トップQs
タイムライン
チャット
視点
中野真矢
ウィキペディアから
Remove ads
中野 真矢(なかの しんや、1977年10月10日 - )は、千葉県大網白里市出身のオートバイ・ロードレースライダー。
1998年、全日本ロードレース選手権GP250チャンピオン。1999年よりロードレース世界選手権に参戦。甘いマスクでありニックネームは「王子」。とにかく転倒しない、転倒しても重傷を負わないステディなライディングで知られている。
2008年、モーターサイクルファッションブランド、"56design"を地元にオープン。レーサーとしてだけではなく、プロデューサーとしても活躍の幅を広げている。
Remove ads
略歴
要約
視点
父の影響で、5歳からポケットバイク(ポケバイ)レースを始める[1]。その後ミニバイクを経てロードレースへステップアップする。
1998年、全日本ロードレース選手権GP250クラスにて9戦8勝でチャンピオンとなった中野は、翌1999年からロードレース世界選手権に戦いの舞台を移し、テック3・ヤマハより、GP250クラスにフル参戦を開始。デビューレースである開幕戦マレーシアGPで表彰台に乗り(3位)、第2戦日本グランプリでグランプリ初優勝。年間ランキング4位で、この年のルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。
2000年、引き続き同選手権GP250クラスに参戦。年間最多勝となる5勝を挙げ、チームメイトのオリビエ・ジャック、全日本時代からのライバル加藤大治郎、宇川徹とシーズン最後までタイトル争いを繰り広げた。最終戦オーストラリアGP(フィリップアイランド)では最終ラップまでトップを走り、この順位でチェッカーを受ければチャンピオンという状況で、2番手を走行していたジャックにゴール直前でかわされ2位に終わる。(0.014秒差)年間ランキングも2位となった。
2001年より、最高峰クラスGP500にステップアップ。表彰台を獲得する等して活躍し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。

2004年、中野はカワサキレーシングチームへ移籍する。ヤマハ系名門チームの「SP忠男レーシング」出身で、ヤマハの秘蔵っ子と思われていた中野がヤマハを離れた事、2003年は不振に終わったカワサキへの移籍は驚きを持って伝えられた。この移籍を決断した最大の理由は、YZR-M1のウィークポイントに対する要望を出したくても、サテライトチームに所属していた為、その声が届かないのに対し、カワサキのファクトリーライダーとしてマシン開発にも関われるという点からだったという[2]。そして、この年のツインリンクもてぎで開催された日本グランプリで、中野は3位表彰台を獲得した。これはカワサキにとってロードレース世界選手権における23年ぶりの表彰台獲得でもあった。
2006年は第8戦オランダGPで中野自身、そしてカワサキにとってMotoGP最上位の成績となる2位表彰台を獲得。
2007年、中野は3年間在籍したカワサキを離れ、ホンダのサテライトチームであるコニカミノルタ・ホンダへ移籍した。しかしホンダが新しく開発したRC212Vの熟成不足や、マシンの不調もあり、シーズン最高位は10位、年間ランキングも17位と大きく低迷した。
2008年、コニカミノルタ・ホンダを離れ、有力プライベーターチームのグレシーニ・レーシングへ移籍。2年目のホンダ・RC212Vに、カワサキレーシング時代に使用していたブリヂストンタイヤを履き、新天地での巻き返しを図った。前年の不調から脱出し、シーズン最高位はチェコGPの4位。最終的に年間ランキング9位でシーズンを終えた。全18戦中、17戦でポイントを獲得し、全戦でポイントを獲得してチャンピオンとなったV.ロッシに次ぐ安定感を見せた。
2009年は、アプリリア・レーシングより、スーパーバイク世界選手権へ参戦する事が決定した。これにより、MotoGPの連続出場記録が途絶える事となってしまうが、MotoGP初年度の2002年から2008年まで欠場が1回も無かったライダーは中野とロッシの2名だけである。
2009年4月5日、WSB第3戦バレンシアの予選セッション中転倒から鎖骨骨折、決勝不進出となってしまい、世界選手権最高クラスの連続出場記録が途絶えてしまう。10月28日、同シーズン限りでの引退を表明した[3][4]。
Remove ads
人物
