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広野台
日本の神奈川県座間市の地名 ウィキペディアから
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広野台(ひろのだい)は、神奈川県座間市の町丁。現行行政地名は広野台一丁目から広野台二丁目。住居表示実施済み区域[注釈 1]。
地理
神奈川県座間市の北部に位置し、一丁目北西部に1927年4月1日、小田急小田原線が開通、運行しているが最寄り駅はない。小田急相模原駅と相武台前駅の中間にあり、どちらの駅からも徒歩20分未満。
概略
旧地籍は、広野台一丁目が大字座間字元広野・元広野窪・南広野の行政道路以南、広野台二丁目が大字座間字元広野・南広野の鶴間街道以南、大字座間入谷飛地である[5][6]。
歴史
要約
視点
広野(ひろの)[注釈 2]と呼ばれたこの地域は、芝原(しばあら)[注釈 3]の一部で相模が丘同様、関東ローム層と言う火山灰土の不毛な土壌、その上、地下の水脈が約25mと深く農地に適さないので原野のままになっており、キツネやウサギが住み着く徳川将軍の鷹狩の一部に過ぎなかった。この原野には屋根を葺く萱、燃料になる雑木や葉、牛馬の飼料となる雑草、農作物の堆肥となる雑草や落葉が豊富なので、江戸時代元禄年間には芝原一帯が座間野の区域になり、座間宿村・座間入谷村の草刈場とされた[注釈 4]。江戸末期になって開墾が始まり、台地で平坦な相模が丘や小松原、相模原市南区相模台・新磯野、そして広野台一丁目・二丁目の元広野や二丁目の座間入谷飛地は広い面積の農地となったが、同じ広野台一丁目の元広野窪は目久尻川が流れ窪地・谷・崖・坂が多く農地になった面積は他の区域より小さかった[注釈 5][注釈 6][注釈 7][7]。
戦前・戦中・戦後にかけて、幸い広野台・相模が丘・小松原は軍用地の買収を免れて畑の耕作は従来通り続けられた[8]。
終戦直後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」[注釈 8]が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 9]。その政策に基づき農業集落として広野台一丁目は緑ケ丘の一部とともに「相武台」に、二丁目は「小松原」に組み込まれた[9][10][11]。
1950年代まで[12]、広野台二丁目南部座間入谷飛地は座間入谷の人々が[13]、一丁目・二丁目の元広野や元広野窪は座間の人々が各本村から毎日通いで耕作した。不毛な土壌で干害を受けやすかったが、桑栽培には適地であったので主に桑園として利用され、大麦・小麦・甘藷・陸稲・大根なども作られた[14][注釈 10][注釈 11]。
古くから、厚木から武蔵国国府が置かれていた府中に通じる府中道(行幸道路)、大山道と神奈川往還(国道16号旧道)が交差する下鶴間宿へ通ずる鶴間街道[注釈 12]、遠くは日本橋へ通ずる江戸街道[注釈 13]、これらの街道が通っていたが、小田急相模原駅周辺の中和田新開や隣接する小松原新開のように移住して開拓する者はなく、専ら耕作地・通過往来の地にすぎず、集落は往古から形成されなかった。1957年から座間町は企業誘致を行い、1960年頃から工場が進出、荒地・畑・雑木林が混在した状態が1970年代はじめ頃まで続いた。
1955年に町営水道が給水開始。翌年には行幸道路沿い元広野窪上小池坂[注釈 14]にキャンプ座間在勤者専用住宅「座間コート(Zama Court)」が竣工[15]、広野台に初めて住戸が完成し人が住み始めた。ダイエー相武台店になっている位置には、座間町の企業誘致により1961年、無線通信機の工場が進出[注釈 15]。その後、工場は移転。跡地は1960年代後半のボウリングブーム到来により、1970年に相武台ボールダイヤモンドレーン(通称・相武台ボウル)が開店[注釈 16]。しかし第一次オイルショックやレジャーが多様化しボウリングブームは数年で終焉し役目を終え、その後1975年9月21日、スーパーマーケット忠実屋相武台店開店→1980年12月にディスカウントストア・サンエム1号店の相武台店が開店した。
1962年4月1日に創立し座間中学校体育館に間借りしていた座間第三小学校(座間市立相模野小学校)が、同年11月19日元広野の現在地に本館完成し移転、全児童入校式を挙行。11月25日には竣工式と第1回大運動会を開催し、同日を開校記念日とした[16]。1966年4月4日には座間第三小学校近くの座間街道に、児童が安全に登下校できるよう座間町内初の歩道橋である相武台歩道橋が竣工[17]。座間第三小学校は、小田急相模原駅周辺の座間市域である相模台地区、相武台地区の学童を持つ父兄と自治会の新校設立陳情から開校まで4年の歳月を要した。それまで児童は、座間第一小学校まで相模台から片道4.7キロ、相武台から片道2.3キロの道のりを徒歩で通学していた[18]。
