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2005年に兵庫県尼崎市で発生した鉄道事故 ウィキペディアから
JR福知山線脱線事故(ジェイアールふくちやませんだっせんじこ)は、2005年(平成17年)4月25日に西日本旅客鉄道(JR西日本)の福知山線(JR宝塚線)塚口駅 - 尼崎駅間で発生した列車脱線事故である。乗客と運転士合わせて107名が死亡、562名が負傷した[1]。
なお、JR西日本では、「福知山線脱線事故」ではなく「福知山線列車事故」と呼称している[2]。マスコミなどでは、「JR宝塚線脱線事故」や「尼崎JR脱線事故」などとも呼称される[3][4]。
2005年(平成17年)4月25日(月)午前9時18分ごろ、兵庫県尼崎市久々知にある福知山線塚口駅 - 尼崎駅間の制限速度70 km/hの右カーブ区間[5](曲率半径304 m。塚口駅の南約1 km、尼崎駅の手前約1.4 km地点、尼崎駅起点上り約1.805 km地点)を宝塚発JR東西線・片町線(学研都市線)経由同志社前行き上り快速(列車番号5418M、7両編成[注 1])が116 km/hで進入し、その列車の前5両が脱線した。
脱線したうち前4両は、線路から完全に逸脱。先頭の2両は線路脇の分譲マンション「エフュージョン尼崎」(2002年竣工)に激突。先頭車は1階ピロティ部の駐車場へ突入し、2両目はマンション外壁へ横から激突しさらに脱線逸脱してきた3 - 4両目と挟まれて圧壊。外壁にへばりつくような状態で、1 - 2両目は原形をとどめないほどに大破した。また、3 - 4両目は反対側の下り線路を支障していた[6][7]。
事故列車は、4両編成と途中の片町線(学研都市線)京田辺駅で切り離す予定だった3両編成を連結した7両編成で運転していた。前から1・4・5・7両目の運転台のある車両に列車の運行状態(非常ブレーキ作動の前後5秒間)を逐一記録する「モニター制御装置」の装備があり、航空・鉄道事故調査委員会が解析を行ったところ、前から5両目(後部3両編成の先頭車両)と7両目に時速108 kmの記録が残されていた[注 2]。先頭車両が脱線、急減速した影響でジャックナイフ現象によって車列が折れ、連結器部分で折り畳まれるような形になったために、側面から玉突きになって被害が拡大した。
当時、事故車両の1両目は、片輪走行で左に傾きながら、カーブ開始点付近の線路そばにある電柱に接触し[8]、マンション脇の立体駐車場と同スペースに駐車していた乗用車を巻き込むとともに左に横転、マンション1階の駐車場部分へと突入し奥の壁に正面から激突した。続く2両目は、急減速した1両目と後部車両の影響で左向きに回転し、マンションに車体側面から建物に巻き付きへばり付く様な形で『く』の字型に大破。3両目も同様に左向きに回転し、2両目と側面どうしで衝突するように停止。最終的に元々の進行方向と前後が逆になる。4両目は、回転した3両目に押し出されるようにして下り線(福知山方面)の線路と西側側道の半分を遮る状態でそれぞれ停止した。5両目は僅かな脱線に留まったほか、6・7両目は脱線しなかった[9]。
駐車場周辺において電車と衝突して大破した車からガソリン漏れが確認されており、引火を避けるためにバーナーや火花が散る電動カッターなどの重器具を使用することができず、救助作業は難航した。後部車両の撤去作業も平行して実施され、被害者の救助作業は事故発生から3日後の4月28日まで継続した。
近隣住民および下り列車に対しての二次的被害は免れたものの、直接的な事故の犠牲者は死者107名(当該列車の運転士含む)、負傷者562名を出す[1]、交通機関の事故としては歴史に残る大惨事になった。犠牲者の多くは1両目か2両目の乗客で、受傷理由として脱線衝突の衝撃で車体が圧壊し内装部材や車体に押し潰されたことによる損傷などを負ったとするものもあるが、最も多かった死因は、車内で飛ばされるなどして打撲受傷した、頭蓋底骨折、陥没骨折などによる脳挫傷、急性硬膜外血腫、硬膜下血腫などの脳と頭部の損傷であり、死者のうち42名、全体の40%を占めていた。そのほかに胸腹腔内損傷、胸腹部圧迫による窒息死(圧死)、頚椎損傷、骨盤骨折による失血死やクラッシュ症候群(クラッシュシンドローム)などであった。同じ車両から救出された生存者であってもクラッシュ症候群により手足切断など後遺障害を伴う重傷者が複数人確認されている。
JR発足後の死者数としては、1991年(平成3年)の信楽高原鐵道列車衝突事故(死者42名)を上回る史上最悪となる死傷者を出した。戦後(国鉄時代含む)では、八高線の列車脱線転覆事故(184名)、鶴見事故(161名)、三河島事故(160名)に続いて4番目、戦前・戦中にさかのぼっても7番目となる甚大な被害を出した。
また、犠牲者の遺族や友人、負傷しなかった乗客、事故列車が激突したマンションの住人、救助作業に参加した周辺住民や消防隊員・警察官など、広範囲でPTSDを発症するなど大きな影響を及ぼした。
なお、マンションには47世帯が居住していたが、倒壊の恐れに備えてJR西日本が用意したホテルなどへ避難した。事故後も2世帯が残っていたが、8月上旬までに順次マンションを離れたため空家状態になった。その後、マンションは4階より上層階が取り除かれ、遺構の一部を取り込んだ慰霊施設「祈りの杜 福知山線列車事故現場」として整備され、2018年9月21日から一般公開されている[12]。
物的損害の全貌は明らかではないが、駐車場にあって巻き込まれた多数の自動車が破壊された[13]。
