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相模が丘

日本の神奈川県座間市の地名 ウィキペディアから

相模が丘
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相模が丘(さがみがおか)は、神奈川県座間市町名。現行行政地名は、相模が丘一丁目から相模が丘六丁目。住居表示実施済み区域。

概要 相模が丘, 国 ...
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地理

神奈川県座間市の北部に位置し、小田急小田原線小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅に近いことから、最北部から順次市街化が進行し、1950年代までにほぼ全域が宅地市街化している。元の開墾農地の地割を反映し、街路網自体は直線的である。

町名の紆余曲折

当区域は元々相模野・座間野・芝原(しばあら)と呼ばれる原野の一部であり、座間村新田宿村草刈場とされていた。それまで人が誰も住んでおらず、江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった[注釈 1]

江戸末期嘉永6年(1853年[注釈 2][注釈 3]にこの入会地が分割され、相模が丘は座間村新田宿村四ツ谷村に組み込まれた[7][注釈 5]

地籍は、高座郡座間町の内、

大字座間北広野・中広野の各小字全域・南広野・元広野・元広野窪行政道路以北(相模が丘一丁目〜四丁目)。

辰街道[注釈 6]を境界に大字新田宿飛地見分塚の大部分(相模が丘五丁目)。

江戸街道[注釈 7]を境に新田宿飛地見分塚の残り部分と新畑全域・大字四ツ谷飛地二ツ塚の行政道路以北(相模が丘六丁目)。

以上の各大字小字・飛地である[注釈 8][8]


敗戦直後から小田急相模原駅周辺の高座郡座間町大字座間字北広野、大字新田宿飛地をはじめとした相模が丘の宅地化が進行し、救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)[注釈 9]1959年4月20日にこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した[注釈 10][注釈 11][9]


相模原市は1969年7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字新磯野および大字磯部の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目の町丁を起立し、翌1970年7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目および相模台団地の各町丁が起立されたが、このことがきっかけで高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台が隣接して併存することとなった。

1971年11月1日に市制施行した座間市が、相模原市に遅れること12年後1981年6月1日に大字相模台地区で住居表示を実施した際[10][注釈 12]、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目を起立し町丁に改編した。

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歴史の時系列と詳細

要約
視点

この地は既に1880年高座郡座間村北広野(相模が丘一丁目)、新田宿村飛地字見分塚(相模が丘五丁目)、上鶴間村相模原市南区南台五丁目)、新戸村(相模原市南区相模台二丁目)、各村の境界域(小田急相模原駅北口付近)[注釈 13]に中和田新開[注釈 14]開墾され、上鶴間村分には人が住み着いて耕作していたが、1894年になって中和田新開の座間分座間中宿出身者1人が居を構え入植に加わる[注釈 15]1901年には開拓者たちは次々と府中道(現・南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加わり、新開地は一つの集落として活気をおびて来た[注釈 16]

1919年には14戸にまでなった中和田新開は府中道(行幸道路旧道)と辰街道[注釈 17]の交差する未開地の中に小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の原点となった[注釈 18]

1937年9月30日、市ヶ谷より陸軍士官学校キャンプ座間の地に移転すると、1938年から高座郡大野村に、臨時東京第三陸軍病院陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)、原町田陸軍病院(後の相模原陸軍病院、戦後は在日米軍医療センター)や、原町田通信学校(正式名称は陸軍通信学校、現・相模女子大学ほか)、原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校、現・麻布大学ほか)が開設され、当時陸軍小田原線江ノ島線沿いの大野村上鶴間(現・相模原市南区相模大野東林間旭町豊町栄町南台相南松が枝町)、小田急相模原駅近辺の新磯村新戸(現・相模原市南区相模台磯部(現・相模原市南区相模台・相模台団地桜台)、座間町新田宿飛地見分塚(現・座間市相模が丘五丁目)・座間字北広野・座間字中広野(現・座間市相模が丘一丁目~三丁目)の地域を原町田の一部としてまとめて扱うことが多く、電信電話町田郵便局の管轄であった。相模が丘の大部分が相模原MAであるのはその名残である[注釈 19][注釈 20]


