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山口素弘
日本のサッカー選手、監督 ウィキペディアから
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山口 素弘(やまぐち もとひろ、1969年1月29日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロサッカー選手(元日本代表キャプテン)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)、サッカー解説者。現役時代のポジションはMF、主にボランチ。
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クラブ経歴
1984年、前橋育英高等学校入学。1985年、鳥取国体に群馬県代表として出場。1987年1月、全国高校サッカー選手権大会に出場。
1987年4月、東海大学に入学。1988年、全日本大学サッカー選手権大会で優勝(東海大学はこの年が同大会へ初出場であり、この年を含めて6年連続で決勝に進出した)。関東選抜(対関西選抜戦)に選出され、同試合にてMVPに選出される[3]。また、1学年下で礒貝洋光、澤登正朗が加入し、ポジションを守備的ミッドフィルダーに移す。1989年、全日本大学サッカー選手権大会で準優勝。1990年、全日本大学サッカー選手権大会で2度目の優勝。同年、ユニバーシアード(サッカー競技)日本代表に選出される。
1991年4月、全日空に入社、全日空サッカークラブ(後に横浜フリューゲルス)の選手となる。当時の監督は加茂周。1992年、Jリーグの前哨戦であったナビスコカップに出場。Jリーグの開幕した1993年、8月14日の対浦和戦にてJリーグ初ゴール[4]。1994年1月1日、天皇杯決勝で鹿島アントラーズを破り優勝。1995年8月、第1回アジアスーパーカップで優勝。1996年は28試合8ゴールとキャリアベストのゴールを決めるなど、Jリーグベストイレブンに選出され、1997年は2ndステージ第5節、8月16日の鹿島アントラーズ戦でボランチとしては珍しいハットトリックを達成するなど[5]、2年連続でJリーグベストイレブンに選出された。
1998年10月29日、横浜フリューゲルスと横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)の合併が発表されたが移籍せず12月に名古屋グランパスエイトへの移籍を発表。1999年1月1日、横浜フリューゲルスの最後の試合となった天皇杯決勝では清水エスパルスを破り優勝し、キャプテンとして優勝杯を掲げた。
2000年1月1日、移籍後の名古屋においても天皇杯優勝。2002年12月、名古屋から戦力外通告を受けて、アルビレックス新潟に移籍。2003年11月23日、新潟がJ2で優勝し、J1昇格を果たす。2004年12月4日、新潟県中越地震チャリティーマッチにジーコジャパンドリームチームの一員として出場。
2005年8月16日、新潟からJ2の横浜FCへの期限付き移籍が発表された[6]。2006年、横浜FCに完全移籍[7] J2優勝とJ1昇格に大きく貢献した。2007年、キャプテンとしてチームを牽引。シーズン終了を待たずして戦力外通告を受け、現役引退。J1通算362試合37ゴール、J2通算106試合4ゴールの成績を残した[4]。
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代表経歴
1995年1月、フリューゲルス時代に指導を受けた加茂周監督により日本代表に選出され[8]、キング・ファハド・カップでのナイジェリア戦で代表デビューを果たした[2]。同年ダイナスティカップの韓国戦で代表初ゴールを決めた[9]。
1997年、フランスW杯アジア最終予選では8試合全てに出場[9]、9月28日の韓国戦では自身のキャリアを代表するゴールをループシュートで決めたが[8]、このゴールが代表最後のゴールとなった[9]。アジア第3代表決定戦となったイラン戦でも先発出場[9]、勝利に貢献、日本代表のワールドカップ初出場に貢献した。
現役引退後
引退後は主にサッカー指導者、サッカー解説者として活躍。2008年4月よりJFAアンバサダーとして若年層に対する技術指導や普及活動にも従事した。
2009年にJリーグの監督に必要なS級コーチ資格を取得し、2012年3月21日、古巣である横浜FCに前監督のシーズン途中解任を受け監督として就任、第5節より指揮を執った。相馬直樹、秋田豊に次ぐ、3人目のW杯出場経験者の監督となる。監督初年度のシーズンは前監督解任時に最下位だったチームを立て直し、第9節にて監督初勝利を皮切りに最終的にはJ1昇格プレーオフへ進出するなどの好成績を残した。が2年目の2013年以降は優勝争いに絡めず中位止まりの成績に終始。「クラブとの意見の相違」を理由に足かけ3年に渡った任を退いた。
2015年6月、日本サッカー協会技術委員(強化部会員)に就任し[10]、Jリーグ・アンダー22選抜のコーチに登録された[11]。