事故の10年前に発災した阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)の経験が生かされ、迅速な救助活動が行われた。事故発生直後、いち早く現場へ駆けつけて救助を始めたのは近隣住民である。 何らかの活動をした企業は約30社、約400人にのぼった。尼崎市中央卸売市場や近隣工場の職員、地元住民の協力によって列車内に残された乗客の搬出、負傷者の応急手当、 タオルや氷・水・工具の提供、二次災害に備えた消火器の準備などが行われた。 死傷者があまりにも多く、救急車のみでは搬送が追いつかなかったため、歩行可能な負傷者および軽傷者は警察のパトカーや近隣住民の自家用車などで病院に搬送された。また、多数の負傷者を一度に搬送するため、大型トラックの荷台に乗せて病院へ搬送する手段が取られた。通常、座席を持たないトラックの荷台に人を乗せて公道を走ることは道路交通法違反にあたるが、兵庫県警は一刻を争う緊急事態であることを考慮し、白バイおよび機動パトロール隊の先導を条件に、道路交通法第56条2項を類推適用し黙認した[注 3]。のちに救助・救援活動の功績を讃えて、同年7月に76企業・団体と1個人に対して国から感謝状が、8月には48企業・団体と34個人に対して兵庫県警から感謝状が、9月には32企業・団体と30個人に対して尼崎市から感謝状がそれぞれ贈呈された。また、11月には日本スピンドル製造と1個人に対して紅綬褒章が授与された[注 4]。
一方、当該列車にJR西日本の社員2名が乗車していたことも判明している。この社員らが職場に連絡をしたところ、上司から出勤命令が出たため、救助活動をせずに出勤したことが判明。人命軽視として大々的に報道された。
公的機関としては、尼崎市消防局は県内消防本部の特別救助隊・救急隊に応援を要請(広域消防相互応援協定を含む)。兵庫県は緊急消防援助隊の応援要請、兵庫県警は広域緊急援助隊の出動要請をそれぞれ行った。さらに兵庫県は陸上自衛隊第3師団への災害派遣要請を行うも、現場はガソリンが流出しており引火の危険性が高く、同部隊の保有する救助資機材が使用できなかったため、同日17時には撤収した。救助活動はおもに消防の特別救助隊が行い[14][15]、警察やJR関係者、陸自(同日中に引き上げ)については搬送支援を行った。消防機関としては管轄の尼崎市消防局、県内の消防応援隊、緊急消防援助隊として大阪府の大阪市消防局・堺市消防局・枚方寝屋川消防組合、京都市消防局、岡山市消防局から特別救助隊や救急隊、航空隊など293隊1095名が出動し、約240名を救出した[16]。また、災害派遣医療チームが事故現場周辺に展開して大量の負傷者が発生した場合のトリアージを実施している。事故から約2時間後には、尼崎市により事故現場至近の大成中学校が開放されて避難所として利用されたほか、緊急車両の待機場や消防防災ヘリコプターの臨時ヘリポートとして活用された。
広域消防相互応援協定により、複数自治体から応援があった一方で、負傷者の搬送先はそのほとんどが兵庫県下の病院となった[15]。尼崎市と隣接する大阪府への搬入も多数あったものの、JR西日本に付属する大阪鉄道病院(杉野成院長)は、患者受け入れ要請を「事故現場から遠い」との理由で断っている。その後、距離的にさらに遠いりんくう総合医療センターが受け入れている事実を指摘されたところ、「救急指定病院ではない」と理由を変えて、受け入れを拒否し続けた。この大阪鉄道病院の患者受け入れ拒否については、のちに垣内社長が国会で謝罪している。重傷者については、神戸市消防局航空機動隊、兵庫県防災航空隊および大阪市消防航空隊の消防防災ヘリコプターによる搬送も行われた[17]。
兵庫県警察および航空・鉄道事故調査委員会により原因解明が進められ、2007年(平成19年)6月28日に最終報告書が発表された[1]。
4 原因 (p243)
本事故は、本件運転士のブレーキ使用が遅れたため、本件列車が半径304mの右曲線に制限速度70km/hを大幅に超える約125km/hで進入し、1両目が左へ転倒するように脱線し、続いて2両目から5両目が脱線したことによるものと推定される。
本件運転士のブレーキ使用が遅れたことについては、虚偽報告を求める車内電話を切られたと思い本件車掌と輸送指令員との交信に特段の注意を払っていたこと、日勤教育を受けさせられることを懸念するなどして言い訳等を考えていたこと等から、注意が運転からそれたことによるものと考えられる。
本件運転士が虚偽報告を求める車内電話をかけたこと及び注意が運転からそれたことについては、インシデント等を発生させた運転士にペナルティであると受け取られることのある日勤教育又は懲戒処分等を行い、その報告を怠り又は虚偽報告を行った運転士にはより厳しい日勤教育又は懲戒処分等を行うという同社の運転士管理方法が関与した可能性が考えられる。
5.1 所見 (p246)
6.1 同社が講ずるべき措置 同社は、次の措置を講ずるべきである。
(1) 運転技術に関する教育の改善
運転技術に関する教育について、例えば、①インシデント等に関する情報を分析して得られた注意配分に関する知見をもとに教育を行う、②分かりやすくイメージしやすい資料や運転シミュレータなどを適切に使用して教育を行う、③制限速度超過の危険性を十分に認識させるなど、実践的な教育を充実強化するべきである。 また、一部の運転士にぺナルティであると受け取られている日勤教育についても、このような実践的な運転技術に関する教育を充実させるなど、精神論的な教育に偏らず、再教育にふさわしい事故防止に効果的なものとするべきである。
(2) ブレーキ装置の改良
運転士が回生ブレーキ作動の有無に注意を払わずに済むよう、ブレーキハンドルの位置が同じならば回生ブレーキ作動の有無にかかわらず、可能な限り差のない減速度が得られるようにするべきである。 また、ATSによる本来必要のないブレーキ作動が発生しないよう、実際のブレーキ減速度が設定基準値に対して、安全上必要とされる以上に過大とならないようにするべきである。 さらに、ブレーキハンドルが常用ブレーキ8ノッチ位置と非常位置との間にあるときのブレーキ無作動の対策を講ずるべきである。 運転士が多形式の車両を運転する場合があることから、車両形式等の違いによるブレーキ性能等の差を可能な限り小さくして運転士の負担を軽減し、運転士の注意が前方の安全確認等に向けられるようにするべきである。
(3) 人命の安全を最優先とした運行管理
