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龍虎勢朋

日本の元大相撲力士、タレント ウィキペディアから

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龍虎 勢朋(りゅうこ せいほう、1941年1月9日 - 2014年8月29日)は、日本の元大相撲力士、引退後はタレントコメンテーター俳優。本名は鈴木 忠清(すずき ただきよ)[1]親方当時は放駒 清一、晩年の芸名は龍虎 孝宗龍虎名義の場合もある[3][2]

概要 りゅうこ せいほう 龍虎 勢朋, 本名 ...

東京都大田区出身。東京都立大森高等学校中退。花籠部屋所属。最高位は東小結。現役時代は身長186cm、体重132kg。妻は鈴木貴子(観世流太鼓十六世宗家・観世元信の長女)。1992年4月結婚。1992年11月長女、1994年8月、長男誕生[4]

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来歴

要約
視点

大相撲時代

幼少期から背が高く、両親は忠清を大相撲力士にしようと考えていた。1957年1月場所、花籠部屋から初土俵[5][2]。自身を含めて同期の新弟子は50人いたが、当初は後に第52代横綱となる北の富士と並んでとても軽量で最下層の実力しか持たなかったという[2][6]。実際に後年その北の富士自らが「50人の新弟子の中で一番弱かったのがオレと龍虎でした」と当時を振り返っている[6]。稽古するとすぐ倒れるため、口の悪い兄弟子から「電柱」と揶揄された。同年11月場所まで鈴木山の四股名で土俵生活を送り、翌1958年1月から1959年9月まで花武蔵の四股名で土俵に上がった。1959年11月からは若神山を名乗るも、幕下中位から下位で停滞していたことに痺れを切らして1964年11月場所から花武蔵に戻す。1966年5月場所前には師匠の花籠から勧められて龍虎と改名し、以来引退までこの四股名で通す(1969年3月までは下の名前がだった)。若乃花には新弟子の頃からかわいがられ、二子山(若乃花)独立の際について行くことを志望しながら師匠の花籠が移籍を認めた力士に含まれていなかったために移籍は認められず残留することになった。二子山は「お前は残った方が(稽古相手もいて)いい。第一、お前みたいな弱いヤツは連れていけない」と泣く泣く突き放したと伝わる[7]1967年3月場所新十両1968年3月場所新入幕[2]。初土俵より66場所目の幕内昇進は当時の最も遅い記録であった。なお、同期の中で幕内に昇進したのは当初最下層の力士とされていた自身と北の富士の2人だけであった[6][8]

新入幕の場所で11勝4敗の成績を挙げ敢闘賞を獲得。1969年5月場所(前頭2枚目)で大鵬から初金星を挙げ、この場所8勝7敗で殊勲賞を獲得。翌7月場所も東前頭筆頭で8勝7敗の成績を挙げた(この間、3場所連続優勝力士に土をつけるという珍しい記録をつくっている)が新三役に昇進できず、翌9月場所同位置で3勝12敗と大敗したが、その後はほぼ安定した成績を挙げ幕内上位を保持していた。ようやく1970年3月場所新三役(小結)。美男力士として人気を博し[2]、1969年1月場所前の座談会では初代栃東から「龍虎関、あんたは声もいいし耳もつぶれてない。それで相撲取ってると言えますか(笑)」と突っ込まれていた[9]。その美男ぶりには同じ美男力士として認知されていた北の富士も「龍虎にはカッコよさ負けするなあ」と嘆いたほどであった[10]突っ張りを交えた気風のよい相撲振り[2]は大鵬からも「ボロカスに言うところなんてないよ。いい突っ張り持っているものなあ。ときどき叩いているのを見るけど、あれも出足があっての叩きだからいいんじゃないかな」と褒められたことがある[9]1970年9月場所、前頭11枚目で自己最高の13勝2敗を挙げた。

