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江戸幕府における儀式や典礼を司る役職 ウィキペディアから
高家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。
役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。
江戸幕府の典礼に関する職制は、開幕後段階的に整備された。慶長8年(1603年)、徳川家康の征夷大将軍宣下の式典作法を大沢基宿に管掌させたのが、役職としての高家の起源である。ただし、当初は役職として「高家」の名称はなかった。慶長13年(1608年)12月24日、吉良義弥が従五位下侍従・左兵衛督に叙任され、大沢基宿とともに典礼の職務に加わった。のちに高家職就任時に従五位下侍従に叙せられる慣行ができたため、さかのぼってこの日を「高家」制度のはじまりとすることもある[1]。元和2年(1616年)には、一色範勝が大御所徳川家康のもとで幕府饗応役に任じられている。「高家」の名称や慣行が確定したのは、徳川秀忠の元和・寛永年間とみられる。高家の功績として顕著な例としては、正保2年(1645年)吉良義弥の義兄弟である今川直房が「東照宮」の宮号を交渉の末に朝廷より得たことである。
考証家として知られる三田村鳶魚の著書『武家の生活』には、元和元年(1615年)に徳川秀忠が足利一門である石橋家・吉良家・今川家の3家を登用したことを記して「高家」の始まりとしている。この記述を踏襲する書籍もあるが、石橋家という高家は存在せず、正確ではない。
その後、江戸へ下向した公家の二・三男の子孫も加わるなどその数は順次増加し、安永9年(1780年)には26家となった。以後、幕末までその数は変わっていない。
主な職務として伊勢神宮、日光東照宮、久能山東照宮、寛永寺、鳳来山東照宮への将軍の代参という将軍の代理としての職務、および幕府から京の朝廷への使者の職務、逆に朝廷からの勅使・院使の接待や、接待に当たる勅院使(饗応役の大名)への儀典指導など、朝幕間の諸礼に当たった[2][3][4]。
高家職に就くことができるのは、「『高家』の家格を持つ旗本(高家旗本)」のみである。高家職に就いている高家旗本を「奥高家」という。高家職の人員は年代によって異なっており、延宝年間には9人、安政5年(1858年)には17人が就いている。さらに、奥高家の中から有職故実や礼儀作法に精通している3名を選んで
他方、高家職に就いていない無役の高家旗本は「表高家」といい、年頭、歳暮、五節句以外では登城しない[5]。
後に高家見習も設けられ、主に高家職の嫡子から選ばれた。一時的であるが、御側高家(側高家、1709-1716)、および将軍世子に近侍した西丸高家(西城高家、西の丸高家。1650-1651年、家綱に近侍)が設けられているが、その職位は奥高家や表高家とは著しく異なったようである[3]。
なお、高家の当主は高家職以外の幕府の役職に就くことができないのが原則である。高家以外の職に就く場合は、一度高家旗本の格式を離れ、一般の旗本に列してからとなっていた。
高家職に就くことのできる旗本(高家旗本)は、主に著名な守護大名・戦国大名の子孫や公家の分家など、いわゆる「名門」(原義の「高家」)の家柄で占められた。出自の高貴な人物を家臣として雇うことで徳川の家の格の高さを誇示する目的で創設される。
最初期の高家職を務めた大沢基宿は、公家持明院家の流れを汲み遠江国に下向して土着した大沢家の出身で、木寺宮という皇族の末裔を母とする人物である。鎌倉公方足利氏の一門宮原家をはじめ室町幕府の成立過程から守護大名には足利氏一門が多く、吉良義弥・一色範勝・今川直房らの高家はその末裔である。他には赤松氏や土岐氏などの非一門の室町幕府下の名族・守護大名の家柄も高家となっている。高家の創設の理由として、徳川家康がかつての名門の子孫を臣下に従えることにより、対朝廷政策を優位に運びたかったためと思われる。徳川氏が武家の棟梁として「旧来の武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている」という、政権の正当性および権力誇示という見方が強い。
高家職は朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があるため、武家にしては、官位は高かった。奥高家(高家職)に就任すると、ただちに従五位下侍従に任じられる。奥高家を務める者の官位・官職は従五位下から従四位下の侍従であることが大半であるが、高家肝煎に就任した者などは最高で従四位上左近衛権少将まで昇った(制度草創期の大沢基宿は、例外として正四位下左近衛中将に昇っている)。大半の大名は従五位下であるから、その違いは歴然である。『忠臣蔵』(赤穂事件)で知られる吉良義央も、わずか4200石取りながらも、従四位上左近衛権少将だった。赤穂藩主浅野長矩は5万3000石を領する大名だが、官位の上では従五位下諸大夫でしかなく[3]、時の幕府の最高権力者側用人で甲府15万石を領した柳沢吉保でも従四位下左近衛権少将であり、官位の上では吉良義央の方が両者より上だった。
ただし、非役の高家(表高家)は、昇殿する必要がないため、叙任されない。
明治維新後、朝臣に転じた高家と交代寄合の各家は、下大夫(1000石以上の一般旗本)や上士(1000石以下100石までの一般旗本)に列した一般旗本より高い中大夫席を与えられていたが[6]、明治2年(1869年)12月に中大夫以下の称が廃止されるに伴い、一般旗本と同様に士族に編入された[7]。高家のうち大沢家のみ「高直し」で石高を1万石に偽装して堀江藩を立藩することで一時的に華族に列したが、明治4年(1871年)に石高偽装が発覚したため華族から士族に降格され、当主基寿は禁固1年に処された[8][9]。
明治17年(1884年)7月の華族令施行で華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『爵位発行順序』所収の『華族令』案の内規(明治11年・12年ごろ作成)や『授爵規則』(明治12年以降16年ごろ作成)では、元高家が元交代寄合や各藩の万石以上陪臣家、堂上公家に準ずる扱いだった六位蔵人や伏見宮殿上人などの諸家とともに男爵候補に挙げられているものの、最終的な『叙爵内規』ではいずれも授爵対象外となったため、士族のままだった[10]。華族編列・授爵をめぐっては華族の体面を保てる財産があるか否かが重視され、明治30年代になると富裕層が多い旧万石以上陪臣家は男爵に叙され始めるが[11]、高家にはその後も叙爵はなかった。
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