列車脱線事故が発生した場合に事故現場付近を原則として速やかに停電させることなど、列車脱線事故発生時等における最も安全と考えられる対応方法を定めたマニュアルを整備するなどして、どのような状況においても人命の安全を最優先とした運行管理を行うよう改めるべきである。
(4) 標識の整備
曲線標等の標識類について、確実かつ容易に認識されるよう、改善、充実するべきである。
6.2 事故発生時における車両の安全性向上方策の研究
事故発生時における被害軽減に関しては、平成14年2月22日に発生した九州旅客鉄道株式会社鹿児島線における列車衝突事故に鑑み、衝突時の車両の安全性向上に関する取組の強化について建議した(平成14年4月26日)ところであるが、本事故の発生に鑑み、客室内の空間が確保されるよう車体構造を改善することを含め、引き続き車両の安全性向上方策の研究を進めるべきである。また、客室内設備についても、事故発生時における被害軽減の観点から、手すりの配置、形状の改善などを検討するべきである。
航空・鉄道事故調査委員会の認定した脱線の原因については「脱線した列車がブレーキをかける操作の遅れにより、半径304mの右カーブに時速約116kmで進入し、1両目が外へ転倒するように脱線し、続いて後続車両も脱線した」という典型的な単純転覆脱線と結論づけた。現在では現場のATSには速度照査機能が追加されたが、2005年(平成17年)6月 - 2010年(平成22年)10月までに速度超過で列車が緊急停止する事態が11件も起こっており、速度が出やすい「魔のカーブ」とされている[18]。
なお、この脱線事故の原因の究明および以後の事故防止のために航空・鉄道事故調査委員会が調査を行った。同委員会は2008年(平成20年)10月1日に運輸安全委員会へ改組されているが、本項では組織名を航空・鉄道事故調査委員会のまま記述する。
航空・鉄道事故調査委員会の鉄道事故調査報告書によると、当該列車運転士は当日、事故現場に至る以前から、JR東西線にてATS-P曲線速照機能が動作したり、分岐器制限速度を超過したり、ATS-SWの確認扱いを怠って非常ブレーキを動作させたりするなど、通常の運転ではあまり見られない操作を繰り返していたことが記録より判明している[19]。
また、始発の宝塚駅やその次の停車駅である川西池田駅に入線する際にも、それぞれ停止位置を間違える[要出典]など、不自然な運転を繰り返していたことも判明している。さらに、事故報告書p.17 - 18によると、オーバーランした伊丹駅を発車後、最高速度いっぱいで力行・惰行の最中に運転士から車掌に車内電話があり、伊丹駅でのオーバーラン報告について「まけてくれへんか」と交渉されたと言い、このことに気を取られすぎてブレーキ位置を失念した可能性もある(運転士がブレーキをかけなければ、そのままの高速度で70 km/h制限の曲線に進入することとなる)。
なお当該線区に設置されていた自動列車停止装置 (ATS-SW) はJR西日本ではもっとも古いタイプのものとされ、速度照査を行う地上子も置かれていなかった。
また、当該線区には新型のATSである自動列車停止装置 (ATS-P) の導入が予定されていた。ATS-Pは連続的に速度を照査するため制限速度を細かく設定でき、カーブ前に十分減速できた可能性が高い。
速度超過から脱線に至る原因は、せり上がり脱線説と横転脱線説の大きく2つの説があるが、レールの傷跡から後者と断定される。
事故発生当初は、下記のように種々の原因が疑われた。しかし、最終報告書ではそれを裏付ける傍証は明示されなかった。
カーブ通過中に運転士が非常ブレーキをかけて車輪が滑走した場合、車輪フランジの機能が低下して脱線に至る可能性が大きいという説があり、当初、非常ブレーキを動作させなければ脱線および横転の可能性は少なかったと言われた。のちの解析の結果、運転士はカーブ進入後、車体が傾きだしていたにもかかわらず常用ブレーキを使用していたことが判明。非常ブレーキは脱線・衝突の衝撃で連結器が破損したことによって作動していた。
また、それ以前に運転士が数回にわたって非常ブレーキをかけていた原因については、0番台の車両と1000番台の車両のブレーキのかかり方の違いによるものであるという見方もある。0番台と1000番台ではブレーキの動作が違っているため、207系の運転経験がある運転士は(他形式とは違い)20 mほど手前から転がして微調整をかけるような運転の仕方が必要と話す。
事故発生当初は、現場に大破した乗用車(実際は列車の駐車場突入時に巻き込まれた駐車車両)が存在することと列車の脱線の事実のみが伝わったことから、「踏切内で乗用車と列車が衝突し、列車が脱線した」との憶測が飛び交うなど情報が錯綜した。そしてJR西日本の当初発表が「踏切内での乗用車との衝突事故」だったため、報道各社はこのJR西日本発表を流した。発生2時間後の警察発表で否定されるまで、乗用車との衝突とする報道は続いた。
塚口駅から同列車が脱線した地点までの区間に踏切は1つも存在せず、乗用車が近隣の建造物や立体駐車スペースから線路内へと落下した痕跡も確認されなかったことから、この説は明確に否定される。
JR西日本は事故発生から約6時間後の25日15時の記者会見の中で粉砕痕(置石を踏んだ跡)の写真を報道機関に示すなどして、置石による事故であることを示唆した。しかしJR西日本の置石説発表後に国土交通省が調査が済んでいない段階での置石であるとの断定を否定する発言を行い、JR西日本も原因が置石であるかのような断定を撤回する発言を行った。
その後も調査が進み、事故列車の直前に大阪方面へ向かう北近畿6号が通過するなど列車の往来が激しい区間であることから、多数の置石をするのが困難であること、置石の目撃者がいないこと、当初置石があった証拠として挙げられたレール上の粉砕痕は、航空・鉄道事故調査委員会の調査結果でその成分が現場のバラスト(敷石)と一致し、「脱線車両が巻き上げたバラストを、後部車両が踏んでできたものと考えるのが自然である」との調査委員会の見解が出された。
また、事故後しばらく、模倣とみられる置石事件で逮捕される者が相次いだ。
