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デーブ・ウィンフィールド
アメリカ合衆国の野球選手 (1951-) ウィキペディアから
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デービッド・マーク・ウィンフィールド(David Mark Winfield, 1951年10月3日 - )は、アメリカ合衆国ミネソタ州セントポール出身の元プロ野球選手(外野手、指名打者)。
ニックネームは「Winny」。
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経歴
要約
視点
プロ入り前
幼少期から運動神経に優れ、野球とバスケットボールで活躍する。
1969年のMLBドラフトでボルチモア・オリオールズから40巡目に指名を受けるが契約せず、学費が全額支給される特待生としてミネソタ大学に進学。当時のバスケットボール部コーチは後年NBAやABAでも指揮を執ることになる若き日のビル・ムッセルマンであった。野球部コーチは元MLB選手で大学野球の殿堂入りをするディック・シーバート。バスケットボールでは1972年に53年ぶりのビッグ・テン大会優勝を果たし、野球では1973年にチームをメンズ・カレッジ・ワールドシリーズに導いた。
パドレス時代(1973年 - 1980年)

1973年のMLBドラフトでサンディエゴ・パドレスから1巡目(全体4位)に指名を受けただけでなく、NBAドラフトでアトランタ・ホークスから、ABAドラフトでユタ・スターズから、そしてアメリカンフットボールはプレイしていなかったにもかかわらず、NFLドラフトでミネソタ・バイキングスから17巡目(全体429位)に指名を受けた。
3つの異なるプロスポーツからドラフト指名を受けたのは他にジョージ・カーター、 ジョ・ジョ・ホワイト、ノエル・ジェンク、ミッキー・マッカーティ、 デイブ・ローガンの5人だけであり、4つの異なるプロリーグから指名を受けたのはウィンフィールドとカーター、マッカーティの3人だけである[1]。
最終的にパドレスと契約し、野球の道を選ぶ。ドラフト指名から2週間後、6月19日のヒューストン・アストロズ戦で早くもメジャーデビュー[2]。多種目でのドラフト指名に加え、マイナーリーグを経験せずにメジャー昇格を果たしたことで話題を呼んだ。6月21日の同カードでメジャー初本塁打を放つ[2]など56試合の出場で打率.277を記録した。
1974年はレギュラーを獲得し、打率.265、20本塁打、75打点を記録した。
1975年、1976年はそれぞれ15本塁打、13本塁打と伸び悩む。
1977年は前半戦で打率.296、21本塁打、70打点を記録[3]し、自身初のオールスターゲームに選出される。しかし後半戦は打率.239、4本塁打、22打点と不振に陥った。
1978年は2年連続でオールスターゲームに選出され、打率.308、24本塁打、97打点の好成績を記録した。
1979年は前半戦で打率.331、22本塁打、72打点の成績[4]で、オールスターゲームで初の先発出場を果たす。最終的に打率.308、34本塁打、118打点を記録し、キャリア唯一の打撃タイトルとなる最多打点を獲得。初のゴールドグラブ賞を受賞し、MVPの投票では同点受賞のキース・ヘルナンデス、ウィリー・スタージェルに次ぐ3位に入った[5]。
ヤンキース時代(1981年 - 1989年)

