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日本の俳優、歌手 (1924-1987) ウィキペディアから
昭和を代表する映画俳優の一人として数多くの映画やドラマに主演。戦後派として登場し、甘さと翳りを兼ね備えた天賦の美貌で一躍トップスターに躍り出た。若いころは絶世の美男子としてアイドル的人気を博したが、中年期からは任侠映画や戦争もので見せた渋い魅力で、日本映画界を代表するスターとして長らく君臨した。また、歌手としても独特の哀愁を帯びた声と歌唱法で知られた。
兵庫県西宮市出生。戸籍上の出身地は、静岡県浜松市[注釈 1]。本名は
西宮時代、父と母が結婚していなかったのは、鶴田の父である大鳥の家が鶴田の母との婚姻を許可しなかったためである。鶴田の母は、鶴田を連れて西宮から浜松へと移り住み、別の男性と婚姻した[注釈 2]。母は、水商売をして生計を立てていたため、幼かった鶴田は目の不自由な祖母と狭い長屋で暮らしていた。祖母は鶴田の母を産んだ際に栄養失調によって失明。祖母との2人暮らしは極貧そのもので、洗面器で米を炊いていたという。
ほどなく祖母が他界。家でたった1人の生活となる。母会いたさに遊廓へ1人で向かったが、客商売の仕事中だった母は相手にしてくれなかった。そのうえ、義父は博打好きで幼児期には貯金箱を割ってまで金を奪ったり、のちに鶴田が映画界の大スターになってからも不在時を狙って博打代金を借りにきた。
こうした幼少期の思い出から、鶴田は嫌いなものに祖母と二人で毎日見た夕日を挙げている。また、鶴田の娘も父の少年時代の思い出話について、友達と遊んだとかそういったほのぼのとした話題が全くなかったとしている。
14歳のときに、俳優に憧れ当時時代劇スターであった高田浩吉の劇団に入団。
此花商業学校で学び、19歳で関西大学専門部商科に進学するが、その年に学徒出陣令により徴兵され、学校での勉学は続けることができなかった[注釈 3]。終戦まで海軍航空隊に所属し、このときの体験がその後の人生に強く影響を及ぼした。また、22歳のときに薬の副作用で、左耳が難聴になってしまう。1951年(昭和26年)公開の松竹映画『地獄の血闘』に出演した際、共演した歌手の田端義夫に、歌唱方法についてのアドバイスを受け、以後、鶴田は「左耳に左手を沿えて歌う」という独特の歌唱スタイルになった。また、歌う際のマイクの持ち方も独特で、白いハンカチで包んだマイクを右手で持ち右手小指を立てるというものだった。
1948年(昭和23年)、松竹入り[2]。芸名の「鶴田浩二」は師匠の「高田浩吉」に由来する。映画界へ身を投じたものの、最初は大部屋に入れられた。いくつかの映画に端役で出演したが、すぐに頭角を現し、長谷川一夫主演の松竹『遊侠の群れ』で本格デビュー。1949年(昭和24年)、『フランチェスカの鐘』で初主演。佐田啓二、高橋貞二とともに松竹「青春三羽烏」と謳われヒットを連発。
1950年代に入ってからも甘い美貌と虚無の匂いを漂わせスター街道を上り続け、芸能雑誌『平凡』の人気投票で、2位の池部良、3位の長谷川一夫を大きく引き離しての第1位になる。マルベル堂のプロマイドの売上も1位となる。甘い二枚目からサラリーマン、侍、軍人、殺し屋、ギャングに至るまで幅広くこなす。
高田浩吉主催の打ち上げパーティ宴席で、高田は必ず「『締めを鶴田、歌え』、歌い終わると『相変わらず下手だな、皆さん酔いが醒めたところでお開きにしましょう』」と言ったのは高田の親心で、実は歌の訓練だった。
1952年(昭和27年)には戦後の俳優の独立プロ第1号となる新生プロ(クレインズ・クラブ)を興した。SKD(松竹歌劇団)のトップスター、ターキーこと水の江瀧子らが所属タレントとなった。恋人と噂された岸惠子と共演した戦後初の海外ロケ映画『ハワイの夜』(新生プロ制作)が大ヒット。戦後最大のロマンスといわれたが、岸が所属する松竹はそれを許さなかった。鶴田は自殺未遂事件を起こす。同年、「男の夜曲」で歌手デビュー。歌手としてもヒットを飛ばし戦後の日本を代表する大スターとなっていく。