同事故においては以下のような多くの問題が指摘された。
国鉄時代から並行する阪急電鉄などの関西私鉄各社との激しい競争にさらされており、その影響からか、民営化後のJR西日本にも競合する私鉄各社への対抗意識が強かったとされる。私鉄各社との競争に打ち勝つことを意識するあまり、スピードアップや停止時間の短縮による所要時間短縮や運転本数増加など、目前のサービスや利益を優先し、安全対策を疎かにしていたと考えられる。
また同社においては、先述の競争の激しさや長大路線を抱えている点から、従業員がダイヤの乱れた時における乗客からの苦情の殺到を過度に恐れていたとの指摘もある。
同社の安全設備投資に対する動きが鈍かった背景には、先述の私鉄各社との競争環境に加え、民営化後多数の赤字路線を抱えていること、阪神・淡路大震災で一部の施設が全壊および半壊するなどの被害を受けたことや、山陽新幹線のコンクリート崩落問題で多額の支出を強いられたことなどが挙げられる。
これらの要因から運行にかかわる人員は大きなストレスにさらされていた。さらに運行にかかわるトラブルに対して運転士や車掌に日勤教育をはじめとした厳しい指導や処分がくだされていたことも、ストレスを増加させ事故の遠因となったと指摘されている。
目標が守られない場合に、乗務員に対する処分として再教育などの実務に関連したものではなく、日勤教育という懲罰的なものを科していた。具体的には、乗務員休憩室や詰所、点呼場所から丸見えの当直室の真ん中に座らせ、事象と関係ない就業規則や経営理念の書き写しや作文・レポートの作成を一日中させた。トイレに行くのも管理者の許可が必要で、プラットホームの先端に立たせて発着する乗務員に「おつかれさまです。気をつけてください」などの声掛けを一日中させたり、敷地内の草むしりやトイレ清掃などを命じるなど、いわゆる「見せしめ」「さらし者」にする事例もあれば、個室に軟禁状態にして管理者が集団で毎日のように
事故の当該運転士も、過去に運転ミスや苦情などで3回の日勤教育を受け、知人や友人に「日勤教育は厳しい研修だ」「一日中文章を書いていなければならず、トイレに行くにも上の人に断らなければならないので嫌だ」「日勤教育は社訓みたいなものを丸写しするだけで、こういう事をする意味が分からない」「給料がカットされ、本当に嫌だ」「降ろされたらどうしよう」と話していた。さらに、事故直前の伊丹駅での72 mのオーバーランの後、走行中に車掌へオーバーランの距離を少なく報告するように車内電話で要請したことも明らかになっている。
日勤教育については事故が起こる半年前に、国会において国会議員より「重大事故を起こしかねない」として追及されている。また、日勤教育は「事故の大きな原因の一つである」と、多くのメディアで取り上げられることになった。
国土交通省の事故調査報告書は、日勤教育について「ほとんど精神論[22]」と断じ、事故原因として「日勤教育等のJR西日本の管理方法が関与したと考えられる」と報告している。
事故発生路線である福知山線は、阪急電鉄の宝塚線・神戸線・伊丹線と競合しており、他の競合する路線への対抗策と同様、秒単位での列車の定時運行を目標に掲げていたとされている。特に尼崎駅においては各線と乗り継ぎできるダイヤを組んでいたため、列車の定時到着は乗客へのサービス上、ほぼ絶対の要件であった。
停車駅を次々と追加したにもかかわらず、所要時間は2003年(平成15年)12月に快速が中山寺駅に停車するダイヤ設定前と同じであった[注 9]ため、余裕時分を削って以前と変わりない所要時間で走らせ、慢性的な遅延が出ていることは問題視されていた。特に当該列車においては基準運転時分通りの最速列車で、事故発生区間である塚口駅 - 尼崎駅間では2004年(平成16年)10月のダイヤ改正によりさらに短縮されていた[23]。
当時のJR西日本は施策で「余裕時分全廃」を掲げていた。
当該事故発生前の現場周辺は、運行本数が多く速度も比較的高速な大都市近郊路線であるにもかかわらず、速度照査用の自動列車停止装置設備が設置されていなかった。JR東西線では開業時から全線でATS-Pが設置されていたが、福知山線においては付け替え区間も含めてATS-Pは当初設置されず、旧来のままとされた。
元々、福知山線では信号機に対する自動列車停止装置として、ATS-Pの代わりに、絶対停止機能と速度照査機能(点速度照査方式)のなかった従来の国鉄型ATS-S形の上位互換機種であるATS-SW形[注 10]が設置されていた[注 11]が、速度照査を行うには速度照査用の地上子が必要だったものの、該当区間には速度照査用地上子(SW照査子)が設置されておらず、事故前には速度照査は実施されていなかった。
旧国鉄時代からJR東西線が開業するまで、福知山線は上下線とも東海道本線へのアプローチが尼崎駅西側の外側線(列車線)に接続されていた。旧下り線は尼崎駅を出たあと東海道本線の南に分岐しそこから東海道本線を回り込む形で北上し現在のルートを通り現場のマンションの北側から直進していたが、旧上り線はそのままほぼ直進して南下し東海道本線の外側線に接続していた。のち、福知山線はJR東西線との直通運転を開始するにあたり、上下線ともに内側線(電車線)に接続させる必要が生じたことから大掛かりな線路の付け替えが行われ、特に上り線は、下り線に併設されていた尼崎市場への貨物線跡地などを利用した新しいルートを通ることとなり、現在に至っている。ただ、結果として、それまでより曲線半径が小さくなった。カーブでは高速運転をするためにカントを付けるが、現場は緩和曲線が短く、カントは上限105 mmより少ない97 mmなので、その分制限速度が5 km/h低くなっていた(半径300 mでカント105 mm(上限値)での制限速度は75 km/h。なお、従前の「本則」では60 - 65 km/h)。
現場のマンションは、この上り線の旧線跡に建てられたものである(2002年竣工)。そして現場のマンションより先の上り線の旧線跡は、現在駐車場と道路に転用されている。
方面については事故が発生した塚口 - 尼崎間を基準とする。
