沖縄県立首里高等学校(おきなわけんりつ しゅりこうとうがっこう)は、沖縄県那覇市首里真和志町二丁目にある県立高等学校。
概要 沖縄県立首里高等学校, 過去の名称 ...
閉じる
- 歴史
- 1798年(寛政10年)に尚温王によって設立された「国学」の流れをくむ。1880年(明治13年)に「首里中学校」となる。数回の改組・改称を経て、現校名となったのは、沖縄が日本に返還された1972年(昭和47年)。2020年(令和2年)には創立140周年(国学としては220周年)を迎えた。
- 建学の精神
- 「海邦養秀」- 国学の創立者、尚温王による言葉。「海に囲まれた国から優秀な人材を輩出する」という意味。
- 校章
- 4枚の葉と桜の花弁の絵を背景にして中央に「髙」の文字を置いている。
- 校歌
- 1909年(明治42年)に制定。作詞は山口泰平他国漢科職員、作曲は糠塚卯助、宮田啓重による。歌詞は4番まであり、歌詞中に校名は登場しない。
- 設置学科
- 全日制課程 2学科
- 普通科 - 9学級(360名)
- 染織デザイン科 - 1学級(40名)
- かつて存在した課程・学科
- 定時制 普通課程(1980年(昭和55年)3月廃止)
- 全日制 一般事務課程(廃止年月日は不明)
- 全日制 家庭課程-全日制課程 家政科(1981年(昭和56年)3月廃止)
- 全日制 食物課程-全日制課程 食物科(同上)
- 全日制 工芸課程-全日制課程 染織科→全日制課程 染織デザイン科(現在)に至る。
- 姉妹校
- オナイダ高校
- 部活動
- 1958年(昭和33年)、戦後初めて全国高等学校野球選手権大会の沖縄代表として出場した。
- 女子なぎなた部は全国レベルの活躍をしている。
- 前史
- 1798年(寛政10年)4月 - 尚温王が国学を創立。当時の琉球の最高学府であった。首里真和志村内の中城御殿に仮設され、当初は「公学校所」と称した。
- 1800年(寛政12年)3月 - 当蔵村勘定座に移転。
- 1801年(享和元年)10月 - 龍潭池畔の松崎に校舎を新築移転し、「国学」に改称。
- 1879年(明治12年)4月 - 廃藩置県により、琉球王国は解体され(琉球処分)、国学が沖縄県庁の所轄となる。
- 正史
- 1880年(明治13年)12月9日 - 国学を「首里中学校」と改称。(創立記念日)
- 首里役所長の瀧脇信敏が校長を兼任。学級数を6、修業年限を3年とする。
- 入学資格を小学校卒業生の男子としたが、当時まだ小学校卒業生はいなかったため、旧来の生徒に歴史・作文の試験を実施し、その合格者38名に入学を許可。
- 1881年(明治14年)1月 - 開校し、授業を開始。
- 1887年(明治20年)3月 - 中学校令の施行により、「沖縄県尋常中学校」と改称し、修業年限を5年(現在の中学1年から高校2年に相当)とする。
- 1891年(明治24年) - 国学跡の校舎から現在の首里高等学校の敷地に移転。
- 1894年(明治27年)5月 - 初めて京阪地方への修学旅行を実施。
- 1895年(明治28年)10月から1896年(明治29年)3月までの間 - 尋常中学校ストライキ事件が発生。
- 1899年(明治32年)4月 - 中学校令の改正に伴い、「沖縄県中学校」と改称(尋常が除かれる)。生徒数の増加により、首里城内に仮教場を設置。
- 1901年(明治34年)5月 - 「沖縄県立中学校」に改称(「立」を加える)。
- 1909年(明治42年)12月9日 - 12月9日を創立記念日として制定。校歌を制定。
- 1910年(明治43年)4月 - 首里城内の旧建物を利用し、分校が設置される。
- 1911年(明治44年)4月 - 分校が沖縄県立第二中学校として分離・独立したことに伴い、「沖縄県立第一中学校」と改称。
- 1919年(大正8年)12月9日 - 制服を白・黒服から夏冬兼用の霜降服地に改定。
- 1925年(大正14年)- 校舎を改築。運動場を拡張。
- 1931年(昭和6年)4月 - 第1学年より作業科及び音楽科、第4・5学年には公民科を課す。
- 1934年(昭和9年)4月 - 第4・5学年に実業科として農業科および商業科を課す。また全学年に作業科を課す。
- 1940年(昭和15年)12月 - 寄宿舎「養秀寮」が完成。
- 1943年(昭和18年)