- 名前の由来は「弓矢の様に真直ぐ育て」
- トレードマークの目玉ヘルメットは、SP忠男レーシング出身の証である。[5]
- トレードマークのナンバー「56」は、中野の好きなバイク漫画「バリバリ伝説」の主人公・巨摩郡が使用している番号が由来である。[5]
- 2007年12月、3歳年上の女性と結婚した。
- 2008年10月、モーターサイクルファッションブランド、"56design"を千葉県にオープン。
- 長らくMotoGPやスーパーバイク世界選手権等で大排気量バイクに乗っていたにもかかわらず、実は2008年のシーズンオフまで大型自動二輪免許を持っていなかった[6]。従って現役当時は、所属チームのプロモーション活動などで同排気量のレーサーレプリカ等を使う際に、公道でのバイク走行ができないためバイクにまたがり撮影を行うだけなど苦労を強いられたという。
- 自身のモータースポーツの端緒となったポケバイには強い思い入れがあり、一時期は全日本ポケットバイク選手権の運営にも関わり、同レースに「中野真矢杯」の冠名がつけられていた[1]。
Remove ads
記録
- 1983年 - 5歳でポケットバイク開始
- 1987年 - 全日本ポケットバイク選手権優勝
- 1989年 - ミニバイクレース開始
- 1992年 - ミニバイク関東選手権SP12エキスパートクラスチャンピオン
- 茂原グランプリミニバイクSP12エキスパートクラスチャンピオン
- 茂原グランプリミニバイクSS50クラスチャンピオン
- 1993年 - ミニバイクレースモトチャンプ杯SS50クラスチャンピオン
- 1994年 - SP忠男レーシング
- ロードレース関東選手権NB125ランキング3位
- ロードレース関東選手権SP250ランキング6位
- 鈴鹿サンデーオートバイレースSP250チャンピオン
- 鈴鹿4時間耐久ロードレース優勝
- 1995年 - 全日本ロードレース選手権GP125ランキング12位(SP忠男レーシング)
- 1996年 - 全日本ロードレース選手権GP125ランキング6位(SP忠男レーシング)
- 1997年 - 全日本ロードレース選手権GP250ランキング5位(ヤマハレーシング)
- 1998年 - 全日本ロードレース選手権GP250チャンピオン(BPヤマハレーシング / YZR250)
- 第3戦筑波サーキットにてコースレコード0'57.430を樹立(2008年現在でもコースレコード)
- 1999年 - ロードレース世界選手権GP250ランキング4位、ルーキー・オブ・ザ・イヤー(1勝/チェスターフィールド・ヤマハ・テック3 / YZR250)
- 2000年 - ロードレース世界選手権GP250ランキング2位(5勝/チェスターフィールド・ヤマハ・テック3 / YZR250)
- 2001年 - ロードレース世界選手権GP500ランキング5位、ルーキー・オブ・ザ・イヤー(ゴロワーズ・ヤマハ・テック3 / YZR500)
- 2002年 - ロードレース世界選手権MotoGPランキング11位(ゴロワーズ・ヤマハ・テック3 / YZR500, YZR-M1)
- 2003年 - ロードレース世界選手権MotoGPランキング10位(ダンティン・ヤマハ / YZR-M1)
- 2004年 - ロードレース世界選手権MotoGPランキング10位(カワサキレーシングチーム / ZX-RR)
- 2005年 - ロードレース世界選手権MotoGPランキング10位(カワサキレーシングチーム / ZX-RR)
- 2006年 - ロードレース世界選手権MotoGPランキング14位 (カワサキレーシングチーム / ZX-RR)
- 2007年 - ロードレース世界選手権MotoGPランキング17位 (コニカミノルタ・ホンダ / RC212V)
- 2008年 - ロードレース世界選手権MotoGPランキング9位 (サンカルロ・ホンダ・グレシーニ / RC212V)
- 2009年 - スーパーバイク世界選手権 (アプリリア・レーシング / RSV4)
(key) (太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
Remove ads
テレビ出演
- 大人のバイク時間 MOTORISE(2010年2月21日 - 、BSイレブン) - パーソナリティー
脚註
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads