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相武台

神奈川県座間市と相模原市南区にまたがる地名 ウィキペディアから

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相武台(そうぶだい)は、神奈川県座間市相模原市南区にまたがる地名

概要 相武台, 国 ...
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由来

1937年陸軍士官学校が当時の高座郡座間村(現・座間市)に移転してきた(士官学校敷地・演習場は同郡新磯村麻溝村<いずれも現・相模原市>にまたがる)。同年12月20日に行われた同校卒業式に昭和天皇行幸した際に、天皇から同校相武台の呼称が与えられた。

この命名について当時の陸軍大臣であった陸軍大将杉山元は、士官学校(現米軍キャンプ座間)正門内に建てられた「相武臺」の碑に次のように記している。

昭和十二年陸軍士官學校󠄁此ノ地ニ移ル冬󠄀十二月二十日 天皇陛下卒業式ニ行幸アラセラレ親シク生徒ノ演習󠄁みそなハセ給ヒ陸軍大臣ヲ召シ本校󠄁󠄁在地名ヲ特ニ相武臺ト賜フ大臣ハ恐懼感激シ益󠄁〻練󠄀武養󠄁材ノ實ヲ擧ケ 聖󠄁旨ニ副ヒ奉ランコトヲ奉答セリ 謹󠄀ミテ按スルニ相模國ハ古ク佐賀牟ト訓シ古事記日本武尊󠄁東征ノ條ニ相模國ニ作ル臺ハ其ノ形󠄁󠄁ヲ占メ相模原ヲ控󠄁ヘ最モ武ヲ練󠄀リ銳ヲ養󠄁フニ適󠄁ス乃チ武ヲ󠄁ヲ寓シ給ヒタルモノト拜ス茲ニ御命名書ノ相武臺ノ三字ヲ廊󠄁大シテ碑ニ題シ緣由ヲ背ニ記スト云爾|(『相模原市史第4巻』p571)[8][9] [注釈 1] なお杉山の説明にある通り、7世紀に成立した相模国は古くは「さがむのくに」と読み、相武国造(さがむのくにのみやつこ)の領域をその前身の1つとする。

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地名としての相武台

要約
視点

陸軍士官学校の移転に際して、学校の敷地となる座間村新磯村とで合併による町制の施行が、神奈川県庁で構想された[注釈 2]。しかし「座間町」へ吸収されることを恐れた新磯村側は合併に消極的で、結局座間村は士官学校への天皇行幸のあった1937年12月20日に単独で町制を施行して「座間町」となった[10]

新磯村では1938年2月になってようやく「座間」を「相武台」に改めることを条件とする合併案が村会で可決されたが、すでに単独で町制施行を行った座間町の受け入れるところとならず、この合併は成立しなかった[注釈 3]


1940年、相次ぐ陸軍施設の進出を背景に高座郡北部の9町村(座間町新磯村麻溝村上溝町田名村大沢村相原村大野村大和村)の合併による相模原軍都建設計画が持ち上がった[注釈 4][注釈 5]。その際、合併によって発足する新しい市の名称候補の1つとして相武台市が挙がったが、陸軍士官学校側から「相武台」は天皇から士官学校に下賜された呼称であるから市名として使用することは認められないとの強い反対があり[11][注釈 6]1941年4月29日に8町村(大和村1941年2月21日離脱[12])の合併で発足した町(市制施行は内務省に認められなかった[注釈 7][注釈 8]。)は高座郡相模原町となった(なお、旧座間町の区域は戦後の1948年9月1日に分離独立して座間町が再置された)。 1941年1月1日、小田急線の「士官学校前駅」が「相武台前駅」と改称された。同日に「相模大野駅」と改称された「通信学校駅」とともに防諜上の理由からと説明される[13][14]。同様に相模鉄道(現JR相模線)の「陸士前駅」も「相武台下駅」と改称された。