1961年、近隣の相模原市新磯野にて神奈川県住宅供給公社が相武台団地建設予定地の土地買収を完了、翌年用地造成工事が開始[注釈 17][19]。同じ頃、行幸道路と座間街道が接続する周辺[注釈 18][20]に住戸が点在・散在しはじめる。
1969年3月31日、神奈川県と座間市主体【都市計画道路 3・3・2 号 広野大塚線】新設[注釈 19]の都市計画が決定[21]。1960年代に入り、広野台二丁目旧元広野に日産自動車座間工場進出、隣接する相模が丘[22]や、近隣の旧新磯野であった相武台団地・相模原市南区相模台、そして大和市中央林間西が急速に発展していくなかで、広野台一丁目とりわけ旧元広野窪の小田急線南側[23]が他の地域より開発開始・宅地市街地化が著しく遅く停滞した。地形[24]・交通不便[25]が理由であるとともに、上記の区域が新設道路起点になったことも起因している[26]。未着手だが2024年12月13日現在もこの都市計画は存続中である[27]。
1974年11月1日、座間市は当該地域の各大字小字を統合し広野台1丁目・2丁目を新設*広野台が大字、1丁目・2丁目が小字の字丁目方式[注釈 20]。 1999年9月13日には住居表示を実施、大字広野台を町丁に改編し広野台一丁目・広野台二丁目となる。
年表
- 江戸時代
- 元和年間 - 領主内藤清成は、慶長8年(1603年)、八王子往還を発展させるため、この道筋に内藤家菩提寺宗仲寺を建立し、徳川家康と親しい源栄上人を初代住職に招聘した。慶長13年(1608年)に清成が亡くなったため、その子内藤清次が父清成の遺志を継ぎ、八王子往還付近の開発を更に進展するため、元和年間(1615年~1624年)のはじめに、当時の座間村周辺の集落(長宿・星の谷・皆原・羽根沢など)から農民を移住させ、座間新宿を設けようとした。慶安の頃に至って整備が成ったことから座間村から座間新宿を分村する気運が生まれた[28][29]。
- 正保4年(1647年) - 相模野を草刈場として利用していた座間村と両・鶴間村(下鶴間村・上鶴間村中和田分)の間で境界をめぐる争い『夏草騒動』起きる[注釈 21][注釈 22][注釈 23]。
- 寛文2年(1662年) - 領主久世廣之大和守の検地の際から、高座郡座間村は座間新宿の地域を分村し座間宿村と座間入谷村が起立[注釈 24][30]。
- 元禄12年(1699年) - 幕府は「夏草騒動」の教訓を生かし、元禄年間はじめに相模野を10の区画に分け[注釈 25]、区画毎に近隣の村々の共同使用として、正式に入会野の権利を認めることにした。座間地域が所有する芝原(しばあら)が座間野と呼ばれるようになったのはこの頃からで、各区画には、野元(管理権)と呼ばれる入会野を管轄する村を設け入会野の運営に当たらせた[注釈 26][注釈 27]。この座間野で、野元の座間宿村・座間入谷村に対し、新戸村・磯部村が「冬草刈」をめぐり訴訟を起こした事件『冬草騒動』起きる。幕府は新戸村・磯部村の訴えを却下する裁定を下した[31]。
- 享保11年(1726年)11月 - 座間野に開墾を願い出た者がいたので、代官日野小左衛門が座間野の検分をし、磯部村に座間野に関係する各村の代表を集め、意見を聴取したところ、開墾反対の意見であったので開墾は中止されたが、代官日野は座間野(面積400町歩・約400ヘクタール)の検地を行い関係の各村に分割することにした[注釈 28][32]。
- 嘉永6年(1853年) - 芝原の開墾が始まり、文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成し、座間宿村・座間入谷村の各戸に[注釈 29]、平等に分割され畑とされ耕作が始まった。不毛な土壌で干害を受けやすかったが、桑栽培には適地であったので桑園として利用されていた[33]。
- 明治時代
- 1868年 - 高座郡座間村[注釈 30]、座間入谷村・栗原村・新田宿村・四ッ谷村・新戸村飛地[注釈 31]、神奈川府を経て神奈川県に所属。この年、広野と呼ばれた「小池窪」(現・座間市相武台二丁目)東方に広がる台地で辰街道までの地域に「北広野」「中広野」「南広野」(以上相模が丘一丁目~四丁目)、「元広野窪」(広野台一丁目)「元広野」(広野台一丁目・二丁目)以上の小字名が付けられ、座間村の管轄になる[34][35]。
- 1877年 - 中和田新開[36](小田急相模原駅北口一帯)の開拓が始まる[37]。
- 1889年4月1日 - 町村制施行により、この地は高座郡座間村大字座間字元広野・元広野窪・南広野の一部、大字座間入谷飛地となる[38][39]。
- 1899年 - 座間入谷飛地小松原の開拓が始まる[40]。
- 1905年 - 小松原に開拓者2名が移住[40]。
- 昭和(戦前・戦中)
- 昭和(戦後)
- 1945年
- 1947年 - 米軍の命令により、「相武台新道」(行政道路)整備拡幅幹線道路化工事始まる[注釈 39]。
- 1948年9月1日 - 旧座間町域(座間市域)が相模原町から分離独立し、高座郡座間町が再置される[注釈 40]。人口12,032人[52]。
- 1952年4月28日 - 日本国主権回復[注釈 41]
- 1954年
