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近商ストア
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株式会社近商ストア[2](きんしょうストア)は、近鉄グループの一員で、スーパーマーケットチェーンの運営会社である。
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歴史・概要
要約
視点
近鉄モータースは当時取り扱っていたフォード・モーター以外の他社の自動車部品を取り扱うことが出来ない契約を結んでいた[3]。 そこで、他の自動車部品の輸入・販売を目的とする関連会社として[3]、1953年(昭和28年)9月1日に名古屋市中区大池町5-2-8に資本金300万円で近畿日本商事株式会社を設立したのが始まりである[4]。
しかし、外貨の割り当てもわずかでほとんど自動車部品の輸入事業を行えない状態が続いていたことから、近鉄の百貨店事業の関連会社として輸入業務を行うことになった[5]。 そこで、1954年(昭和29年)10月1日に近鉄百貨店から役員が就任すると共に定款を改訂し[5]、本社を大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-1に移転して事務作業などは近鉄百貨店が担う体制へ変更された[6]。
この変更後も自動車部品の輸入業務は引き続き近鉄モータースが事務を担ったため、近鉄モータース内にあった旧本社を名古屋支店とした[6]。
近鉄百貨店との委託契約に基づいて1955年(昭和30年)6月28日に大阪府立病院食堂の運営を開始した[6]。
1956年(昭和31年)4月18日に大阪赤十字病院に売店を開設したのを皮切りに[7]、小売店の展開を始めた[8]。
1957年(昭和32年)2月18日に津店と四日市店に外商係と売店係を設置し[9]、近畿日本ツーリストの旅行案内所が運営していた店舗を継承する形で[10]1958年(昭和33年)1月31日に津新町駅構内に売店(店舗面積約6.6m2)を新設して駅構内売店事業に参入した[9]。
1958年(昭和33年)4月1日に大阪毎日会館南館に「ドラッグスパシフィック」を開設してドラッグストア事業に参入した[11]。
近畿日本鉄道(近鉄)は、千土地興行から廃止となった初代大阪歌舞伎座ビルの利用方法について相談を受けた[12]。近鉄線の難波乗り入れ計画も進んでいたことから右の出来事をきっかけとして、新装開業する「千日デパート」の1階と地下1階に近鉄が売場を借りる必要性が生じ、当社が2店舗の飲食店を出店することになった[13][14]。1958年(昭和33年)12月1日に地下1階の北西側階段付近に「グリル近鉄」と1階正面出入口近くの東側部分に「近鉄ベーカリー」を開設した[15]。
1959年(昭和34年)12月13日に大阪での当社初の大規模小売店となったアベノ店を近鉄会館に開店した[16]。 この店舗は計画当初はスーパーマーケットとしての開業を目指したが実現せず、対面販売の形で営業を開始した[17]。
1960年(昭和35年)6月1日に近鉄奈良線学園前駅前のショッピングセンター内に「学園前店」を開店し、スーパーマーケットの出店を開始した[18]。
「近鉄百貨店」の関連会社として「近鉄」という名称の使用を自粛するよう当局から指導されたため[19]、1962年(昭和37年)1月14日に店舗名を「近鉄ストア」から「近商ストア」へ変更した[20]。 同年9月14日に[21]天王寺ステーションビル2階と3階に本社事務所を移転した[19]。
地下鉄御堂筋線我孫子駅前に出店した「あびこ店」が駅新設に伴う地価高騰が影響して宅地開発の進展が遅れた伸び悩んだため、近鉄の古くなったバスを譲り受けて改造した移動販売車・「スーパーカー」を1963年(昭和38年)10月15日から「あびこ店」を基地として営業した[22]。 しかし、品揃えに変化がなかったことから2回目以降の巡回時の売上が伸び悩んだ[22]。 また、氷冷蔵庫を搭載したものの[22]、夏場は社内温度が40℃近くになって野菜の鮮度が落ちたり[23]、チョコレートなどが溶けたりするなどしたため[23]、売上が伸び悩んだ[23]。 その上、廃車寸前の車両の改造だったことから故障も多く、狭い路地の運行中に接触して民家の屋根瓦の破損が生じたり、騒音や渋滞などの問題も生じた[22]。 こうした問題もあったことから、巡回先の喜連瓜破地区への店舗の出店に合わせて1964年(昭和39年)7月5日に移動販売車・「スーパーカー」の営業を終了した[23]。