事故当該列車である207系には保安装置としてATS-SW、ATS-Pが取り付けられていたものの、当該路線の福知山・宝塚線には国鉄型ATS-Sに改造を加えた従来とほぼ変わらないATS-SWしか設置されておらず、事故現場のカーブにはATS地上子が未設置であった。現場のカーブにATSが設置されるのは事故発生から5日後の5月上旬だったという。
ブレーキハンドルについては、ハンドル位置に、常用最大ブレーキ(B8)と非常ブレーキの間にどちらのブレーキ指令も発せられないポイントが存在していた。この区間は、0番台・1000番台・2000番台とで異なる位置だった。また事故を起こした編成の7両目のマスコンは、そのポイントが11°あり、他の車両よりブレーキ緩解区間が広くなっていた[24]。
207系7両編成の前4両(0番台/日立製作所製)と後3両(1000番台/近畿車輛製)では、主電動機(モーター)[注 12]や主制御器などの性能に微妙な差異があるため、回生時に発生するブレーキ力にも差がある。また、車両によってブレーキの利き方に違いがあり、事故車の先頭車は特に癖のある車両だったとの運転士の証言[25]がある。ただし、近畿日本鉄道等いくつかの私鉄では基礎ブレーキ構造がそもそも違う[注 13]車両を読み替え装置を使って併結している場合もあり、JR西日本でも同じ電気指令式ブレーキながら界磁添加励磁制御の221系とVVVFインバータ制御の223系を併結して運用することや、一部編成中に主電動機出力の差のある車両が混結されている223系0・2500番台[注 14]などのケースもあり、主電動機や主制御器の違いが事故の大きなファクターであったとは考えにくい。なお2015年以降0・500番台全車の主電動機は323系と同一のもの[注 15]に順次交換が進んでいる[注 16]。[要出典]
「使用している鉄道車両の台車がヨーダンパ付ボルスタレス台車(端梁なし台車DT50・TR235)であって、ねじれに弱い」と鉄道評論家の川島令三などが指摘している[26]。そのねじれによりヨーダンパが跳ね上げ運動を起こし脱線したと論じており京浜急行電鉄・京阪電気鉄道・阪急電鉄などでは、台車は安全上軽量化すべき箇所ではないという考え方からボルスタアンカ付の台車を採用していることを論拠としている[注 17]。また、異常振幅により空気バネが片方では大きく縮み、もう片方では大きく膨らんだため車体が傾いたのが脱線原因、とした報道もあった[27]。
しかし一方で、軟弱地盤を抱えながらも高速運転を行っている東武鉄道では、古くからボルスタレス台車が使用されている。さらに、ボルスタレス台車の構造が事故原因とする川島令三の著書内容について、『鉄道ジャーナル』誌に鉄道評論家・交通研究家の久保田博による反論文が掲載。台車の基本的構造はボルスタアンカの有無にかかわらず変わるものではなく、また異常振幅に対するストッパは存在しており、空気バネが大きく伸縮することはあり得ないと反論した。
なお、福知山線事故・最終報告書は、台車については論じておらず、これに対してボルスタレス台車が事故原因である旨の具体的なデータを伴った充分な再反証は提出されていない。
客室内設備についても、事故発生時における被害軽減の観点から、手すりの配置、形状の改善などを検討するべきとの航空・鉄道事故調査委員会からの所見を受けて、JR西日本では207系全車と117系・115系の一部車両について車内吊り手を増設している。
事故を起こした207系車両がステンレス鋼製の軽量構造で、旧来の板厚の大きい鋼鉄製に比べ、車体側面からの衝撃に弱いという報道が相次いだ。しかし、一般的に、長尺物はその材質によらず、側面方向の衝撃が一点にかかるとそこにエネルギーが集中するので破壊がおきやすい(飲料水などの金属製の缶類がわかりやすい例として挙げられる)。ステンレス鋼自体も普通鋼と比べると、鋼板の粘りなどで有利な面もあり、一概に強度が低いとは言えないと言う反論もある。また、錆が出ないため、経年劣化が著しく少ないという点でも有利である。
また、207系車両は従来の車両に近い構造の車体設計となっており、のちに登場した同社の223系2000番台や321系においても、製造コスト削減と量産体制の簡素化を図りながら、従来の車両と同等の強度を確保することを両立させるため、梁を省略する代わりに車体側板の強度を上げることにより、車体全体を支える設計思想に基づく車体構造となっている(これはJR東日本の209系以降の通勤・近郊型車両でも、ほぼ同じ設計思想である)。
原型を留めること無くステンレス鋼体の車両が破壊された重大事故であることを鑑み、「客室内の空間が確保されるよう車体構造を改善することを含め、引き続き車両の安全性向上方策の研究を進めるべき」との所見が航空・鉄道事故調査委員会から提出されている。これをうけて、223系5500番台以降の新型車両で、屋根と車体側面、台枠と車体側面への結合部材の追加、戸袋部(ドア)柱への補強の追加、車体側面の外板の材質変更をおこなっている[29]。また、JR東日本E233系も製造当初から側面の強化を実施した。
車両のメンテナンスが大味であるとの指摘もある。他の鉄道会社の車両でも日常的に起こっている車輪が滑走した際にできる偏摩耗の補修放置が最たる例で、放置すればするほどに車輪が真円でなくなり、走行中に非常に耳障りな音がでる。裏を返せばそれだけの負担を車輌にかける運行体制であることになる。
また、4年に1度速度計の精度を検査するよう義務付けられているにもかかわらず、車両メーカーからの納入後1度も検査していなかったことが分かり、2 %までの誤差は許容範囲とされているが3 - 4 %の誤差があった可能性があったことが判明した。
本件事故を起こした運転士は運転歴11か月で、運転技術や勤務姿勢が未熟だった可能性がある[注 18]。この背景には、国鉄分割民営化後の人員削減策と定年退職による自然減を待って新規採用を本格化させたという人事戦略があるとされる。とくにJR西日本においては他のJR各社と比べ長期間にわたって新規採用者を絞り、定年退職者がまとまった数になったのを契機に採用者を増やしたために運転士の年齢構成に偏りが出て、その結果、運転経験の浅い若手に運転技術を教える中堅およびベテラン運転士が少なくなったといわれている。
