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領家政蔵

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領家政蔵
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領家 政蔵(りょうけ まさぞう、1943年12月29日 - )は、鹿児島県曽於郡大崎町出身の元調教師・元騎手

概要 領家政蔵, 基本情報 ...

次女はタレント評論家領家華子

経歴

要約
視点

農家の次男として生まれ[1]、少年時代から農耕馬に親しんだ。

当初は将来に獣医師を志していた[1]が、阪神田中良平厩舎を退職し帰郷した元厩務員と知り合ったことで目標を騎手に改め[2]、中学卒業後に良平の父である阪神・田中好雄厩舎に騎手見習として入門[1]。領家は騎手としては大柄で、周囲からは「帰った方がいい」、「厩務員になれ」などと勧められたという[2]

見習時代は磨き、洗濯は当たり前であり、道具は先輩からのお下がりで、乗馬ズボンの穴の開いた場所からいつも血が滲ませた[3]

1963年に免許を取得してデビューし、3月16日の阪神第4競走アラブ5歳以上オープン・タマカセン(11頭中10着)で初騎乗を果たす。6月1日の阪神第2競走アラブ4歳以上40万下・ケンサカエで初勝利を挙げるが、2着には同厩のミスケーシーが入って枠連1万720円の高配当決着となった。8月9月には高尾武士から乗り替わったアルプスオーで小倉の特別戦を連勝し、9月・10月にはマリーで小倉戦2勝2着2回と活躍。1年目の同年は5勝を挙げたが、5勝中4勝は小倉で、その4勝はアルプスオーとマリーで2勝ずつ挙げたものであった。

2年目の1964年には初の2桁となる19勝を挙げると、1977年まで14年連続2桁勝利を記録。1964年は清水出美から乗り替わった松井麻之助厩舎のトキノヒカリの主戦騎手となり、アラブ大障害(春)では人馬共に重賞初出走で7頭中7番人気ながら4着と健闘したが、同レースを最後に領家は降板。

その後も騎乗数は多くなかったが[1]1966年には自己最多の31勝をマーク。1968年にはシンザン記念で10頭中9番人気のヒカリオーに騎乗し、後のダービータニノハローモア皐月賞マーチスを抑えて重賞初制覇。同年の初勝利を重賞初勝利で飾り、その後も3月の春蘭特別で5頭中4番人気ながらタニノハローモアを破り、4月の4歳S(阪神)では人気に応えて東上。5月に行われた皐月賞はぶっつけで人馬共に初の八大競走GI級レース挑戦となり、タケシバオー・マーチス・アサカオーの三強に次ぐ4番人気に支持されたが、初の中山で雨と重馬場に泣き12着惨敗。

以後も散発的ながら重賞勝利を重ね、1970年神戸杯では10頭中9番人気のニューペガサスでオークスジュピックをアタマ差抑えて勝利。ニューペガサスは同年の二冠馬タニノムーティエと同じムーティエ産駒であったが、後に菊花賞馬となる人気のダテテンリュウが大差殿負けを喫したため、単勝4660円、枠連5850円の大波乱となった。

1976年にはコーヨーチカラ2月中京・未勝利を勝つと、3月には中京・カトレア賞(300万下)→阪神・オリーブ賞(600万下)と3連勝。初東上となったNHK杯では2着メルシーシャダイに4馬身差を付けて4連勝し、初めて東京優駿に臨む。本番でも「関西の秘密兵器」としてトウショウボーイテンポイントに次ぐ3番人気に支持されたが、結果は15着大敗に終わっている。この頃より騎乗数が減り始めたことから調教師への転身を考え、引退勧告の目安となる60回騎乗した後は受験勉強に集中するという生活を始める[4]

1977年7月24日札幌第9競走短距離ステークスではヨシオカザンに騎乗し、マルゼンスキーを抑えて逃げる見せ場を作った。結果は3着のヤマブキオーから6馬身も離された4着に終わったが、マルゼンスキーに生涯唯一の2番手からのレースを経験させた。

1979年8月19日の小倉第3競走4歳未勝利・サチノホーオーが最後の勝利となり、同年12月9日の中京第9競走美濃特別・コーヨーシロー(16頭中15着)が最後の騎乗となった。1980年に2度目の受験で調教師免許を取得し、同年限りで現役を引退。通算2586戦296勝、うち重賞6勝。

引退後の1981年6月、廃業した中村武志の管理馬を引き継いで厩舎を開業[4]同6日の阪神第9競走5歳以上400万下・サンクレーイ(17頭中7着)で初出走を果たし、初勝利も8月1日の小倉第10競走4歳以上400万下に出走させた同馬であった。CBC賞・キョウエイウオーク(11頭中9着)で重賞初出走、2年目の1982年には天皇賞(春)に転入初戦のキングオブイブキを出してGI級レース初出走を果たす。

3年目の1983年抽籤馬ラブリースター金鯱賞を制し、調教師としての重賞初勝利を記録。同馬は北九州記念も制して2勝目をマークするが、共に鞍上は田原成貴であった。

以後しばらく重賞からは遠ざかったが、勝利数では1988年に全国4位(関西3位)の34勝を挙げ優秀調教師賞を初受賞。以後も1990年に29勝で全国7位(関西3位)、1991年には33勝で全国8位(関西7位)といった安定した成績を挙げた。

1995年にはラブリースターの仔で田原騎乗のワンダーパヒューム桜花賞を制し、12年ぶりの重賞勝利を挙げると共にGI初制覇を果たした。同年、自己最高の40勝を挙げて2度目の優秀調教師賞を受賞し、以後も勝利数では上位の成績を続けた。

2008年にはJRA育成馬のセイウンワンダー朝日杯フューチュリティステークスを制し、13年ぶりにGI(JpnI)制覇を果たした。また、同年よりビービーガルダンが短距離路線を賑わせ、2009年から重賞2勝を挙げたほか、スプリンターズステークス(2009年)と高松宮記念2010年)という秋春の短距離GIでいずれもハナ差2着という珍しい記録を作った。特に前者では、勝ったローレルゲレイロと1cmという非常な僅差であった[5]

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成績

要約
視点

騎手成績

さらに見る 通算成績, 1着 ...
さらに見る 日付, 競馬場・開催 ...

主な騎乗馬

※括弧内は領家騎乗時の優勝重賞競走

調教師成績

さらに見る 年, 区分 ...

※上記は中央のみの成績。

さらに見る 日付, 競馬場・開催 ...

主な管理馬

※括弧内は領家管理下での優勝重賞競走。

太字はGIレース、斜体ダートグレード競走

GI優勝馬

その他重賞優勝馬

受賞

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主な厩舎所属者

※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

出典

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関連項目

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