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清水美波
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清水 美波(しみず よしなみ、1944年2月15日 - )は、群馬県出身の元騎手・元調教助手・元調教師。
兄の清水利章も元騎手・元調教師。
経歴
要約
視点
1961年に東京・藤本冨良厩舎に騎手見習として入門し、1964年に同厩舎からデビュー。
1年目の1964年は3月21日の東京第4競走4歳以上オープン・フジムスメ(7頭中5着)で初騎乗を果たし、5月30日の東京第2競走障害4歳以上オープン・ノブタカラで初勝利、6月20日の東京第5競走4歳未勝利・ヤマシヤインで平地初勝利を挙げる[1]。12月12日には中山第11競走4歳以上180万下をアサホコで勝利[2]するが、レース当日には馬主の手塚栄一が藤本を介さず地方転出を別の調教師に約束してしまい、アサホコを受け取りに来た調教師を藤本が怒って追い返していた[3]。
2年目の1965年には6月12日の東京第5競走4歳以上オープンで春の天皇賞馬になったアサホコに騎乗するも2着に終わり、連勝は6でストップし、清水で始まり、清水で終わった形になった[2]。
初年度は5勝[4]、2年目は7勝[4]を挙げ、3年目の1966年には8月6日・7日の福島競馬場で初の2日連続勝利[5]を記録したほか、第1回関屋記念[6]ではアサホコと同じ[2]ヒカルメイジ産駒のセエチヨウ[7]でナスノコトブキを抑えて[8]唯一の重賞勝利[5]を挙げるなど、初の2桁勝利となる10勝[4]をマーク。
1967年には5月21日の新潟で初の1日2勝[9]を記録し、1971年には5年ぶりの2桁で自己最多の13勝[4]をマークしたが、2桁勝利は1971年が最後[4]となった。
1972年の日本経済賞ではヒカルメイジ産駒アサゴールドで3着[10]で入り、1975年には後にシンウルフの母となるスノーシヨツトで秋の福島芝1000m戦を連勝[11]。
1978年6月25日の中山第5競走4歳未勝利・チェリーコマンダーが最後の勝利となり、同馬に騎乗した9月16日の東京第9競走4歳以上300万下(11頭中10着)を最後に現役を引退[12]。
引退後は藤本厩舎の調教助手(1979年 - 1980年)を経て、1981年に調教師免許を取得し、1982年に開業。
1年目の1982年は3月7日の中山第7競走5歳以上400万下・クボサンゴ(11頭中2着)で初出走、同日には弥生賞・コウチオウショウ(7頭中6着)で重賞初出走を果たす[13]。コウチオウショウでは皐月賞(21頭中14着)で開業1年目での八大競走・GI級レース初出走[13]を果たし、9月4日の新潟第1競走4歳未勝利ではワードコルソンに同期の嶋田功[14]を騎乗させて初勝利を挙げた[15]。
2年目の1983年にはウメノソブリンがクイーンステークス2着[16]、シーナンレディーが牝馬東京タイムズ杯3着[17]に入った。
3年目の1984年からは岩手から転厩[14]してきたスーパーグラサードが中野栄治とのコンビで活躍し、1984年は転厩2戦目の白菊賞(400万下)で11番人気ながらスクラムダイナの3着、1985年は弥生賞で9番人気ながらスダホークの4着、皐月賞で18番人気ながらミホシンザンの5着と健闘[18]。1986年には新潟大賞典→エプソムカップを連勝し[18]、新潟大賞典が清水の重賞初勝利[19]となった。
1985年には堀井雅広が所属騎手となり、1986年にはステイヤーズステークスをシーナンレディーで制して重賞3勝目[20]を挙げるが、シーナンレディーは2025年現在もステイヤーズステークスを制した唯一の牝馬[21]である。3000m以上の重賞を牝馬が制するのも、1988年のダイヤモンドステークス・ダイナブリーズを最後に出ておらず、2頭だけとなっている[22]。
堀井とのコンビでは後にタマモクロス・ミヤマポピー兄妹の母となるグリーンシャトーの初仔であるシャトーダンサー[23]で特別戦を2勝[24]するなど、初の20勝台で自己最多の27勝[25]をマーク。
1987年には大井から転厩してきたシラオキ系の牝馬グレースシラオキを第1回根岸ステークスに出走させ、鞍上の蛯沢誠治が3コーナーから外目を回してワンテンポ遅らせる形でスパートし直線では激しい追い比べを制した[26]。