1964年(昭和39年)3月1日に開店した[23]喜連店で青果部門を小規模ながら直営で展開し[24]、同年11月5日に京都駅八条口の「近鉄名店街」に京都店を開設して京都に進出した[25]。
1965年(昭和40年)4月28日には近鉄東海ストアを設立して[26][27]同年6月6日に三重県内4店舗を継承させた[28]。
1967年(昭和42年)3月に八尾集配所(八尾市栄町)を開設して業者からの納品を一括納入へ変更し、集配所で仕分けした商品を各店舗へ集配所から定期便で配送する体制に変更した[29]。
1968年(昭和43年)3月11日に本社事務所を日生不動産天王寺ビル(大阪市天王寺区悲田院町81)へ移転した[28]。
1969年(昭和44年)5月1日に丸亀店を開店して四国に進出し[30]、1970年(昭和45年)12月9日に「四国近商ストア」を設立して[31]1971年(昭和46年)2月1日に丸亀店と坂出店の営業を譲渡した[32]。 同年7月には住吉店で初めて精肉部門を直営化し、同月に八戸の里店で初めて鮮魚部門を直営化、同年9月に西大寺店で初めて生鮮3品全てを直営化した[24]。 そして、1972年(昭和47年)4月1日に生鮮食品を統括する商品第4部を設置し[24]、1973年(昭和48年)6月に生鮮食品の産地での直接買い付けを始めると共に契約栽培にも取り組み始めた[33]。
また、その間の1971年(昭和46年)2月1日に八戸の里集配所を開設して物流・配送業務の効率化を図り[34]、同年4月1日に商品計算業務にコンピューターを本格的に導入して、計算業務の合理化と共に店舗別や業者別などの様々な観点からの商品管理を行うようになった[35]。
そして、「近商ストア」の名称が浸透してきたことから[20]、1972年(昭和47年)4月10日に社名を「近畿日本商事株式会社」から「株式会社近商ストア」へ変更した[36]。 同年11月17日に上新電機と折半出資で「近商上新電機」を設立し[37]、同年12月1日に当社天美店内に「近商上新電機天美店」を開店したのを皮切りに[38]当社店舗内の電気売り場を担う店舗を出店した[39]。
1973年(昭和48年)11月9日に旧登美ヶ丘店跡の建物を改装して日曜大工専門店「ハンディマン」登美ヶ丘店を開業してDIY専門店事業に参入し[40]、同年12月1日には当社が初めて単独で開発したショッピングセンターとして東花園店を開業して、ショッピングセンターの運営にも進出した[41]。 そして、1976年(昭和51年)11月に衣料雑貨専門店「アカシヤ」を出店するなど専門店業態の多角化にも取り組み、近鉄百貨店と並ぶ近鉄流通グループの中核企業へ成長を遂げた[42]。
1980年(昭和55年)7月に米国ラルフ·グローサリー社と提携して[43]同年9月から同社のプライベートブランド商品を導入し[44]、同年11月にスーパーマーケットの共同仕入れ会社であるニチリウに加盟した[45][46]。
1985年(昭和60年)12月10日に住友銀行と提携してキャッシュカードで買い物が出来るバンクPOSを高の原店で導入した[47]。
ベスト電器と提携して1988年(昭和63年)5月12日に第1号店の藤井寺店をフランチャイズ店として開店した[48]。 同年6月10日に藤井寺市の道明寺駅構内に「エスタ(ESTA)」1号店を開店してコンビニエンスストア事業に参入した[49]。
1991年(平成3年)11月3日に[50]近鉄が開発したショッピングセンター近鉄ハーツに雑貨店「ハンティング」を開店して雑貨店事業に参入した[51]。
1998年(平成10年)7月8日に百貨店子会社(株)近鉄プラザ百貨店を設立し[52]、同年9月19日に近鉄プラザ桔梗が丘店を百貨店への業態転換して桔梗が丘近鉄百貨店として新装開店した[53]。
2000年(平成12年)5月1日に奈良県大和郡山市に新設した物流センターが稼働を開始した[54]。
2004年(平成16年)2月2日に筆頭株主であった近鉄百貨店が、持ち株の一部を独立系投資ファンドのフェニックス・キャピタルに売却[55]。同時に行った第三者割当増資も合わせ、同ファンドが発行済み株式の68.3%を所有する筆頭株主となったため、近鉄百貨店の連結子会社からは外れることとなった[55]。 しかし、2007年(平成19年)8月にフェニックス・キャピタル所有分の株式を近畿日本鉄道が取得し、再び近畿日本鉄道の連結子会社となった。[56]
2011年(平成23年)11月に近鉄グループの流通事業の再編と、関西地区での食品小売分野における事業基盤強化を目的にセブン&アイ・ホールディングスと資本・業務提携し、セブン&アイに対して発行済み株式の30%の第三者割当増資を行い、近畿日本鉄道に次ぐ第2位株主となり、持ち分法適用会社になった[57][広報 2]。それに伴い、翌年にはニチリウグループを脱退[58]。