敗戦後、陸軍士官学校が解体されると「相武台」の名称は付近の地名として広く用いられるようになった。相模原市1954年11月20日市制)と座間町(1971年11月1日に市制施行して座間市)の双方で相武台が公式の行政地名となっている。

座間町(→座間市)相武台

敗戦後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 9]。その政策に基づき農業集落として座間市相武台は広野台一丁目・緑ケ丘の一部とあわせて「相武台」とされた[15]

公共施設

座間市消防本部・座間市消防署 : 2018年2月13日緑ケ丘より移転。

相模原市南区相武台

戦後、上述のとおり政策に基づき農業集落として、相模原市相武台一丁目・二丁目は「相武台前」、三丁目は相武台団地新磯野相模台三丁目~七丁目と一括りに「新磯台帰農」とされた[注釈 11][16][17]

  • 1889年明治22年)4月1日 : 町村制の施行により、当該地域は高座郡新磯村大字新戸となる。
  • 1936年昭和11年)
  • 1937年(昭和12年)9月30日:陸士移転完了[20]
  • 1941年(昭和16年)4月29日 : 新磯村・座間町麻溝村田名村上溝町大沢村相原村大野村と合併して相模原町が発足。
  • 1945年(昭和20年)
    • 8月10日 : 天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)を昭和天皇が採用し、ポツダム宣言受諾[21]
    • 8月14日 : 日本政府は本宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告[22]終戦の詔書発布
    • 8月15日 : 正午玉音放送[注釈 13]
    • 8月16日 : 午後4時には大陸命第1382号にて大日本帝国陸軍に対して、停戦交渉成立に至る間やむをえざる自衛のための戦闘行動を除いて「即時の戦闘停止」を命令された[23]。海軍に出された大海令48号もほぼ同内容である。1382号では具体的な停戦期限は記載されていなかったが、日本側から連合国側に通告した「日本政府・大本営発、連合国最高司令官宛電一号」では「二、右大命ガ第一線ニ到達シ実効ヲ挙グル日時ハ左ノ如ク予見ス」として「内地 四十八時間」としていた。つまり、48時間後の18日16時を完全な停戦成立完了時になるとみていた。なお、南樺太では、札幌にいた第5方面軍の樋口中将から南樺太死守命令が出されたが、その際、この自衛戦闘を理由にソ連軍進攻に対し、戦闘が継続された。
    • 8月28日 : ようやく停戦から2週間後の28日に連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、チャールズ・テンチ大佐率いる45機のカーチスC-47からなるアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。同基地を占領した。なお、全面戦争において首都の陥落がないままで、また停戦から首都占領まで2週間も時間がかかったのは、近代戦争のみならず史上でも初めてのことであった。また、同日東京の大森にある連合軍の捕虜収容所に、アメリカ海軍の軽巡洋艦「サンフアン」から上陸用舟艇が手配され、病院船「ビネボレンス」に、イギリス軍やアメリカ軍の病人や怪我人などを収容していった[24]
    • 8月30日 : 30日午前、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の総司令官として、連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も、専用機「バターン号」でフィリピンから厚木基地に到着した。一行は午後に日本軍が用意した専用車で横浜市内のホテルニューグランドに移り、宿を取った。続いてイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍の占領軍と、中華民国軍、フランス軍、オランダ軍、ソ連軍などの他の連合国軍の代表団も到着した[25]
    • 9月2日 : 日本国政府が降伏文書に調印、大東亜戦争第二次世界大戦終結(日本国の敗戦)。連合国軍占領下により日本国主権が停止。
    • 9月5日 : 日本国政府の降伏文書調印に基づき、陸軍士官学校が米軍に接収されキャンプ座間となる[注釈 14]
  • 1951年(昭和26年)1月 : 旧陸士演習場であった大字新戸、大字磯部の各一部を統合し大字新磯野を起立、同時に地番整理を実施[26]
  • 1952年(昭和27年)4月28日 : 日本国主権回復[注釈 15]
  • 1954年(昭和29年)11月20日 : 高座郡相模原町は市制施行し人口約8万人の相模原市が発足[27]。当該地域は相模原市大字新戸・大字新磯野となる。
  • 1967年(昭和42年)1月 : 大字新磯野に神奈川県住宅供給公社によって相武台団地が竣工、入居開始。
  • 1969年(昭和44年)7月1日 : 大字新戸、大字新磯野の各一部から、町丁として相武台一丁目 - 三丁目を起立し、同時に住居表示を実施。
  • 1969年(昭和44年)7月1日 : 町丁として相武台団地を起立し、同時に住居表示を実施。
  • 2010年平成22年): 相模原市の政令指定都市移行による区制実施により、同市南区の町名となる。
公共施設
その他
  • 座間市相武台と相模原市相武台は市境を挟んで隣接し、市街地が連続する。小田急相武台前駅は座間市相武台に属する。
  • 座間市相武台だけでなく相模原市相武台も座間郵便局の管轄であり、郵便番号は座間市相武台が252-0011、相模原市相武台が252-0324である。
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相模原市南区