2018年には、名古屋グランパスの育成部門のトップである「アカデミーダイレクター」に就任。16年ぶりとなる名古屋への復帰となった[12]。
また、2020年からは名古屋グランパスに新設された役職「執行役員フットボール統括」に就任。トップチームからアカデミーまで、チームのフットボール全体を統括しつつ、経営面でも役員として携わることになった[13]。
さらに、2021年からは名古屋グランパスの「執行役員ゼネラルマネージャー」に就任した[14]。
エピソード
- 1997年のフランスW杯アジア最終予選第3戦、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で行われた韓国戦でのループシュートは、1985年の木村和司のメキシコW杯アジア最終予選対韓国戦のフリーキックと並び、伝説と称されている[8]。
- 大学卒業後、全日空/フリューゲルスから横浜FCまでの17シーズン中14シーズン、所属した4クラブの全てでキャプテンを務めた。そして4クラブ全てに於いて、リーグ戦、カップ戦等の優勝タイトルをもたらしている。
- 2007年のインタビュー[15] によると、山口は名古屋や新潟に在籍した時も自宅を横浜に残していたが、フリューゲルスからF・マリノスに移管されたかつての練習場、東戸塚トレーニングセンターには全く近付かなかったとしている。そして、横浜FCがこの練習場を2006年に引き継いだ際、山口はフリューゲルス時代と同じ場所に自分のロッカーを置いた。
- 引退後に自身の引退試合を企画していたが、「フリューゲルス」の名称を使う許可が横浜F・マリノスより下りなかったため、開催を断念した。
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所属クラブ
- 1984年 - 1987年 前橋育英高等学校
- 1987年 - 1991年 東海大学(東海大学体育会サッカー部)
- 1991年 - 1998年 全日空サッカークラブ / 横浜フリューゲルス
- 1999年 - 2002年 名古屋グランパスエイト
- 2003年 - 2005年8月 アルビレックス新潟
- 2005年8月 - 2007年 横浜FC
個人成績
- その他の公式戦
- 1991年
- コニカカップ 4試合0得点
- 1994年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- 2000年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- 国際試合
- 2000/01 アジアカップウィナーズカップ 4試合0得点
- 出場歴
- Jリーグ初出場:1993年5月16日 対清水エスパルス戦 (三ツ沢公園球技場)[1]
- Jリーグ初得点:1993年8月14日 対鹿島アントラーズ戦 (茨城県立カシマサッカースタジアム)[1]
- JSL(1部)初出場:1991年9月15日 対松下電器戦 (三ツ沢球技場)
- JSL(1部)初得点:1992年2月9日 対松下電器戦 (神戸総合運動公園ユニバー記念競技場)
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代表歴
出場大会など
- 1990年 ユニバーシアード
- 1995年 キング・ファハド・カップ、ダイナスティカップ、キリンカップ、アンブロカップ
- 1996年 カールスバーグカップ、キリンカップ、AFCアジアカップ
- 1997年 フランスW杯アジア予選(1次・最終)、キングスカップ、キリンカップ、JOMOカップ
- 1998年 フランスW杯、ダイナスティカップ、キリンカップ
試合数
- 国際Aマッチ 58試合 4得点(1995年 - 1998年)[2]
出場
得点
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指導歴
- 2012年 - 2014年 横浜FC 監督
- 2015年6月 - 同年11月 Jリーグ・アンダー22選抜 コーチ
- 2018年 - 名古屋グランパス
- 2018年 - 2019年 アカデミーダイレクター[12]
- 2020年 執行役員フットボール統括
- 2021年 - 執行役員ゼネラルマネージャー
監督成績
- 2012年は第5節から指揮。
受賞歴
大学
- 1988年 MVP(関西選抜vs関東選抜)
Jリーグ
- 1996年 Jリーグベストイレブン
- 1997年 Jリーグベストイレブン
- 1998年 Jリーグオールスターサッカー
- 1999年 Jリーグ優秀選手賞
- 2004年 Jリーグオールスターサッカー
- 2008年 Jリーグ功労選手賞
著書
- 『横浜フリューゲルス消滅の軌跡―キャプテン山口素弘が語るチーム消滅と天皇杯優勝までのドラマ』日本文芸社刊
テレビ出演
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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