2014年(平成26年)6月にセブン&アイ・ホールディングスとの資本・業務提携を解消[59]。
2014年(平成26年)10月1日に株式交換により近畿日本鉄道の完全子会社となった[広報 3]。
2015年(平成27年)4月1日に近畿日本鉄道が純粋持株会社化し近鉄グループホールディングスに商号変更した際のグループ再編時に、近畿日本鉄道の流通事業を承継した近鉄リテールサービス(同日近鉄リテーリングに商号変更)に全株式が移管され、近鉄リテーリングの完全子会社となった。[60]
2016年(平成28年)4月にケンタッキーフライドチキン事業を親会社の近鉄リテーリングに譲渡した。[61]
2018年(平成30年)7月1日に近鉄グループホールディングスの子会社設立および会社分割(簡易吸収分割)により、親会社がこれまでの近鉄リテーリングから近鉄リテールホールディングスに変更となった[広報 1]。
2018年(平成30年)11月、ニチリウグループに再加盟[58][62]。また、同年4月からは移動スーパー「とくし丸」に加盟、生駒店を皮切りにサービスを開始している[広報 4]。
イメージキャラクターにはハローキティを起用している。[63]
近鉄百貨店の商品券及び全国百貨店共通商品券が各店で利用できる。[64]
ファミリーマートのプライベートブランド「ファミマル」ブランドのスナック菓子を一部店舗にて販売している。[65]
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年表
- 1953年(昭和28年)9月1日 - 名古屋市中区大池町5-2-8に資本金300万円で近畿日本商事株式会社を設立[4]。
- 1954年(昭和29年)10月1日 - 近鉄百貨店から役員が就任すると共に定款を改訂し[5]、本社を大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-1に移転して事務作業などは近鉄百貨店が担う体制へ変更[6]。近鉄モータース内にあった旧本社を名古屋支店へ変更[6]。
- 1955年(昭和30年)6月28日 - 大阪府立病院食堂の運営を開始[6]。
- 1956年(昭和31年)4月18日 - 大阪赤十字病院に売店を開設し[7]、小売店の展開を開始[8]。
- 1956年(昭和31年)
- 1957年(昭和32年)2月18日 - 津店と四日市店に外商係と売店係を設置[9]。
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)12月13日 - 大阪での当社初の大規模小売店となったアベノ店を近鉄会館に開店[16]。
- 1960年(昭和35年)6月1日 - ショッピングセンター内に「学園前店」を開店し、スーパーマーケットの出店を開始[18]。
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)10月15日 - 移動販売車・「スーパーカー」の営業を開始[22]。
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年)
- 1967年(昭和42年)3月 - 八尾集配所(八尾市栄町)を開設して業者からの納品を一括納入へ変更[29]。
- 1968年(昭和43年)3月11日 - 本社事務所を日生不動産天王寺ビル(大阪市天王寺区悲田院町81)へ移転[28]。
- 1969年(昭和44年)5月1日 - 丸亀店を開店して四国に進出[30]。
- 1970年(昭和45年)12月9日 - 「四国近商ストア」を設立[31]。
- 1971年(昭和46年)
- 1972年(昭和47年)
- 1973年(昭和48年)
- 1976年(昭和51年)11月 - 衣料雑貨専門店「アカシヤ」を開店[42]。
- 1980年(昭和55年)
- 1985年(昭和60年)12月10日 - 住友銀行と提携してバンクPOSを高の原店で導入[47]。
- 1988年(昭和63年)
- 1991年(平成3年)11月3日[50] - 近鉄ハーツに雑貨店「ハンティング」を開店して雑貨店事業に参入した[51]。
- 1995年(平成7年)10月30日 - 「株式会社エーエム・ピーエム・近鉄」の設立に参加し、10%を出資[68]。
- 1998年(平成10年)
- 2000年(平成12年)5月1日 - 奈良県大和郡山市に新設した物流センターが稼働を開始[54]。
- 2001年(平成13年)8月20日 - 松原店立体駐車場1階部分を改築して本社を移転[1]。