1990年にはサンシャインボーイ産駒モナンファンが中日新聞杯3着[27]、1992年にはオペックホース産駒マイネルヤマトが京成杯2着[28]、1993年にはアメリカ産馬インディードスルーで京成杯3歳ステークス3着[29]に入った。
2001年には父メジロマックイーン・母父マルゼンスキーのツジノワンダー[30]が新装された新潟芝外回り2000mの基準タイム1分56秒4を叩き出し[31]、2011年の天皇賞(秋)でトーセンジョーダンに更新されるまで日本レコードであった[32]。
2001年には父ホワイトマズル・母父リアルシャダイのイングランディーレがデビューし、ダートの短距離から徐々に距離を延ばしていくと、小林淳一とのコンビで2002年に2度目の芝で初の長距離戦となるステイヤーズステークスをホットシークレットの4着と好走[33]。
2003年には中山芝3200mのダイヤモンドステークスを格上挑戦の軽ハンデで逃げ切り[33]、前年のステイヤーズSに続く好走で長距離戦に抜群の適性を示し[34]、春の天皇賞路線の伏兵に台頭[35]。日経賞も4コーナー先頭から押し切って重賞を連勝し[33] [36]、天皇賞(春)9着後は再びダート戦線を走り[33]、旭川のブリーダーズゴールドカップでは五十嵐冬樹騎乗[33]で2着に3馬身差と力の違いをまざまざと見せ付けて完勝[37]。安藤勝己が騎乗した金沢の白山大賞典は2周目の3コーナーで先頭に並びかけると、直線は後続を寄せ付けず6馬身差をつけて圧勝し、単勝1.4倍の断然人気に応えて交流重賞を連勝[38]。
2004年の天皇賞(春)では積極的にハナを制すと[39]、引き離して逃げ[39]、有力馬が牽制しあう中でもマイペースを貫く[40]。直線でも大きなリードを保って後続に7馬身差をつけるワンサイドゲームを演じ[39]、ダート重賞で全国を転戦した経験から培った順応性と底力[39]をまざまざと見せつけ[40]、リンカーン・ザッツザプレンティ・ネオユニヴァース・ゼンノロブロイ[39]の四強対決に待ったをかけて[40]第129代天皇賞馬[39]となった。その後は天皇賞(春)のモデルと言われるイギリスのアスコットゴールドカップに日本馬として初参戦し[41]、4000mを果敢に先頭を奪って逃げたものの、最後の直線半ばで力尽き13頭中9着に敗れた[42]。帰国後はダートのブリーダーズゴールドカップを1番人気で2着と好走したが、直後に屈腱炎を発症して長期休養を余儀なくされる[41]。1年3ヶ月もの休養から復帰するも、全盛期の走りはついに戻らず、2006年のブリーダーズゴールドカップ6着を最後に現役を引退[41]。結果として天皇賞(春)が最後の勝利となり[41]、清水も最後の重賞勝利が唯一のGI制覇[43]となった。
2004年は丹内祐次が所属騎手としてデビュー[44]したほか、ハットトリックも既走馬相手の未勝利戦でデビューすると快勝し、2戦目の牡丹賞では32秒台の末脚を繰り出し連勝するが、栗東・角居勝彦厩舎に移籍している[45]。
2005年には芦毛のタイキエニグマが横山典弘とのコンビで1月初日の出賞(1000万下)→2月内外タイムス杯(1600万下)と中山ダート1800m戦を連勝、秋の東京では1600万下の神無月ステークス・ブラジルカップにOPの師走ステークスと3連勝し、2006年には根岸ステークスを柴田善臣で2着に入った[46]。
2013年11月9日の福島第1競走2歳未勝利競走・フレンチフェローが中央最後の勝利、同21日の浦和第9競走マルチグレート特別・マイネエレーナが最後の勝利となった[47]。
2014年2月24日の東京第8競走4歳以上500万下・ウインデスティニー(16頭中16着)が最後の出走[48]となり、同28日付で引退[49]。
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調教師成績
- 主な管理馬
※太字はGIレース、斜体は交流重賞。
- スーパーグラサード(1986年新潟大賞典、エプソムカップ)
- シーナンレディー(1986年ステイヤーズステークス)
- グレースシラオキ(1987年根岸ステークス)
- イングランディーレ(2003年ダイヤモンドステークス、日経賞、ブリーダーズゴールドカップ、白山大賞典、2004年天皇賞 (春))
主な厩舎所属者
※括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
脚注
関連項目
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