事故当日は、前日24日から2日間にわたっての勤務で、6時48分に放出駅から乗務し、松井山手駅まで回送し、松井山手発快速尼崎行き、尼崎発宝塚行き回送、宝塚発快速同志社前行きに乗務し、9時38分に京橋駅で乗務を終える予定だった。乗務開始から事故発生までに運転士は数回にわたってミスがあった。(前述の事故報告書記述と併せて参照されたい)
9時前、宝塚駅停車中、折り返しのため、車掌が尼崎方1両目から7両目に移動した際、運転士が最後部の運転席で3分以上座っており、車掌に気付き室内から出た際、車掌が直前の停車に対して「(ATS) Pで止まったん?」との問いに運転士は不機嫌な様子で無言のまま立ち去った。
9時1分頃、本来運転士が使用することのない無線の試験信号が指令所に受信される。事故調査報告書によると運転士は度重なったミスにより、宝塚駅到着前後には既に心身的に影響があったとしている。度重なったミスを車掌が指令所に報告しないか確認するため無線に気を取られ[注 19]、伊丹駅手前の停車ボイスを聞き逃し、伊丹駅を72 mオーバーランした。
伊丹駅を1分30秒遅れで出発後、車掌を呼び出し「まけてくれへんか?」と求める。車掌の「だいぶと行っとるよ?」との返答したところで、乗客が乗務員室の仕切り窓越しに車掌にクレームを入れたため、車掌から電話を切った。車掌側の状況を知らない運転士は虚偽報告を拒否されたと思い、再度運転士は車掌と指令員の交信内容に注意を払っていた。そのためカーブの認識が遅れ、ブレーキを操作するも間に合わず脱線した。また、運転士の右手の手袋が外れており、運転席に赤鉛筆が落ちていたことから、事故直前、運転士は交信内容をメモしていたと思われる(メモは運転士用時刻表のケースに記されたと思われるが、事故の衝撃でケースが粉砕されたため内容は確認されなかった)。
報告書では、列車が事故現場のカーブを高速度で進入したのは運転士が意識的に行ったのではなく、車掌と指令員の交信に気を取られ、ブレーキ操作が大幅に遅れ、充分減速できないまま現場カーブに進入し、脱線したとしている。
JR西日本が絡んだ重大な列車事故として、1991年(平成3年)5月に発生した信楽高原鐵道での同社線内列車とJR西日本からの直通列車との正面衝突事故がある。JR西日本は信号システムを信楽高原鐵道に全く連絡せずに改変するなどの行為があったが、結局、刑事告訴はされなかった。しかし、その後、遺族側が事故原因を究明するため、1993年10月にJR西日本と信楽高原鐵道を被告とする民事裁判を提訴、1999年の大津地方裁判所判決で両社の過失が認定された。しかしJR西日本は過失責任を否定して控訴。2002年の大阪高等裁判所判決も同社の過失を認定、同社は上告を断念して判決が確定した[30]。さらに、JR西日本が補償費用の肩代わり分として約25億円の支払いを信楽高原鐡道や県、市に求めた訴訟の判決で、大阪地方裁判所は2011年4月27日、JR西日本に3割の責任があると認定した[31]。先の事故を起こした体質に対する反省や教訓が生かされぬまま、安全を軽視し、再び当該事故を招くことになったとの指摘がある[32]。
また、事故列車にJRの運転士(非番)が2人乗車していたが、運転区長の業務優先や執行役員・大阪支社長の講演会への出席の指示により救助活動を行わなかったため批判された。鉄道事故調査報告書 p.29に、乗り合わせた職員(非番)と職場との遣り取りが記載されている。
ほか、JR西日本管内のATSで制限速度の設定を誤っていた箇所が多数確認された[注 20]。
安全についての配慮は、当時のJR西日本資料において「安全」の記載が1箇所しかなく、軽視されていたとの指摘がされている。
電車が激突したマンションは、2002年(平成14年)11月下旬に建てられた。線路とマンション間の距離は6 mに満たなかった。海外メディアは事故当初この点について指摘しており、例えばフランスのTGVの走る線はほとんどが田園の中で、開業当時は集落からは250m離れている。開業当時の線路と最寄の独立家屋との距離は150mあった、としている[33]。
この事故により福知山線の尼崎駅 - 宝塚駅間で運転が休止された。また、同線を経由して運行されている特急「北近畿」「文殊」「タンゴエクスプローラー」も福知山駅以北の区間のみの運行となった。なお運休による減収は1日約3,000万円が見込まれていた。
復旧工事は2005(平成17)年5月31日から開始され、その後、同年6月7日から試運転を開始した。2006年(平成18年)3月までの暫定的な運行ダイヤを提出し、6月19日午前5時、55日ぶりの全線運転再開となった。
福知山線の運転休止期間中、福知山線沿線である兵庫県各市(三田市、宝塚市、川西市、伊丹市)周辺と阪神間を結ぶ経路において、振替輸送が実施された。事故後、福知山線利用者の多くは競合している阪急の振替輸送を利用し、事故から約1か月後の5月23日には阪急ホールディングス(現在の阪急阪神ホールディングス)が1日平均で約12万人の乗客を振替輸送していることを発表した。
仮に並行私鉄である阪急宝塚線急行または、阪急神戸線特急と、西宮北口駅で阪急今津線を乗り継ぐ利用する方法で大阪(梅田)と宝塚の間を移動する場合、所要時間そのものは福知山線の快速を利用した場合に比べて約10分多く要する程度であるが、これに乗車駅や降車駅での乗り換え・乗り継ぎに要する時間がそれぞれ加わることによって、合計で20 - 30分程度の時間が余分に必要となり、通勤・通学など利用者の大きな障害となった。
また、振替輸送を行った路線では、事故以前からの既存利用者にも列車・路線バスの車内や駅などの混雑という形で影響が及び、ゴールデンウィークが明けた5月9日からは、混雑緩和のため阪神電気鉄道や同線に至る路線などが新たに追加された。
