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第32回NHK紅白歌合戦

1981年のNHK紅白歌合戦 ウィキペディアから

第32回NHK紅白歌合戦
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第32回NHK紅白歌合戦』(だいさんじゅうにかいエヌエイチケイこうはくうたがっせん)は、1981年昭和56年)12月31日NHKホールで行われた、通算32回目のNHK紅白歌合戦。21時から23時45分にNHK生放送された。

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概要 ジャンル, 放送方式 ...
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概要

  • 両組司会は2年連続で黒柳徹子山川静夫(8年連続)が担当。
  • 前回第9回1958年)以来22年ぶりに紅組司会を務めた黒柳の著書『窓ぎわのトットちゃん』がこの年350万部を超す大ベストセラーを記録、「トットちゃんブーム」が起こり、黒柳の続投も決定した[1]
  • 第36回1985年)までの5回は歌手リーダー制が敷かれた。今回では紅組は水前寺清子、白組は北島三郎がそれぞれリーダーに抜擢された。
  • これまで非公開とされていた世論調査(視聴者アンケート)の結果が試験的に公表された[2][3]
  • 曲順発表前に両組共にトリ歌手の候補を事前に公表するという史上初の試みを行った(翌年の第33回も同様)。紅組はチームリーダー・水前寺、当時最多出場(且つ25年連続出場達成)を誇り「鳳仙花」が久々のヒット曲となった島倉千代子、前回歌唱した「大阪しぐれ」が年跨ぎのヒット曲となった都はるみ、当時の若手代表として森昌子、白組は例年トリ争いを繰り広げた北島、森進一(この年デビュー15周年)、ここ2年間の担当者である五木ひろしとの布陣で発表される。なお、ここ2年間紅組トリおよび大トリを務めた八代亜紀(この年デビュー10周年)は、この年ヒット曲に恵まれず、トリ候補から外れた。
  • 島倉の「鳳仙花」はトリ曲にしては軽いと判断され、当初本命とされた都は歌唱曲を「大阪しぐれ」ではなくこの年発売の「浮草ぐらし」となったため後退し、水前寺と昌子の一騎討ちと見られた。五木の白組トリはライバルの八代が候補から外れたため後退、水前寺が紅組トリの場合は白組チームリーダーの北島、昌子の場合は「命あたえて」で古賀賞を受賞した進一(森・森対決。2人は後に一時期夫婦となったが、この時はまだ交際にも進んでいない)が起用されると見られていた。通常、12月20日前後に発表される曲順は、この年は本番2日前のリハーサル時点まで発表されなかったが、最終的に予想に反して昌子・北島のトリとなった[4]
  • 今回はブラスバンドチームがステージ上でオープニングファンファーレを演奏して幕開けとなり、黒柳・山川とのトーク後に、第1回より使用された「スタイン・ソング」による出場歌手の入場行進となった。また今回、入場する歌手は、白組は白いブレザーと黒いズボン、紅組は赤いブレザーと白いスカート[5]で統一して入場した。しかし、「スタイン・ソング」が入場行進曲に使用されたのは今回が一旦最後となり、以後の紅白の入場行進では毎年違った入場曲が使用されることとなり、入場行進そのものも後に廃止された。なお、スタイン・ソングは第36回1985年)で復活し、その後第38回1987年)までの3年間、第40回1989年)、及び第47回1996年)から第48回1997年)まで再度使用された。
  • オープニングの「選手宣誓」は、前回に引き続き水前寺清子と北島三郎が担当。だが、それまでの宣誓文は長きにわたり「我々はアーティスト精神に則り、正々堂々、敵をノックアウトするまで戦う事を誓います!!」だったのに対し、今回は「我々は歌の心を大切にし、全ての力を出し、正々堂々、勝利を我がチームにもたらす事を誓います!!」に変更、以後は毎回異なる宣誓文となる。
  • 今回から第36回まで「歌手による歌の祭典」という原点に立ち返るために応援ゲストを原則起用しなかった。また、今回からこれまで番組全編を通じて設置されていた両軍歌手の応援席が、冒頭と終盤にのみ登場(今回の場合は石川ひとみ - 郷ひろみまでの間と野口五郎 - 五木ひろしまでの間の2回登場)する形と変更された。これにより、より派手な舞台装置の転換が可能となった。
  • 菅原洋一の歌唱終了後には、紅組の岩崎宏美・桜田淳子・榊原郁恵・石川ひとみ・松田聖子・シルヴィア 、白組の郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎・田原俊彦・近藤真彦による合同パフォーマンス『愛のコリーダ』(日本語訳詞:あまがいりゅうじ)が行われた。
  • 中間(今回では紅組・五輪真弓VS白組・寺尾聰終了後)にハーフコーナーとして紅白出場歌手によるデュエットコーナーが設けられた。
  • 大トリの北島三郎の「風雪ながれ旅」(2年連続歌唱)歌唱時に、大量の紙吹雪が降り続けた。以後、北島が当曲を披露する際には、沢山舞い落ちる紙吹雪の演出が恒例となった。
  • 優勝は白組。
  • 1995年12月に『思い出の紅白歌合戦』(BS2)で再放送された(BS2での全編再放送はこの1回のみ)。
  • 今回から客席審査のカウントによる審査方法となった[6]。今回では日本野鳥の会による客席審査カウントが行なわれ、日本野鳥の会は以後第36回まで集計を担当し、第43回1992年)にもカウント集計作業を行なっている。
  • 第28回1977年)終了後、紅白担当スタッフと演出手法につき衝突を起こし、前回まで構成を外れていた塚田茂が構成に復帰。塚田の著書[7]によれば、テレビ放送初の紅白の会場であり、塚田が演出家としてのキャリアをスタートさせた地でもある日劇がこの年で閉館となったことを考慮に入れ、「往年の日劇のレビューショー」のような紅白にしたいという方針を塚田と、当時のプロデューサーの増子正利が打ち出したことが、大幅な舞台構成、番組内容の転換が図られることになった直接の契機であるとされている。
  • この年ブレイクし、NHKが発表した世論調査でもランクインしたイモ欽トリオは落選した。「10代を対象に含んだアンケートでは順位が伸びたものの、他のデータでは伸び悩んだ」ことが理由とされている[3]
  • 人気アンケート13位でこの年もあらゆる面で話題となったさだまさし民放版『ゆく年くる年』のメインパーソナリティーに決まったため落選[8]
  • 芸能レポーター梨元勝によれば民放に紅白の取材が開放されたのは今回以降のことであり、そのきっかけとなったのはテレビ朝日系列『アフタヌーンショー』の突撃取材だったという[9]
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司会者

演奏

審査員

大会委員長

  • 田中武志・NHK放送総局長

出場歌手

要約
視点

      紅組      白組      初出場

さらに見る 曲順, 組 ...

デュエットソングショーの曲目・歌手は次の通り。

前回の出場歌手の中より今回不選出となった歌手は以下。

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出場歌手希望世論調査の結果

出典は『朝日新聞[3]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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