1953年(昭和28年)1月6日午後7時ごろ、大阪・天王寺で鶴田浩二襲撃事件が発生した。鶴田は美空ひばりの芸能界の兄貴的存在であり、ひばりの後ろ盾である山口組三代目組長の田岡一雄とは旧知の間柄であったにもかかわらず起きた事件であった。のちに田岡は鶴田と会う機会があったが、田岡は脅しや暴力に屈しない鶴田の筋を通す生き方を認め和解、親交を深めることになっていく。「三代目の前で堂々としているのは鶴田ぐらいのもの」と周囲が驚くほどであった。
1955年(昭和30年)、マネージャーの兼松廉吉が青酸カリを飲み死亡。1956年(昭和31年)1月15日、元山口組興行部の西本一三が関西汽船「ひかり丸」から海に落ち死亡。いずれも自殺とされているが、原因ははっきりしない。
映画界のトップスターを襲った鶴田浩二襲撃事件は大きく報道され、当時まだ一地方の組織であった山口組が一気に全国的知名度を持つことになった。それと同時に山口組の機嫌を損ねるとひどい目に遭うという恐怖を日本の芸能界興行界に定着させることになった。
凄惨な事件の後も人気は衰えず、1953年(昭和28年)夏、『野戦看護婦』(児井プロ制作・新東宝配給)ではたった1日の拘束で出演料が300万円という日本映画史上最高額のギャラを得る。これまで松竹との契約ギャラが1本につき180万円で45日間拘束であった。ちなみにこの年の映画館の入場料は80円であった。もっとも松竹入社駆け出しのころは1本が15万円という薄給だった苦痛を味わっており、それが松竹退社と独立プロ設立につながったとマキノ雅弘監督はコメントしている。花道を通る間に真っ白い着物が女性ファンの口紅で真っ赤になるほど浩ちゃん人気は凄まじく、『平凡』や『明星』でも人気投票No.1を守り続け、昭和20年代最大のアイドルとして君臨した。裕次郎以前の映画界において抜群の集客力であった。
新生プロは『ハワイの夜』のほか『弥太郎笠』などヒット映画を複数出し、クレインズ・クラブ・プロも主宰したが、信頼していた経理担当者に2000万円を持ち逃げされ鶴田は独立プロの難しさを実感し、フリーとなり、松竹、新東宝、大映、東宝の各映画会社で主演した。だが東宝のプロデューサー藤本真澄は稲垣浩監督&三船敏郎主演「宮本武蔵三部作」で佐々木小次郎を演じさせるために松竹から引き抜いたとコメントしており真偽は不明である。
1953年(昭和28年)には海軍飛行予備学生の手記集を原作とする独立プロ系作品『雲流るる果てに』に主演。レッドパージで浪人中だった家城巳代治監督、木村功ら新劇系の共演陣とは特攻観をめぐって対立することもあったが、夜を徹しての討論などでわだかまりを解き、初期の代表作となった。鶴田は試写で人目もはばからず泣き続け、「天皇陛下にご覧いただきたい」とも発言している。
東宝との契約では、必ずクレジットのトップとすること、専属マネージャーを帯同するなどの条項が入っていた。鶴田は東宝のスタジオにも大スターらしく、常に大勢の取り巻きを連れて入った。しかし、それは三船敏郎や戦前から活躍する大御所俳優、大監督でも専属のマネージャーはもちろん、付き人、個室もないという民主的な社風の東宝では、スタッフの反発を招いた。1955年(昭和30年)の『宮本武蔵 完結篇 決闘巌流島』では準主役で佐々木小次郎役の鶴田が、主演で宮本武蔵役の三船を差しおいてクレジットのトップとなった。
1955年、大映で山本富士子と共演した『婦系図 湯島の白梅』(衣笠貞之助監督。泉鏡花の名作『婦系図』の映画化)での美しく哀しい恋愛シーンは今も語り継がれている。しかし、1956年(昭和31年)の『日本橋』(市川崑監督。原作は同じく泉鏡花)にも出演予定だったが、撮影所所長と交際していたある女優を寝取るというスキャンダルを起こし、降板となる。