- 4月 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限4年となる。
- 10月 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)までに入学した生徒にも修業年限4年が適用される。
- 1945年(昭和20年)6月16日 - 沖縄戦により壊滅。校長以下、職員・生徒合わせて約200名が戦死。
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)10月1日 - 旧天妃国民学校跡に那覇分校が設置許可される。
- 1948年(昭和23年)
- 1952年(昭和27年)10月1日 - 定時制首里高等学校が開校。
- 1958年(昭和33年)
- 4月1日 - 定時制首里高等学校を併合し、定時制課程を置く。
- 4月3日 - 新たに一般事務課程、家庭課程、食物課程、工芸課程を設置。
- 8月 - 第40回全国高等学校野球選手権大会に沖縄代表として初出場。「甲子園の土」が話題になる[1]。
- 1960年(昭和35年)4月1日 - 那覇連合教育委員会立首里高等学校を廃し、「琉球政府立首里高等学校」となる。
- 1962年(昭和37年)4月1日 - 家庭課程を家政科に、食物課程を食物科に、工芸課程を染織科に変更。
- 1972年(昭和47年)5月15日 - 本土復帰に伴い、「沖縄県立首里高等学校」(現校名)と改称。
- 1973年(昭和48年)4月1日 - 染織科を染織デザイン科に変更。
- 1976年(昭和51年)3月4日 - 日米高等学校交流プログラムを開始。
- 1979年(昭和54年)2月17日 - 養秀会館(同窓会館)が完成。
- 1980年(昭和55年)
- 1月16日 - 新校舎が完成。
- 2月18日 - 新校舎に移転完了。
- 3月31日 - 定時制課程廃科となる。
- 12月9日 - 創立100周年記念式典を挙行。
- 1981年(昭和56年)3月31日 - 家政科、食物科廃科となる。
- 2000年(平成12年) - 国学創建200年、沖縄県立第一中学校、首里高等学校創立120周年。
1958年(昭和33年)の第40回全国高等学校野球選手権大会は史上初めて47都道府県の代表校が出場する記念大会となり、沖縄県勢として初めて本校が全国大会に出場した(春・夏通じての沖縄県勢初出場だった)。1回戦から3回戦までは阪神甲子園球場と阪急西宮球場の併催だったが、1回戦の対敦賀戦は阪神甲子園球場で行われ、試合結果0-3で敗退し、甲子園の土を持ち帰った。ところが、当時の沖縄県はアメリカ施政下にあり、那覇港で行われた琉球政府(琉球列島米国民政府の下部組織)による検疫の結果、甲子園の土は那覇港で処分された。
このことが大きく報じられ、それを知った日本航空のスチュワーデスが甲子園付近の海岸の石を拾い集めて寄贈した。現在この石は本校敷地内にある「友愛の碑」というモニュメントに埋め込まれており、沖縄県勢の甲子園初出場の記念として飾られている(当該項参照)。
その後、1972年(昭和47年)5月15日の沖縄返還までに、沖縄県勢は春8回(本校も2回)・夏4回(本校も1回)全国大会へ出場したが、沖縄返還年の南九州大会を制して第54回全国高等学校野球選手権大会に出場した沖縄県立名護高等学校が甲子園の土を初めて沖縄県へ持ち帰る[2]まで、沖縄県勢は甲子園の土も西宮の土も持ち帰ることができなかった(本校の夏2回目の出場となった第45回全国高等学校野球選手権大会も第40回大会と同様に1回戦から3回戦までは阪神甲子園球場と阪急西宮球場の併催で、3回戦の対下関商戦が阪急西宮球場で行われ、試合結果0-8で敗退した)。
- 2008年(平成20年)4月5日から8月20日まで小学館ビッグコミックオリジナルで沖縄県勢甲子園初出場50年目記念として連載される(全9話)。
- 沖縄有数の進学校「那覇北高校」として登場した。
この項の出典 : [3]
- モノレール
- 路線バス
さらに見る 路線・系統, 下車バス停 ...
閉じる
出場記念に甲子園球場の土を持ち帰ったが、当時は「外国の土」の扱いになるため、検疫の関係で沖縄に持ち帰ることができず、帰郷後処分されたという一件。
アクセス沖縄県立首里高等学校 2024年1月8日閲覧