要約
視点

世帯数と人口

2020年令和2年)10月1日現在(国勢調査)の世帯数と人口(総務省調べ)は以下の通りである[1]

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人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

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世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

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学区

相模原市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2018年2月時点)[33]

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事業所

2021年令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[34]

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事業者数の変遷

経済センサスによる事業所数の推移。

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従業員数の変遷

経済センサスによる従業員数の推移。

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座間市

要約
視点

世帯数と人口

2023年令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[5]

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人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

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世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

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学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[36]

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事業所

2021年令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[34]

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事業者数の変遷

経済センサスによる事業所数の推移。

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従業員数の変遷

経済センサスによる従業員数の推移。

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主な施設

  • 相武台公民館
  • フレサ

関連項目

その他

日本郵便

  • 郵便番号と集配局は以下の通りである。
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参考文献

  • 『相模原市史第4巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和46年3月18日
  • 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』 涌田佑/著 平成18年11月1日発行
  • 『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』
  • 『広報ざま縮刷版 第1巻』
  • 『広報ざま縮刷版 第2巻』

脚注

注釈

  1. 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』p54 涌田佑/著 平成18年11月1日発行」●四:最盛期の相武台陸士ー第50期生卒業式ーには、昭和天皇臨席の卒業式は昭和16年7月18日が最後である。戦局の慌ただしさが原因である。昭和天皇臨席の卒業式を挙行していたころが、相武台陸士の最盛期である。
  2. 『相模原市史第4巻』p605●軍都計画時代の相模原 新磯・座間の合併問題と座間町の誕生『陸軍士官学校移転に伴い、その正門を控える座間村では、いち早く新しい都市建設を企て、昭和12年10月2日、都市計画法の適用を受けた。座間村では、その前から町制施行を企図し、県の斡旋で新磯村に合併をもちかけていた。』※原文ママ