しかし、翌1971年11月場所6日目、前頭7枚目義ノ花戦で左アキレス腱を断裂して途中休場、その後1972年1月場所から3場所連続全休で幕下まで落ちた。病院に運び込まれた際「(入院が)2カ月もかかるとは参ったな。まあ、いいや。ついでに飲みすぎて痛めている肝臓の治療もやってもらうか」と冗談を飛ばしていた。この時の龍虎の負傷を受け、日本相撲協会1972年1月場所より公傷制度を導入することになったが(2003年11月場所限りで廃止)、龍虎自身には制度が適用されなかったため、世間の同情を集めた[7]

しかし、本人の不屈の闘志と努力が実を結び、幕下優勝(1972年9月場所、7戦全勝)、十両優勝(1973年3月場所、11勝4敗)と実績を重ね、1973年7月場所に再入幕する[7][2]。その後も1974年9月場所で新横綱の北の湖から通算2個目の金星を獲得[7]。激しい突っ張り合いから始まり、最後は突き落としで破った一番であった[7]1975年1月場所で小結となり三役にカムバックした(破門など協会からの離職によるブランクなしで幕下へ降下した元三役の三役復帰は史上初)。

ところが、1975年5月場所初日の前頭4枚目旭國戦で、今度は右アキレス腱を切断(復帰後2度目のアキレス腱断裂、計3度のアキレス腱断裂)して、その場所限りで現役引退[7][2]。引退後は年寄16代放駒を襲名するも1977年廃業し、タレントに転向した。

タレント・俳優時代

放駒親方時代の1976年から映画やドラマに出演していた龍虎は、相撲協会退職後、四股名龍虎をそのまま芸名とし、本格的に芸能界に進出。テレビ、時代劇などで活躍していた。また、『料理天国』(TBS系列)の名物試食人として活躍。「おいしいですね」の一言はそのまま龍虎のキャッチフレーズとなった[7]。以降、舞台(北島三郎公演)などを中心に俳優として活躍していた。また、大相撲のご意見番としてテレビ朝日のワイドショー『スーパーモーニング』などを中心に出演。1990年頃クモ膜下出血で倒れ、2008年に再発[4]2014年8月29日、家族とお礼参り事任八幡宮を訪れた際、本宮への階段を上っている最中に循環器疾患で倒れ、娘と息子が救命措置を施したものの、午前11時頃、搬送先の静岡県掛川市の病院で死去73歳没[11][12][13]

通夜は9月4日葬儀・告別式は9月5日東京都目黒区正覚寺で営まれ、葬儀委員長は北の富士勝昭が務め、弔辞は北の富士と生島ヒロシが読んだ。通夜・告別式には「料理天国」で共演した芳村真理西川きよしの他、やくみつる、「暴れん坊将軍」で共演した松平健と同じく根本りつ子らが参列、出棺の際には「威風堂々」が流れ、拍手と「龍虎!!」の声が掛けられた。棺には妻の手作り弁当が入れられた[7]

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主な成績

  • 通算成績:563勝511敗48休 勝率.524
  • 幕内成績:240勝262敗25休 勝率.478
  • 現役在位:110場所
  • 幕内在位:36場所
  • 三役在位:4場所(小結4場所)
  • 三賞:6回
    • 殊勲賞:2回(1969年3月場所、1969年5月場所)
    • 敢闘賞:4回(1968年3月場所、1969年3月場所、1969年11月場所、1970年9月場所)
  • 金星:2個(大鵬1個・北の湖1個)
  • 各段優勝
    • 十両優勝:2回(1968年1月場所、1973年3月場所)
    • 幕下優勝:2回(1967年1月場所、1972年9月場所)

場所別成績

さらに見る 一月場所 初場所(東京), 三月場所 春場所(大阪) ...

幕内対戦成績

※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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出演

映画

テレビドラマ

その他のテレビ番組

ラジオ番組

舞台

  • 国定忠治/北島三郎大いに唄う(北島三郎 特別公演)

CM

著書

  • 『どうにかなるさ』:1975年、ごま書房

脚注・引用

関連項目

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