- 2004年(平成16年)2月2日 - [独立系投資ファンドのフェニックス・キャピタルが68.3%を株式を所有する親会社となる[55]。
- 2011年(平成23年)11月 - セブン&アイ・ホールディングスと資本・業務提携し、セブン&アイの持ち分法適用会社化[57][広報 2]。
- 2014年(平成26年)10月1日 - 近畿日本鉄道の完全子会社化[広報 3]。
- 2022年(令和4年)6月1日 - 南港物流センターの稼働を開始[69]
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展開する店舗
要約
視点
先に述べたとおり、近鉄グループに属しており、主に近鉄沿線に店舗展開を行っている。
店舗名は1962年(昭和37年)1月14日に店舗名を「近鉄ストア」から「近商ストア」へ変更された[20]。 近年では、店舗改装などの際に順次「スーパーマーケットKINSHO」に名称が変更されている。 1991年(平成3年)から高級食品スーパー「Harves(ハーベス)」を正式にチェーン展開し始めた[70]。
以前はケンタッキーフライドチキンの一部の店舗もフランチャイズ経営をしていた。
→現行店舗については、店舗案内を参照
かつて存在した店舗
近畿
大阪府
大阪市
天王寺区・阿倍野区
- 売場面積約14.5m2[73]
- 売場面積約2,348m2[21]
- 天王寺ステーションビルの開業時点で最大のテナントで、地下1階が食品売り場で、2階が衣料品売り場と食堂、3階が専門店街となっていた[21]。
住吉区
- 売場面積約148.5m2[77]
- 地下鉄御堂筋線我孫子駅前に出店したが[22]、駅新設に伴う地価高騰が影響して宅地開発の進展が遅れたため[22]、近鉄の古くなったバスを譲り受けて改造した移動販売移動販売車・「スーパーカー」を1963年(昭和38年)10月15日から当店を基地として営業したが[22]、1964年(昭和39年)7月5日に移動販売車の営業を終了した[23]。
- 長居交差点西にあった岡安ビルの1階から3階に出店していた[79]。
平野区
その他
- 店舗面積約349.8m2[15]
- 千日デパートの前身である「初代大阪歌舞伎座ビル(1932年竣工)」の下足預り場だった[83] 地下1階・北西側階段付近に出店していた[15]。洋食堂にバーを併設した飲食店である[84]。1968年(昭和43年)10月24日に店舗名を「近商食堂」へ変更して営業を続けたが、近鉄難波線および地下街「虹のまち」(現:なんばウォーク)の地下通路へ繋がる階段(地下出入口)の開設工事に伴って1970年(昭和45年)6月22日を以って閉店した[83][85]。
八尾市
東大阪市
- 売場面積約860m2[77]
- 近鉄布施駅北口商店街に開設された「布施第一デパート」3階に出店していたが、3階という集客し難いフロアであった上、近隣への競合店の出店もあり、業績が伸び悩んだことから、短期間で閉店となった[77]。
- 1978年(昭和53年)10月5日に開業した布施駅のショッピングセンター「ロンモール布施」に近鉄百貨店東大阪店と共に近商ストアが出店した[92]。
- 鉄筋コンクリート造4階建て[41]。店舗面積4,790m2[41]、売場面積約3,754m2[41]、駐車台数約50台[41]。
- 当社が初めて単独で開発したショッピングセンターで、1階が食品売り場で2階が衣料品売り場、3階が日用品売り場で、4階に遊戯施設を配置した近隣型ショッピングセンターとして開業した[41]。
- 店内に1973年(昭和48年)12月1日に「近商上新電機東花園店」(売場面積約149m2)が開店した[39]。
- 通商産業省の委託で大阪商工会議所が当店でPOSシステムの公開実験を[93]1975年(昭和50年)2月5日から3月5日まで行った[94]。
- 近鉄奈良線の高架化工事に伴って建替えられ、1998年(平成10年)11月5日に平屋建ての(2代目)東花園店(売場面積約2,500m2)が開店した[95]。
最寄り駅は、俊徳道駅駅)に存在した店舗。
堺市
松原市
藤井寺市
京都府
京都市
- サカエ丹波橋店跡に出店した地域密着型店舗「近商プラス」3号店[107]。
その他
奈良県
奈良市
- 売場面積約230.78m2[18]
- 当社初のスーパーマーケット[18]。
- 出店していた第1ショッピングセンターの西隣に建設された第2ショッピングセンター(奈良市学園北1-9-2)へ移転する形で1963年(昭和38年)4月2日に(2代目)学園前店が開店した[111]。
- 延べ床面積596m2[114]、売場面積約330m2[113]