  3. 『相模原市史第4巻』p606●軍都計画時代の相模原 <新磯・座間の合併問題と座間町の誕生>『新磯村としては座間に合併される形にこだわったらしく、新磯村が座間町の名称下に合併することを反対する場合は、畏き名称の相武台にちなみ「相武町」としてはどうかと言う意見も出ている~なかなか決着がつかず実に三か月以上もたった昭和13年2月28日の村会でやっと議案を可決した。~「座間」ではなく「相武台」その他の町名にするなら合併してもよいという意見であるが、すでに座間町が町制を施行してから三か月経過しており、あとのまつりであった。』※原文ママ
  4. 昭和14年12月22日、9町村で「相模原軍都建設連絡委員会」結成。第1回総会は神奈川県庁3階の第2会議室で開かれた。『相模原市史第4巻』p633●軍都計画と八か町村の合併
  5. 昭和15年3月7日の総会では新町名について「相模市」が良いという意見が多かった。※原文ママ『相模原市史第4巻』p635●軍都計画と八か町村の合併』
  6. 『相模原市史第4巻』p609~p611●軍都計画と八か町村の合併/原町田の合併問題/相模原軍都計画誕生 『昭和14年5月12日「相模原軍都建設座談会」が淵野辺駅前守屋旅館で開かれた。士官学校井田少佐:「相武台」の名称は士官学校に賜ったので、他に使うことは絶対に許されない。相模原開発同盟会(昭和14年相模原開田開発期成同盟会から改称) 岩本信行同盟会長:「相武」だけなら差し支えないか。神奈川県野坂都市計画課長:「相武」なら「相武○○会社」と言うのもあるし、いいのではないか。中島麻溝村助役:相模原が一躍市に変るのだから「相模市」はどうか。井上相原村長:私は当たりさわりのない「相模原市」が一番よいと思う。』※原文ママ
  7. 『相模原市史第4巻』p638~p639●軍都計画と八か町村の合併/原町田の合併問題/相模原軍都計画誕生『地元相模原出身岩本信行神奈川県議会議長は内務省地方局を訪問して、市制実施を陳情した。ところが「面積・人口はあっても都市としての形態を具備していないところに市制を実施することは前例がなく、かつその必要を認めない。現在すぐ市制にしなくても、将来実施の機が熟してからでも遅くあるまい。」それを聞いた久保田総務部長(軍都建設連絡委員会長)は「将来は市となること請合だが、現在の状態では市制実施は至難である。さしあたっては町として合併するほかあるまい。しかし地元が市制促進運動をやめるのをあえて阻止することもあるまい。~中略~しかしその後も内務省の意向は変わらず、市制実施は時期尚早として、認可のおりる見込みはほとんどなくなったので、やむを得ず市制実施は見送ることにして、今後はひたすら合併のみをめざすことになった。』※原文ママ
  8. 『相模原市史第4巻』p645●軍都計画と八か町村の合併/原町田の合併問題/相模原軍都計画誕生 昭和16年3月19日、神奈川県知事が相模原町とすることで決定していたが、座間町や他の町村は、合併後の名称について相模原町ではなく「相模町」に固執した、4月2日にやっと八か町村の答申が「相模原町」とまとまり、県から内務省に認可申請を行った。
  9. 『麻溝台地区の生い立ち』p83 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会
  10. 『広報ざま』第25号 昭和48年11月1日発行p2に「本市には10の大字がありますが~地域によっては数個の大字が入り乱れており日常生活に多くの支障をきたしています。~消防車救急車、医師などが一刻を争うとき、なかなか目的地に到着できなかったり、郵便物、電報等が遅れたり、建物や人を探すのにむだな時間を費やしたりすることがあります~市では字名を全市的に統一する計画を進めておりますが、その最初の区域として特に大字が入り乱れている相武台地域を選び、昭和49年1月1日から実施することになりました。~なお地番については町名の整理が時宜を得た時点で年次的に整理していく計画ですので、当分の間は現在の地番をそのまま使用することになります。※原文ママ」と記述あり。
  11. ここで言う「帰農」は、戦後軍属を解かれた者、退役軍人復員除隊した者、陸軍士官学校の将校・陸士生、外地からの引揚者が開墾した耕地のこと。帰農と名の付いている農業集落は旧陸士演習場払下げ地である。
  12. 相模原市南区相模台全域、相模原市南区相武台三丁目大部分、新磯野全域、相武台団地全域、麻溝台のほぼ全域が軍用地として買収された。座間市相模が丘広野台は軍用地接収を免れた。
  13. 日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、この時点で一部地域を除き、ほぼ全ての日本軍の戦闘行為が停止された。『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 pp.277-278
  14. 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』p82涌田佑/著 平成18年11月1日発行【米駐留軍の陸士接収】には「昭和20年9月5日、米陸軍第一騎兵師団第四平站廠として米軍進駐」とある。
  15. 日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が発効し、第二次世界大戦終結(日本の降伏)の1945年9月2日以降、連合国軍占領下により停止状態にあった日本主権が回復した日付に基づく。
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出典

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