1980年12月15日にニューヨーク・ヤンキースと当時最高額となる総額2330万ドルの10年契約を結び移籍。
1981年は、50日間に及ぶストライキでシーズンが中断・短縮された影響で前後期制の変則日程となる。13本塁打に留まるが、チームは前期優勝。ミルウォーキー・ブルワーズとのディビジョンシリーズでは打率.350と活躍するが、オークランド・アスレティックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.154と不振。チームは3年ぶりのリーグ優勝を果たすが、ロサンゼルス・ドジャースとのワールドシリーズでは22打数1安打、打率.045と極度の不振で、チームは2勝4敗で敗退。
辛口で知られるオーナーのジョージ・スタインブレナーは「大舞台で活躍できないのは、彼がスーパースターではないからだ」[6]「Mr.October(ミスター・オクトーバー。レジー・ジャクソンのこと)を手放して、Mr.Mayを手に入れてしまった」と皮肉を言うほどで、その後引退するまで「Mr.May(ミスター・メイ)」と揶揄される。オフに前年から制定されたシルバースラッガー賞を初受賞した。
1982年はキャリアハイの37本塁打を記録。
1983年8月4日、敵地エキシビション・スタジアムでのトロント・ブルージェイズ戦で5回表開始前のウォーミングアップ中にカモメを追い払おうとしてボールを投げたところ直撃してカモメが死んでしまった。その際の追悼する仕草が観客の怒りを買い、試合後オンタリオ州警察に動物虐待の容疑で拘束され保釈金500ドルの支払いを余儀なくされた。この事件後トロントのファンからブーイングを浴びるようになった[7]。それでも同年は打率.283、32本塁打、116打点の活躍を見せる。
スタインブレナーに「打率を残せない」と批判された[6]1984年は、6月に1試合5安打を3度記録するなど打率.476を記録し、前半戦で打率.370[8]。シーズン最終戦を前に.341で、チームメイトのドン・マッティングリーを1厘差で抑えてトップだった。しかしファンは生え抜きで同年からレギュラーを獲得した23歳のニューヒーロー・マッティングリーを応援する気運が強く、デトロイト・タイガースとの最終戦で打席に立つウィンフィールドにブーイングを浴びせた[6]。結局マッティングリーが4安打を放って逆転し、キャリアハイの打率.340を記録しながらタイトルを逃した。
1988年まで毎年25本塁打・100打点前後の成績を残すがチームは低迷し、ポストシーズンとは無縁だった。
1989年は背中の故障によりシーズン未出場に終わる。
エンゼルス時代(1990年 - 1991年)
1990年5月11日、マイク・ウィットとの交換トレードでカリフォルニア・エンゼルスに移籍[9]。
1991年は4月13日のミネソタ・ツインズ戦でキャリア唯一の1試合3本塁打[10]、6月24日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でサイクル安打を達成[11]するなど打率.262、28本塁打、86打点を記録。オフにフリーエージェントとなった。
ブルージェイズ時代(1992年)
1991年12月19日にトロント・ブルージェイズに移籍。
1992年はファンに対し「もっと盛り上がってくれるように」と懇願。この「ウィンフィールドは歓声が聞きたい(Winfield Wants Noise)」というフレーズは球団のTシャツなどのロゴに使用された。主に指名打者として出場し、40歳ながら打率.290、26本塁打、108打点を記録する活躍でチームの地区優勝に貢献。アスレチックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは2本塁打を放ち、チームは球団創設以来初のリーグ優勝。アトランタ・ブレーブスとのワールドシリーズでは打率.227に終わるが、王手をかけて迎えた第6戦、延長11回表に決勝の2点適時二塁打を放ち、チームを初のワールドチャンピオンに導いた。試合後に「この安打は我が人生における最大の安打だ」と語った[12]。オフに再びフリーエージェントとなった。
ツインズ時代(1993年 - 1994年)
1992年12月17日に故郷のツインズに移籍。
1993年9月16日のアスレティックス戦で、史上19人目の通算3000本安打を達成。3000本安打をドーム球場で達成した唯一の選手となる[13]。
インディアンス時代・引退まで(1995年)
1994年8月31日にクリーブランド・インディアンスに移籍。後日発表選手とのトレードであったが、232日間に及ぶ長期ストライキでシーズンが打ち切られ、結果的に金銭トレードの形となっている。またツインズでの10本塁打に留まった。
1995年は衰えを隠せず、打率.191、2本塁打、4打点に終わる。チームは独走で地区優勝を果たしワールドシリーズまで進出したが、ポストシーズンのロースターには残れなかった。同年限りで現役を引退。マイナーでのプレイ経験がない数少ない選手の1人である。
引退後
引退の翌1996年より、フォックス放送のMLB中継の解説者に就任し、2009年にESPNに移籍するまで務めた。

サンディエゴ・パドレスの永久欠番に2001年指定。
2001年、資格初年度でアメリカ野球殿堂入り。レリーフでどの球団の帽子を被るか注目され、最初に在籍したパドレスを選択し、球団史上初の殿堂入り選手となった。同年パドレス時代の背番号『31』が球団の永久欠番に指定された。
また、殿堂入りした2001年から2013年までパドレスの副会長・シニアアドバイザーを務め、2013年12月よりMLB特別補佐を務めている。
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選手としての特徴
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人物
名言
- 「そしてこれから5月に入るんだけど…俺と5月との関係は分かるよね」 - 1988年4月に、4月度の最多打点タイ記録29を達成後。
- 「カナダ国民が名もなき一羽の鳥を失ったことに対して深い悲しみと追悼の意を捧げる」 - 1983年に鳥を誤って殺してしまい、州警察から保釈後の記者会見にて。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
- 内野守備
- 外野守備
- 各年度の太字はリーグ最高
- 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
タイトル
- 打点王:1回(1979年)
表彰
- シルバースラッガー賞:6回
- ゴールドグラブ賞(外野手部門):7回(1979年、1980年、1982年 - 1985年、1987年)
- ベーブ・ルース賞:1回(1992年)
- ブランチ・リッキー賞:1回(1992年)
- 最優秀指名打者賞:1回(1992年)
- ロベルト・クレメンテ賞:1回(1994年)
- カムバック賞:1回(1990年)
記録
- MLBオールスターゲーム選出:12回(1977年 - 1988年)
- サイクル安打:1回(1991年6月24日)
背番号
- 31(1973年 - 1988年、1990年 - 同年途中、1995年)※サンディエゴ・パドレスの永久欠番
- 32(1990年途中 - 1994年)
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関連書籍
- Gross, Jane. (August 6, 1983). "Winfield Charges Will be Dropped". New York Times, p. 29.
脚注
関連項目
外部リンク
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