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鈴木康弘 (競馬)

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鈴木康弘 (競馬)
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鈴木 康弘(すずき やすひろ、1944年4月19日 - )は日本中央競馬会(JRA)の美浦トレーニングセンターに所属していた元調教師

概要 鈴木康弘, 基本情報 ...

1994年から2004年まで日本調教師会会長。2005年から日本調教師会名誉会長。東京都府中市出身。早稲田大学教育学部社会科卒。

同じく調教師の鈴木勝太郎は実父。騎手・調教師の増沢末夫は義兄(実姉の夫)に当たる。

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来歴

要約
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1944年、日本競馬会東京競馬場所属の調教師・鈴木勝太郎の長男として生まれる。厩舎内ではなく、府中市街で育ったこともあり、さほど馬に親しまず、専ら野球少年であった[3]私立明星中学校・高等学校を経て、早稲田大学教育学部に進学[3]野球部に所属し、1年次には石井連藏、2年次からは後に野球殿堂に入る石井藤吉郎の指導を受けながら、野球に没頭する日々を送った。同級生のエースピッチャーは、大学卒業後にプロ野球のロッテオリオンズ(後の千葉ロッテマリーンズ)で活躍する八木沢荘六であった。鈴木自身に公式戦の出場はなかったが、没入のあまり学業が疎かになり、1年の留年を経験している[4]。石井藤吉郎は早稲田の監督退任後、一口馬主クラブ・社台レースホースの会員となっており、鈴木は後に調教師となってから、毎年5月に出資馬に関するアドバイスを求められたという[5]

在学中に就職活動をしておらず[6]、卒業後は「一介のサラリーマンになるより金銭的に満たされる」という、自身が「不純」と語る動機で競馬界入りを決めた[7]。北海道の西山牧場で1年間研修を積み、1969年より父・勝太郎の厩舎で調教助手となった。翌1970年にヨーロッパへ渡り、1972年までイギリスナショナルスタッド等で研修を積んだ。渡欧前にはまだ自分の選択に迷いがあったが、どこまでも馬本位にある本場のホースマンの行動・意識に触れたことで、「馬の世界へ入った動機はそんなに不純な気持ちじゃないんだと確認できるようになった。僕の天職なんだと自信を持ち、迷うことなくなりました」と語っている[7]

1976年に日本中央競馬会の調教師免許を取得し、父の厩舎から独立、東京競馬場に厩舎を開業した(1978年美浦トレーニングセンターに移転)。翌1977年1979年には、調教技術賞(現・JRA賞優秀技術調教師)を受賞した。1984年にヨシノエデンで京王杯オータムハンデキャップを制し、重賞初勝利を挙げる。1988年には30勝を挙げて関東の優秀調教師賞を初受賞した。以後数度にわたり同賞を受けている。1994年には保田隆芳の退任に伴い日本調教師会会長に選出され、2004年に退任するまで5期10年務めた。2010年1月には中央競馬通算700勝を達成している。

関東を代表する調教師のひとりであったが、1998年ノーザンレインボーで当時グレード外中山大障害・春(現中山グランドジャンプ(J・GI))を制しているものの、GI競走の優勝経験はなかった。日本放送協会(NHK)の競馬中継の関東開催での解説を務めることが多く、その縁から2010年に放送されたNHKの土曜ドラマチャンス』ではドラマ内の馬事考証を担当したほか、最終回ではJRAのスターター役で出演した[8]

2015年2月28日付けで定年により調教師を引退した[9]。引退後は競馬評論家となり、NHK競馬中継でも解説者として出演。日本調教師会には名誉会長として引き続き籍を置く。

2019年5月21日発令の春の叙勲で、旭日小綬章を受章。厩舎関係者の受章は、1989年の田中朋次郎(勲五等双光旭日章)以来30年ぶり5人目[10][11]

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調教師成績

要約
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さらに見る 年, 区分 ...

※2014年度終了時点。

さらに見る 日付, 競走名 ...

主な管理馬

[12]

受賞歴

  • 優秀調教師賞(関東) 4回(1988年、1997年、1999年、2000年)
  • 調教技術賞 2回(1977年、1979年)

主な厩舎所属者

※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

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脚注

参考文献

関連項目

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