振替輸送の他にも不通特約の切符を発行する措置もした。不通特約の切符とは、みどりの窓口の駅員が普通の切符に赤いペンで手書きで「不通特約」と書いただけの切符のことで、この切符は福知山線経由と同じ料金で山陰本線などの他の路線経由で目的地まで向かうことができる。主に尼崎駅 - 宝塚駅間をまたぐ長距離の利用客に発行された。発行された例として「東海道線・山陰本線京都駅経由の新大阪 - 福知山」「山陽本線・加古川線谷川駅経由新大阪 - 福知山」がある。
復旧工事は5月30日午前8時から始まる予定だった。しかし、周辺の住民の同意を充分に得ないまま工事が行われようとしたとして一部から抗議が寄せられたため、工事は午前9時頃から中断し、30日の工事は中止になった。30日はJR西日本の担当者が周辺の住民を戸別訪問し、了解を取る作業を続ける。住民の同意が得られたとして工事が31日午後1時から始まり、6月3日に終わった。そして、住民への戸別訪問による工事終了の説明をして完了した。
6月7日以降に行われた。7日には網干総合車両所の221系と201系による走行試験、8日には同所の207系によるATS-Pの作動試験が行われた。
6月19日に尼崎駅 - 宝塚駅間で運転が再開された。ダイヤは事故前から大きく変更されて朝ラッシュ時間帯の快速の所要時間はおよそ1分30秒伸ばされ20分になった。
当面の間、宝塚駅 - 尼崎駅間の最高速度は120 km/hから95 km/hに、事故のあったカーブの制限速度は70 km/hから60 km/hにそれぞれ引き下げられ、実際の列車走行時にはさらにそれより低い速度で運転されることも珍しくない。
尼崎駅 - 新三田駅間に拠点P方式のATS-Pが導入され、6月19日から運用を開始する。従来のATS-SWも存置されているが、速度照査用地上子が設置され、事故現場においてATS-SWでの速度照査も開始された(詳細はJR西日本の速度照査に記載)。
再開翌日の夕方、現場のカーブを通過しようとした特急「北近畿」15号が曲線の照査速度を超過したため緊急停車した。「再開翌日の事故現場」で発生した関係上、報道陣の目の前での停車となったが、ちょうど速度照査機能が正常に作動したことを証明した形となる。即日のうちに、国交省より注意を受けた。
事故を起こした列車の列車番号である「5418M」は無期限の欠番[34]となり、同時刻を走る列車は「5818M」を名乗るようになった。その後この運転系統の快速列車には5420Mから始まる番号が振られるようになり、2本増発された影響でほぼ同時刻を走る列車の列車番号は「5442M」となっている。なお、事故による欠番はこれまで鉄道業界では例がなかったが、航空業界では日本航空123便墜落事故での123便や、日本国外ではユナイテッド航空232便不時着事故での232便の例がある(同じく永久欠番)。
運転再開にあたり、事故車両の廃車に加え、ATS-Pを装備していなかった117系が福知山線から撤退。これによる車両不足を補うべく、他地区から103系や113系を借用したり、更にJR東日本から103系8両編成1本を購入して対処した。
2006年春に行われたダイヤ改正において、同社の路線全体におけるダイヤの余裕時分を増やし(例:新快速列車の三ノ宮駅 - 大阪駅間の所要時間が、現行の19分から20分に)、駅ごとの乗降数に応じて停車時間も10秒 - 1分ほど延長された。それに伴って乗務員や車両が不足するため、利用状況を見据えたダイヤの見直しを実施し、山陽本線(JR神戸線)の須磨駅 - 西明石駅間の各駅停車列車を現行の毎時8本から4本に半減させるなど、昼間時の利用率の低い区間の列車が削減された。
事故の後、乗客の一部がJR西日本の安全性、企業の姿勢に不安を感じ阪急宝塚線に流れたが、JR西日本の発表によると9割方の乗客が戻っている。ただし実数は未調査のため不明である。
ニフティニュース編集部は2019年3月に、「平成の間に国内で起きた事故の中で、印象に残っているのは?」というテーマでアンケートをとった。1位は「JR福知山線脱線事故」で、70.5 %が印象に残っていると回答した。全地域別に見ても、全年代別に見ても、男女別に見てもすべて1位であった[35]。
地上側では速度照査機能を持ち、曲線区間の手前で充分に減速、あるいは非常停止が行えるATS-Pが、車上側では運転士のマスコン・ブレーキ・警笛・EBリセットスイッチなどの無操作が約60秒続くと5秒間警報が鳴動し、さらに操作がない場合は自動的に非常ブレーキが作動するデッドマン装置の一種である緊急列車停止装置(EB装置)と、列車の異常時に操作することで、防護無線をはじめとする必要な処置を一斉に行う緊急列車防護装置(TE装置)の導入が進んだ。しかしその後、同社がEB装置設置済みの車両について、一時的にしても取り外したままにしていたり、スイッチが切れていたりする状態で、福知山線や片町線、山陰本線、大糸線、湖西線、東海道本線、草津線などで運行していたことが判明している[36][37][38]。また、現場付近のカーブは70km/h制限から60km/h制限に引き下げられた。なお、脱線防止ガードは設置されていない。
事故車両は兵庫県警察に押収され、姫路市に保管されていたが[39]、公判で証拠として使用することがなくなったとして、2011年(平成23年)2月1日付けでJR西日本に返還された[40]。JR西日本は2018年(平成30年)11月17日、事故の風化防止および社員教育活用のため事故当該の車両を保存する意向を明らかにした[41]。JR西日本は、吹田市にある社員研修センターの敷地内に設けられている鉄道安全考動館を拡張して、事故の全ての車両を保管する施設を整備することを予定しており、2025年以降の完成を目指して2023年中に着工の予定である[42][43][44]。
JR西日本は電車が激突したマンションを買い取り、慰霊碑を建てることを検討していると発表した。しかし、マンションの住民のうち買い取りを望んでいない住民もいて、住民内でも意見が分かれていた。2006年(平成18年)春までに解決する予定とのことだったが、10年が経過しても現場マンションは取り壊されていなかった。そして2016年7月より、マンションの4階までを階段状に残し、衝突跡が残る部分などを慰霊施設として保存する工事が開始された[45]。