大きな転換点となったのは、前述のとおり臨時東京第三陸軍病院[11][注釈 21]の進出である。1938年3月1日の開院に合わせ、小田原急行鉄道が、中和田新開を通過していた小田原線上の座間町大野村の行政界に相模原駅[12][13][注釈 22][注釈 23]を開業し、同駅と同病院を結ぶ街路[注釈 24]周辺が市街化する契機となった[注釈 25]

新田宿飛地(相模が丘五丁目・六丁目)は、他の地域同様、江戸時代末期文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成したが[14]、本村から遠く、通いでの耕作は大変であったので、所有者は畑に植林して松林とした[注釈 26]。小田急線が開通して4年後、1931年長野県から移住した人[15]を皮切りに、旧陸軍士官学校ほか軍用地買収[16]1936年6月から行われ建設が始まった1937年から1943年にかけて、新田宿飛地見分塚(相模が丘五丁目)に本格的に人が住み着いた。東京市三河島から陸軍関係施設の建設に従事した人[17]神田の青果問屋の番頭だった人[17]練馬の大地主で漬物屋だった人は陸軍に土地を買収されたため相模が丘に移ってきた[17]東林間水道新開から移住した人、様々な理由・所縁で相模が丘に移住して来た[18]。皆、昭和十八年までにこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」という親睦会を作った[19]。戦時中、高座郡旧相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、小田急相模原駅一帯を相模台と呼んでいた[20]

戦前・戦中・戦後にかけて、相模が丘・広野台小松原は幸い軍用地の買収を免れて畑の耕作は従来通り続けられた[21]

敗戦後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」[注釈 27]が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 28]。その政策に基づき農業集落として「相模台」とされた[22][23][24]

この地は地下の水脈が約25mと深く、その上関東ローム層という火山灰土の不毛な土壌干害を受けやすかったが、栽培には適地であったので主に桑園として利用され、陸稲甘藷大根なども栽培した[注釈 29][注釈 30]戦後1949年県営相模原畑地灌漑事業が着工され、1953年、畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)に通水を開始したが、相模が丘の元の大字である座間と新田宿は灌漑用水組合に加入しなかったため、用水の恩恵を受けることができなかった[注釈 31][注釈 32]1955年に町営水道が完成、1958年には相模が丘六丁目に小田急住宅が開発分譲され[25]、市街地化。畑地灌漑用水路西幹線は、その役目を終え、1969年度年度末1970年3月に通水を終了した[注釈 33]

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年表

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世帯数と人口

2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]

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人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

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世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

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学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[71]

さらに見る 丁目, 番・番地等 ...

事業所

2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[72]

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事業者数の変遷

経済センサスによる事業所数の推移。

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従業員数の変遷

経済センサスによる従業員数の推移。

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交通

鉄道

町内に鉄道駅はない。

バス

道路

施設

総本山別院寺院

その他

日本郵便

参考文献

  • 『座間市史第4巻』
  • 『座間の地名』執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行
  • 『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』発行:昭和61年
  • 『座間むかしむかし第1集』発行:昭和32年10月15日 発行者:座間町教育委員会
  • 『座間むかしむかし第3集』発行:昭和49年5月20日 発行者:座間市教育委員会
  • 『座間むかしむかし第6集』発行:昭和57年1月16日 発行者:座間市教育委員会
  • 『座間むかしむかし第25集』発行:平成15年3月28日 発行者:座間市教育委員会
  • 『広報ざま縮刷版 第1巻』
  • 『広報ざま縮刷版 第2巻』
  • 『相模原市史第2巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和42年3月
  • 『相模原市史第4巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和46年3月18日
  • 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著
  • 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行
  • 『鶴間新町のルーツを探る座談会』大和市市史編さん事務局
  • 『相模原津久井・町田の電信電話史』相武電鉄上溝浅間森車庫付属資料館 平成31年3月10日発行

脚注

関連項目

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