- 1967年(昭和42年)6月26日に南登美ヶ丘店に店名を変更した[115]。
- 1973年(昭和48年)11月9日に建物を改装して日曜大工専門店「ハンディマン」登美ヶ丘店が開業した[40]。
- 売場面積約330m2[40]
- 延べ床面積234m2[114]、売場面積約99.16m2(開業時)[116]
- 日本住宅公団の団地内に当社が初めて出店した店舗だった[116]。
- 1967年(昭和42年)11月3日に売場面積を92.84m2増床した[116]。
- 1973年(昭和48年)4月20日に当社のコンビニエンスストア第1号店として営業を開始した[117]
- 売場面積約349.2m2[116]
- 富雄団地内に日本住宅公団が開設した「近隣センター」内に出店していた[116]。
- 開業当初は住宅開発従事者向けの食堂(店舗面積約82m2)を併設していたが、閉鎖された[116]。
- 売場面積約669m2[118]
- 近鉄富雄駅前の変電所跡の鉄筋コンクリート造2階建ての建物を改装して出店した店舗で、開業3日後の6月30日に併設の古い煉瓦造りの建物に「クラフトスクール」を開設した[118]。
- 延べ床面積926m2[114]、売場面積約634.5m2(開業時)[119]
- 日本住宅公団の団地内の「地区センター」内に出店した店舗だった[119]。
- 開業当初は食堂(店舗面積約99.66m2)を併設していたが、5年後に閉鎖された[119]。
- 売場面積約349.2m2[121]
生駒市
その他
- 売場面積約2,022m2[131]
- レインボープラザ西大和の1階に出店した[131]。
- 売場面積約1,910m2[133]
- じゃんぼスクエア香芝の1階に出店した[133]。
兵庫県
- アカシヤ藤原台店(神戸市北区、?開店 - ?閉店)
三重県
- 三重交通と近畿日本鉄道などの出資で建設された三重会館の1階と2階に出店した[135]。
- 1階の大半はバスターミナルとなっていた関係で1階の営業面積は約62.7m2に留まって売店と食堂・喫茶となっており、2階の全フロア約739.2m2を使用して食料品・日用雑貨・化粧品・文具などを対面販売する売り場とする形で開店した[136]。
- 1957年(昭和32年)2月18日に外商係と売店係を設置し、1958年(昭和33年)1月31日に津新町駅構内に売店(店舗面積約6.6m2)を新設した[9]。
- 敷地面積約2,539m2[137]、鉄筋コンクリート造地下1階地上3階建て塔屋2階[137]、延べ床面積約7,457m2[137]、店舗面積約3,551m2[137](当社店舗面積約1,346m2[137])、駐車台数約65台[137]。
- 津駅の「津ステーションビル・チャム」の核店舗として出店していた[137]。
- 店舗面積約1,303.5m2[67]
- 近鉄名古屋線の経路短絡工事に伴って移転・開設された新しい近鉄四日市駅ビルの1階と2階に出店した[67]。
- 1階は食品売り場と食堂・喫茶となっており、2階が衣料品・日用雑貨・化粧品・文具・玩具などの売り場で、対面販売方式の店舗として開店した[67]。
- 1957年(昭和32年)2月18日に外商係と売店係を設置し、同年12月10日に2階を改装して特売場を新設した[9]。
- 延べ床面積152m2[138]、売場面積約53.6m2(開業時)[116]
- 桔梗が丘ニュータウンに桔梗が丘駅前地区の完成に合わせて出店した[116]。
- 住宅開発従事者などを客層と想定して、約33.4m2の食堂を併設していた[116]。
- 近鉄不動産が開発したコミュニティーセンターに移転する形で閉店した[81]。
- 敷地面積18,926.72m2(第1棟7,050.69m2[139]、第2棟11,876.03m2[139])、延べ床面積25,287.27m2(第1棟17,529.77m2[139]、第2棟7,757.50m2[139])
- 総合スーパーから百貨店へ業態転換して新装開店した[53]。
- (4代目)Harves桔梗が丘店
- 「桔梗が丘近鉄百貨店」内存在した店舗。
四国
香川県
実現しなかった店舗
- 「MOMO」に売場面積5,000m2で出店する計画で大規模小売店舗法の申請をしたが、1992年(平成4年)1月18日の結審で0m2とされたことから実現しなかった[143]。
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CMソング・店内BGM
脚注
参考文献
外部リンク
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