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ドン・マッティングリー
アメリカの野球選手、監督 (1961 - ) ウィキペディアから
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ドナルド・アーサー・マッティングリー(Donald Arthur Mattingly, 1961年4月20日 - )は、アメリカ合衆国インディアナ州エバンズビル出身のプロ野球監督、元プロ野球選手(一塁手)。左投左打。愛称はマット[1]。
1982年から1995年までニューヨーク・ヤンキース一筋でプレーし、シーズンMVP、首位打者、打点王、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞などを獲得。背番号『23』は球団の永久欠番に指定されている。2011年から2015年まではロサンゼルス・ドジャースの監督を務め、2016年から2022年までマイアミ・マーリンズの監督を務めた。2020年に最優秀監督賞を受賞。
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経歴
要約
視点
現役時代

1979年のMLBドラフトでニューヨーク・ヤンキースから19巡目に指名を受け入団。
1982年にAAA級コロンバスで打率.315を記録してメジャー昇格を果たし、9月8日のボルチモア・オリオールズ戦でメジャーデビュー。
1983年6月24日のボストン・レッドソックス戦でジョン・テューダーからメジャー初本塁打を放つ。1984年は開幕からメジャーに定着し、前半戦で打率.330をマークしてオールスターゲームに初出場し、以後5年連続で選出された。後半戦で打率.357と更に数字を伸ばし、打率.343・23本塁打・110打点、共にリーグ最多の207安打・44二塁打の成績で首位打者のタイトルを獲得した。同年はチームメイトのデーブ・ウィンフィールドと激しい首位打者争いを演じ、シーズン最終戦で逆転した。MVPの投票では5位に入った。
1985年は打率.324、共にキャリアハイの35本塁打・145打点、ウェイド・ボッグスに次ぐリーグ2位の211安打、リーグ最多の48二塁打を記録して最多打点のタイトルを獲得し、初のMVP・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を受賞した。
1986年はボッグスに次ぐリーグ2位の打率.352、31本塁打・113打点、共にリーグ最多で現在も球団記録の238安打・53二塁打を記録。長打率.573もリーグトップだった。MVPの投票ではロジャー・クレメンスに次ぐ2位に入った。
1987年は6月に故障者リスト入りするが7月8日のミネソタ・ツインズ戦から、オールスターゲームを挟んで7月18日のテキサス・レンジャーズ戦にかけて、史上2人目となる8試合連続本塁打を達成。7月16日には満塁本塁打を含む7打点を記録した。同年はメジャー記録となる1シーズン6本の満塁本塁打を放つなど[2]、打率.327・30本塁打・115打点を記録した。
1989年は23本塁打・113打点を記録したが1990年は不振に陥り、故障もあって102試合の出場で打率.256・5本塁打に終わり同年を境に成績は下降。
1991年はチームの10代目キャプテンに就任。8月16日、髪を切らないことを理由に試合への出場停止と罰金250ドルの処分を受けた[3]。1994年は8月11日まで打率.304・出塁率.397を記録し、チームも地区首位に立っていたが翌日から1994年から1995年のMLBストライキに突入。そのままシーズンが打ち切られ、史上初めてワールドシリーズが中止となり、ポストシーズン出場のチャンスを逃してしまった。
ストライキが収拾された1995年にチームはワイルドカードを獲得する。自身初のポストシーズンとなったシアトル・マリナーズとのディビジョンシリーズでは第2戦で本塁打を放つなど打率.417と活躍。しかしチームは最終第5戦で逆転サヨナラ負けを喫し、2勝3敗で敗退した。オフに背中の故障を理由に34歳で現役を引退。プロ入りから引退までヤンキース一筋でプレーした、近年では数少ないフランチャイズ・プレイヤーだった。

ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番に1997年指定。
1997年に自身の背番号『23』がヤンキースの永久欠番に指定された。歴代のヤンキース永久欠番選手で唯一、ワールドシリーズ出場を果たすことができなかった。
コーチ・監督時代
2004年にヤンキースの打撃コーチに就任して現場復帰。同年のヤンキース日本開幕戦にも来日している。2007年シーズンからはヤンキースのヘッドコーチに就任し、ジョー・トーリ監督の後継者の最有力候補と目されたが、同年オフにトーリの監督辞任を受けヘッドコーチを辞任した。2008年にトーリがドジャースの監督に就任し、それに従って打撃コーチに就任する予定であったが、1月になって家庭の理由で打撃コーチを辞し、特別コーチに就任することとなった。
2010年シーズン終了後、トーリの退団に伴い監督に昇格した。

2014年1月7日にドジャースとの契約を2016年まで延長したことが報道された[4]。
2015年9月29日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦に勝利し3年連続の地区優勝を果たしたことにより、ドジャースでは初めて3年連続でポストシーズン進出を果たした監督となったが、ディビジョンシリーズではニューヨーク・メッツに2勝3敗で敗れ、3年ともリーグ優勝は果たせなかった。10月22日に監督解任が発表された[5]。10月29日にマイアミ・マーリンズの新監督に就任することが発表された[6][7]。
2022年11月30日、2023年シーズンからトロント・ブルージェイズのベンチコーチに就任することが決定した[8]。
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人物
- 息子のテイラーが2003年のMLBドラフトでヤンキースから42巡目に、もう一人の息子プレストンも2006年のMLBドラフトでドジャースから1巡目に指名を受けた。
なお、プレストンは2024年にフィラデルフィア・フィリーズのGMに就任した
- 左投げでありながら、二塁手を1試合(パインタール事件の発生により、行われた1983年8月18日の再開試合)、三塁手を3試合務めたことがある。
- 現役時代は大スターであるにもかかわらず飾らない気さくな性格で、アンチヤンキースからも支持されていた。
- 人格者としても知られ、チームメイトのメル・ホールから執拗にいじめられていた新人当時のバーニー・ウィリアムスを庇ってイジメを止めさせた逸話がある[注 1]。
- ウィリアムズ以外でもルーキーやトレードで移籍した選手が彼のおかげでメジャーに馴染めたと感謝する選手は少なくない。
- 長髪事件で散髪した髪がオークションで3000ドルで落札され、慈善団体に寄付した
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
- 内野守備
- 外野守備
- 各年度の太字はリーグ最高
- 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
年度別監督成績
- 2020年度シーズン終了時
- 各年度の太字はプレイオフ進出(ワイルドカードを含む)。
- WS…ワールドシリーズ、LCS…リーグチャンピオンシップシリーズ、DS…ディビジョンシリーズ、WC…ワイルドカードゲーム(ワイルドカードシリーズ)。
タイトル
- 首位打者:1回(1984年)
- 打点王:1回(1985年)
表彰
記録
- MLBオールスターゲーム選出:6回(1984年 - 1989年)
背番号
- 46(1982年 - 1984年)
- 23(1984年 - 1995年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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