆計画
2012年11月9日、中華人民共和国の新聞社中国新聞網は、1990年に台湾(中華民国)軍による尖閣諸島強襲作戦「漢疆計画」があったことを報じた。その中で香港の亜州週刊(2012年11月18日号)における馬英九総統のインタビューを紹介。漢疆計画とはヘリコプターで台湾兵士が尖閣諸島に上陸をして日本の灯台を破壊し、中華民国国旗を建て、その後に撤退する計画であったという。当時の郝柏村(ハオ・バイツン)行政院院長が計画を支持し、45人の兵士が訓練にあたっていた。しかし馬は、最終的に当時の李登輝総統が計画中止を命じたと述べている[243]。
沖縄漁民の苦境
政府レベルでは中国・台湾ともに話し合いでの問題解決を主張しているが、実際には相互に事前通報する取り決めが日中政府間で結ばれている排他的経済水域(EEZ)内はおろか、尖閣諸島周辺の日本の領海内で中国人民解放軍海軍の艦船による海洋調査が繰り返されていたり、台湾および香港の中国人活動家の領海侵犯を伴った接近が繰り返されている。このような行動に対して日本政府はそのたびに抗議しており、台湾側は民間抗議船の出航を止めたことがある。中国側は日本政府の抗議を無視している。なお、日本は実力行使に訴えたことはないが、偶発的事故によって台湾の民間抗議船を沈没させる事故(後述。日本側が過失を認め賠償金を支払っている)が発生している。
また地元八重山諸島の漁民によれば、日本の排他的経済水域(EEZ)内の尖閣諸島近海で操業していると、中国の海洋調査船にはえ縄を切断されたり、台湾の巡視船から退去命令を受けたりと中台双方から妨害されているうえ、台湾漁船が多く操業しているため、自分達が中国の漁業取締船に逆に拿捕される危惧があることを訴えている[244]。
中台共闘の可能性
中国政府は、日本の揺さぶりのため、台湾の領有権主張に賛意を示している。中国共産党は、尖閣海域に侵入しようとする台湾の一部の活動家に資金援助を行なっているとされる。台湾や香港が前面に出てくれば、日中の対立構図から外れ、アメリカの介入が少なくなるとの読みがある[245]。
2013年1月24日、台湾の抗議船と巡視船が、一時、尖閣諸島沖の接続水域に入った。この時、中国の海洋監視船も入り、台湾の抗議船に同行する姿勢を見せた。これは、中台共闘を日米両国にアピールする思惑があったとされる。ただし、この時は台湾の巡視船が、中国の海洋監視船に離れるように警告している。台湾側は、中台共闘が、中国の統一工作に利用されるとの恐れがあると見られる。この24日の抗議船の出港情報は、事前に日本にも台湾から伝えられており、台湾は中台連携と受け取られないように注意している[246]。
台湾外交部は、中国が平和的解決に向けた構想を示していないことなどを理由に、尖閣諸島問題では中国と「連携しない」と表明している[247]。
日本側は、台湾と中国の連携阻止のため、2013年4月10日、日中漁業協定で中国が北側の漁業権を認められていた尖閣周辺の日本の排他的経済水域の南側を「共同管理水域」に指定する日台漁業協定を結び、台湾漁船の漁業権を認めた[248]。
軍事的衝突の可能性
国連による国連憲章は第6章で紛争の平和的解決を定めており、軍事的手段による解決を否定している。また安全保障理事会は、武力による紛争解決を図った国に対する軍事制裁などを定めた国連憲章第7章に基づく行動を決めることが出来る。なお当事者のひとつである中華人民共和国は常任理事国であるため拒否権をもっているが、第27条3項は『その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3[注釈 22]に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄権しなければならない。』としており、仮に中国が武力による尖閣諸島問題の解決を図った場合、賛否すら表明することが出来なくなる。
中国共産党が武力行使を示唆
台湾の中国国民党系の『聯合報』によると、2012年7月11日、中国国土資源省国家海洋局所管の海洋環境監視監測船隊(海監総隊)の孫書賢副総隊長が「もし日本が釣魚島(尖閣諸島)問題で挑発し続けるなら、一戦も辞さない」と発言した[249]。また南シナ海の南沙諸島問題に関してベトナムやフィリピンに対しても同様に一戦も辞さないと発言した[249]。
さらに7月13日には、中国共産党機関紙の『人民日報』が論説で、野田政権の尖閣諸島国有化方針を受けて「釣魚島問題を制御できなくなる危険性がある」「日本の政治家たちはその覚悟があるのか」と武力衝突に発展する可能性を示唆した[250]。尖閣諸島問題について、同紙が武力行使を示唆するのは異例とされる[250]。
これについて、元外交官で防衛大学校教授をつとめた孫崎享は、2012年時点での日中軍事力の比較では、中国の方が圧倒的に優位にあるため、仮に日中がこの尖閣諸島問題で軍事的に衝突した場合、日本は必ず敗北すると自著その他で訴えた[251]。
一方、2012年7月19日には、元中国海軍装備技術部長で少将だった鄭明は「今の中国海軍は日本の海保、海自の実力に及ばない」と発言したと台湾の中国国民党系の『聯合報』や『中国時報』が報道した[252]。
2012年8月20日にアメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』に発表された海軍大学校教授のジェームズ・ホルムス(James R.Holmes)(戦略研究専門)の記事では[253]、日中が尖閣諸島海域で軍事衝突した場合、米軍が加わらない大規模な日中海戦でも日本側が有利と総括した。ホルムスのシミュレーション分析では日中両国の海洋部隊が戦闘に入った場合、まず戦力や艦艇の数量面では中国がはるかに優位に立つが、しかし実際の戦闘では日本が兵器や要員の質で上位にあり、さらに日本が尖閣や周辺諸島にミサイルを地上配備すれば、海洋戦でも優位となる。中国側の通常弾頭の弾道ミサイルは日本側の兵力や基地を破壊する能力を有するが、日本側が移動対艦ミサイル(ASCM)を尖閣や周辺の島に配備し防御を堅固にすれば周辺海域の中国艦艇は確実に撃退でき、尖閣の攻撃や占拠は難しくなるとした[254]。日本の軍事アナリストからは、早急に日米共同訓練をおこなったうえで陸上自衛隊を尖閣諸島に上陸させ、そのまま配備すべきであるとの意見が寄せられた[255]。
防空識別圏の設定
2013年8月23日、陸上自衛隊中部方面隊総監に着任した堀口英利陸将は、尖閣での中国の動きなどを念頭に「純然たる平時と言えない」との厳しい見方を示した[256]。
2013年11月23日、中国国防省は東シナ海に「防空識別圏」を設定し、それについて声明と公告を発表した[257]。公告では午前10時(日本時間午前11時)より施行されたと明記している。設定された防空識別圏には尖閣諸島が含まれ、日本がすでに設定している防空識別圏と重なっているところがあり、緊張が高まっている[257][258]。この一方的な中国の行為に対しては、日本のみならずアメリカも怒りをあらわにし、チャック・ヘーゲル国防長官が中国を糾弾する声明を発した[257]。
2023年の状況
中国海警局の船が台風の日以外ほとんど毎日のように尖閣諸島周辺の接続水域に侵入し、その回数は過去最多の352回に及んだ。
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尖閣諸島の領有が影響する問題
尖閣諸島の領有が影響を与える問題が存在する。
- 排他的経済水域の境界
- 尖閣諸島が中国領
尖閣諸島年表
→詳細は「尖閣諸島関連年表」を参照
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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