1958年(昭和33年)、東宝と専属契約を結ぶ。主演作を作り続けるが、専属初主演は『旅姿鼠小僧』で岡本喜八監督『暗黒街の顔役』と『暗黒街の対決』は興行的にも作品評価も高い成功作だが、いずれも名コンビだった三船敏郎の方が評価が高く単独主演ではかつてのような大ヒットに恵まれず、初めてのスランプを味わう。
1960年(昭和35年)、東映のゼネラルマネージャー的立場にあった岡田茂(のちの同社社長)が[4]、第二東映の設立による役者不足を補うため、「現代劇も時代劇もできるいい役者はいないか」と俊藤浩滋に相談し、「それなら鶴田浩二がぴったりや」と俊藤が鶴田を口説き[5][6][注釈 4]、当時は五社協定(このころは六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の藤本真澄プロデューサーに相談すると「どうぞ、どうぞ」と、東映に円満移籍となった[6]。時代劇ブームを巻き起こした東映京都撮影所に比べヒットがなかった現代劇の東映東京撮影所の救世主となるべくして高待遇で迎えられる。第1回作『砂漠を渡る太陽』で医師役に扮したのをはじめ、現代劇、時代劇、ギャング物と数々のジャンルの作品に主演し、重厚な演技を見せたが、決定打に欠けていた[6]。オールスターキャスト時代劇には一度も招かれず低予算映画ばかり出され腐っていた[7]。
1963年(昭和38年)、『人生劇場 飛車角』に主演し大ヒットさせる[2][8][9]。鶴田を主演で起用した岡田茂プロデューサーのカンのよさが、鶴田を任侠映画のスターに押し上げた[8][10]。カムバックに成功し[7]、ここから世に言う任侠映画ブームが始まる[11]。時代劇の東映といわれた同社だが時代劇では客が入らなくなっており、多くの俳優、監督、スタッフを解雇せねばならぬほど社は傾いていた。この大ヒットを機にヤクザ映画会社に変貌を遂げ、成功。鶴田も任侠路線のトップスターとして高倉健とともに多くのヤクザ映画に出演。熱狂的な支持を得た。ヤクザ映画は、テレビの普及で他社の映画館に閑古鳥が鳴くなか、多くの観衆を集めつづけた。「人生劇場シリーズ」「博徒シリーズ」『明治侠客伝 三代目襲名』「関東シリーズ」「博奕打ちシリーズ」『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』、オールスターの「列伝シリーズ」の主演は特に有名。
1970年(昭和45年)12月25日にリリースしたシングル「傷だらけの人生」が大ヒット。1971年(昭和46年)の『第13回日本レコード大賞』で大衆賞、『第4回日本有線大賞』では大賞を受賞し、同名で映画化もされた。このヒットを契機にテレビの歌番組へも積極的に出演するようになり、自身の作品以外に軍歌や戦時歌謡などもレパートリーとした。
テレビドラマにも黎明期から出演している。中でも1976年(昭和51年) - 1982年(昭和57年)まで放送されたNHKのドラマ『男たちの旅路』シリーズ(山田太一原作)[12]は大ヒットとなった。
1985年(昭和60年)に肺癌の診断を受けるが、本人には本当の病名が伏せられた。翌1986年(昭和61年)に病をおして主演したNHKのドラマ『シャツの店』が遺作となった。その後、闘病生活が続いたものの、1987年(昭和62年)6月16日に東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。62歳没[1]。鶴田の葬儀の際には多くの戦友や元特攻隊員が駆けつけ、鶴田の亡骸に旧海軍の第二種軍装(白い夏服)を着せたうえ、棺を旭日旗(いわゆる軍艦旗)で包み、戦友たちの歌う軍歌と葬送ラッパの流れる中を送られていった。弔辞は池部良が務めた。故人の遺志により墓碑は高野山奥の院、位牌は高野山大円院に安置されている。墓所は鎌倉霊園。