- 10月15日 - 県道座間下鶴間線廃止、神奈川県から高座郡座間町へ移管。
- 10月26日 - 神奈川県道50号座間大和線(行政道路)全面開通(起点:座間町座間字元広野窪5170番地⇔終点:大和町下鶴間字乙三号2137番地)[注釈 42][53][54]。
- 1955年1月1日 - 座間町営水道給水開始[注釈 43]。
- 1957年1月:「座間町工場誘致の奨励措置に関する条例」制定[注釈 44]。座間町が企業誘致を開始。
- 1959年4月20日 - 行政道路(座間街道)以北を大字相模台として設置[注釈 45][55]。
- 1962年4月1日 - 高座郡座間町立座間第三小学校創立(座間中学校体育館内に併設開校)[56]。
- 1963年7月 - 日産自動車、地元地権者と用地約15万坪売買契約締結[注釈 46]。
- 1965年
- 1966年4月4日 - 相武台歩道橋竣工。※座間町内初の歩道橋[60]
- 1967年
- 1968年
- 1969年
- 1971年11月1日 - 高座郡座間町、市制施行し座間市となる。人口62,740人[68]。
- 1974年11月1日 - 当該地域の大字小字を統合し広野台1丁目・2丁目を新設。住所の表記は従来からの地番を使用(例・広野台1丁目xxxx番地の1)[注釈 53]。
- 1975年3月 - 相模台歩道橋竣工[注釈 54]。
- 1984年4月 - 相模野児童館開館[69]
- 1985年
- 平成
大字小字・飛地の整理に関して追記
日産自動車座間事業所内第二・第三地区は、行政地名として「座間入谷」「栗原」の大字が実存している[73][74]。日産自動車座間事業所は現有所有地を十把一絡げに「座間市広野台二丁目10番1号」と事業所登録しているが、すでにその住居表示の土地は、イオンモール座間・物流センターほかに売却されている。日産神奈川販売株式会社カレスト座間店の所在地は座間市広野台二丁目10番3号となっている。
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世帯数と人口
2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
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学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[81]。
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は、以下の通りである[82]。
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
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交通
鉄道
乗り合いバス
- 神奈川中央交通の路線 - 北相武台バス停
- 座間市コミュニティバス(ザマフレンド号)の路線
廃止路線
道路
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施設
その他
日本郵便
参考文献
- 『座間市史第4巻』
- 『座間の地名』執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行
- 『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』発行:昭和61年
- 『座間むかしむかし第1集』発行:昭和32年10月15日 発行者:座間町教育委員会
- 『座間むかしむかし第3集』発行:昭和49年5月20日 発行者:座間市教育委員会
- 『座間むかしむかし第6集』発行:昭和57年1月16日 発行者:座間市教育委員会
- 『座間むかしむかし第25集』発行:平成15年3月28日 発行者:座間市教育委員会
- 『相模野小学校五十周年記念誌』発行者:相模野小学校創立50周年記念事業実行委員会 発行日:平成23年11月25日
- 『広報ざま縮刷版 第1巻』
- 『広報ざま縮刷版 第2巻』
- 『相模原市史第2巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和42年3月
- 『相模原市史第4巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和46年3月18日
- 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行
- 『鶴間新町のルーツを探る座談会』大和市市史編さん事務局
- 『相模原津久井・町田の電信電話史』相武電鉄上溝浅間森車庫付属資料館 平成31年3月10日発行
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脚注
関連項目
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