上の記述の通り元海軍軍人である。若き特攻隊員の苦悩を描いた『雲ながるる果てに』(家城巳代治監督、1953年)に主演して以来、特攻隊の出身、特攻崩れだとしていたが、実際には元大井海軍航空隊整備科予備士官であり、出撃する特攻機を見送る立場だった。戦後、元特攻隊員と称するようになる者は多く、一つの流行でもあったが、鶴田はあまりにも有名人であるため同隊の戦友会にばれ猛抗議を受けるが、一切弁明はしなかった。黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、日本遺族会にも莫大な寄付金をした。この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなった。また、各地で戦争体験・映画スターとしてなどの講演活動も行った。生涯を通じて、亡き戦没者への熱い思いを貫き通した。これらの行動に、当初鶴田を冷ややかな目で見ていた戦友会も心を動かされ、鶴田を「特攻隊の一員」として温かく受け入れた。一方、鶴田の死後の娘の回想によると戦友会等からの苦情は一切なく、それは搭乗員ではなくとも鶴田を自分たちの一員と認めた元隊員らの配慮によるものだったと理解し感謝していたという。
特攻隊生き残りの経歴については、映画会社が宣伝の一環で捏造し、本人も積極的に否定せず、特攻崩れを自称する当時の風潮に迎合しただけというのが実情とされている。特攻隊員を見送る立場であった経験から、実際の特攻隊の生き残りよりも本物らしく演じ、『男たちの旅路』においてはこのイメージが最大限に活用された。第4部「流氷」では鶴田演じる吉岡司令補を杉本警務士(水谷豊)が「“あの頃はみんな純粋だった”だの、そんなに美化していいのか」と厳しく責めるシーンもある。
妻との間に3子あり。三女左也香は、女優の鶴田さやか。
なお「弟」と称していた俳優の北斗学(北十学)は、若いころの恋人とのあいだに生まれた実子である。実孫としては、次女の長男(1人目の夫との子)は清元節三味線方の清元斎寿。次女の次男(再婚相手の7代目清元延寿太夫との子)は歌舞伎役者の二代目尾上右近、京都祇園安藤の若女将安藤加奈子である[要出典]。
1949年(昭和24年)の「男の夜曲」で歌手活動を始める。これは、師匠の高田浩吉から「鶴田は歌が上手い」と聞いたポリドールに懇願されたことによるものであった。
しかし、本人はこのデビュー曲について「嫌々連れていかれたスタジオで、無理やりレコーディングさせられた曲」と後年語っている[20]。それが40年近い歌手人生のスタートであったが、それ以来彼は歌う場面であってもあくまで「俳優の鶴田浩二」として挨拶し、歌手が本職であるという態度は終生取らなかった。「歌手は本業ではない」という謙虚さゆえか、ハンドマイクで歌う際は持ち手をハンカチで包むようにして手の汗が付かないよう気遣いを見せた。上述にもあるように左手を左耳に添え、音程を確かめるように歌う姿とともに、「鶴田独自の歌唱スタイル」として広く知られることとなった。
1960年(昭和35年)ごろまでの歌手としての鶴田は、甘い歌声で恋愛を主とした映画主題歌などを歌うことが多かったが、「好きだった」ヒット後はそれほど大きなヒットに恵まれなかった。しかし1960年代半ばから任侠映画や戦争映画への出演が増えたのに伴い、任侠や中年男の悲哀、そして戦友への鎮魂歌(主に軍歌)を、渋みの加わった声で熱唱する新たな一面を見せるようになっていった。それを代表するのが「傷だらけの人生」、そして「同期の桜」である。また、こうしたオリジナル曲のほかに、鶴田は軍歌も多数歌っている。
また、戦前の流行歌のカバーのほか、フランク永井・和田弘とマヒナスターズ・石原裕次郎などのカバーもしており、生涯歌った曲は約200曲を数える。
2009年(平成21年)、実娘・鶴田さやかはCD「涙の宝石」内で、現在の編集技術を使って「赤と黒のブルース」「好きだった」の2曲で鶴田とデュエットしている。
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