JR西日本は2007年(平成19年)10月に現場の線路脇に残る脱線の痕跡の上に砂とコンクリートを敷設して作業用の通路としたが、翌年現場を訪れた遺族がJR西日本に抗議した。同年12月5日に行われたJR西日本の掘り起こし作業により痕跡が残っていることが判明し、JR西日本は翌6日に保存を決めた[46]。
完成した慰霊施設「祈りの杜 福知山線列車事故現場」は2018年9月14 - 20日にまず遺族と負傷者を受け入れ、同月21日から一般公開された[47]。2019年4月25日、事故現場では初めて慰霊式が行われた[48]。しかし、事故発生から15年目となる翌2020年、その次年(16年目)2021年は新型コロナウイルス感染症流行の影響を受け、2年連続で慰霊式は中止となった[49][50][51]。また、例年は脱線事故が発生した日時とほぼ同時刻に現場を通過する尼崎駅方面へ向かう快速電車が慰霊の警笛(ミュージックホーンの電源をOFFにした状態で、必ずタイフォンを長く鳴らす)を鳴らしていたが、新型コロナウイルス緊急事態宣言発令中の2020年は遺族らが静かに追悼できる環境を保つため、行わなかった[50]。
そして(2023年現在)事故に巻き込まれたマンションは、マンションの上層部を解体し現在は祈りの杜となっている。
運休が2か月近くに及んだため、駅周辺の商店街の利用者が激減し、営業時間の短縮・休業により商店街への売り上げの影響を受けた。福知山線の駅周辺の商店街が経営難に陥り、閉店する恐れがあると懸念されていると報道された。
この事故で復旧するまでの間、JRと阪急の駅で、客足が大きく変化している。伊丹市の玄関口は阪急伊丹駅だが、かつての震災で全壊したことを機に、客足がJRの伊丹駅に移っていった経緯がある。ところが、事故後にJRが不通になると、阪急伊丹駅の乗降客数は震災前に記録された最多時期を超えて増え、事故前の乗客数 23,000人に対し、事故後は 47,000人と阪急にシフトした。
その結果、駅ビルのおよそ 1,200台収容できる地下駐輪所はすぐに埋まり、自転車放置禁止の場所にまで駐輪する者まで出る始末だったのに比して、JR伊丹駅周辺の約 2,000台収容できる駐輪所はガラガラの状態だった。
JR伊丹駅隣接のダイヤモンドシティ・テラス(現在のイオンモール伊丹)も、JRを利用して訪れる客が約2割ほどと見込まれていたが、事故後は1割ほど減っている。
被害があまりにも甚大だったため、経営陣の引責辞任は不可避であると見られていたが、後継人事は難航した。結局、2006年(平成18年)2月1日付で南谷昌二郎会長と垣内剛社長は退任し、事故後就任した山崎正夫副社長が社長に昇格、外部の住友電工から会長として倉内憲孝を迎えることになった。なお、国鉄民営化の立役者としてJR西日本への影響力が強かった井手正敬相談役もその職を辞した。なおその後井手は交通道徳協会などの道徳を説く旧国鉄系団体の役員に就任している(現在は退任)。
2009年(平成21年)7月8日、神戸地方検察庁は当時の安全担当役員だった山崎社長を業務上過失致死傷罪で在宅起訴した。これを受けて山崎社長は辞任し、後任として佐々木隆之副会長が社長に就任することとなった。
2009年(平成21年)7月23日、JR西日本は山崎前社長の在宅起訴を受け、同社長のほか事故当時の会長であった南谷昌二郎、社長であった垣内剛両顧問のほか、幹部ら29人の処分(報酬減額など)を発表した。会見した真鍋精志副社長は「事故を組織的、構造的課題と認識しており、経営を担ってきた者に重い責任がある」とし、「会社全体の責任としてとらえなければならない」として、歴代の社長のほか事故当時の執行役員、現在の役員も処分の対象に加えたと説明した。
2012年(平成24年)3月8日、JR西日本は事故の列車に乗務していた当時の車掌について、乗客の救護を怠ったことや他の列車に事故発生を知らせなかったことなどを理由に、出勤停止7日間の処分とした。この車掌は事故後、病気を理由に休職していたため処分が見送られており、その後復職したことを受けての処分となった[52]。同社の産業医は、車掌を乗務可能と判断したが、会社が拒否した問題が報じられている。同社では、産業医による安全委員会がほとんど開かれていなかった問題も指摘されている。
JR西日本は関西財界の有力企業であるが、事故直後、南谷昌二郎会長が関西経済連合会副会長を退き、垣内剛社長は関西経済同友会代表幹事の内定を辞退した。その後も10年以上、同社役員は財界で目立った役職に就くのを避け、活動を自粛した。2017年に真鍋精志会長が関経連副会長に就任した際も当初は要請を固辞したとされる[53]。
最高裁判所判例 | |
---|---|
事件名 | 業務上過失致死傷被告事件 |
事件番号 | 平成27(あ)741 |
2017年(平成29年)6月12日 | |
判例集 | 刑集第71巻5号315頁 |
裁判要旨 | |
快速列車の運転士が制限速度を大幅に超過し,転覆限界速度をも超える速度で同列車を曲線(本件曲線)に進入させたことにより同列車が脱線転覆し,多数の乗客が死傷した鉄道事故について,同事故以前の法令上,曲線に自動列車停止装置(ATS)を整備することは義務付けられておらず,大半の鉄道事業者は曲線にATSを整備していなかったこと,同列車を運行する鉄道会社の歴代社長らが,管内に2000か所以上も存在する同種曲線の中から,特に本件曲線を脱線転覆事故発生の危険性が高い曲線として認識できたとは認められないこと等の本件事実関係の下では,歴代社長らにおいて,ATS整備の主管部門を統括する鉄道本部長に対しATSを本件曲線に整備するよう指示すべき業務上の注意義務があったとはいえない。 | |
第二小法廷 | |
裁判長 | 山本庸幸 |
陪席裁判官 | 小貫芳信、鬼丸かおる、菅野博之 |
意見 | |
多数意見 | 全員一致 |
参照法条 | |
刑法(平成18年法律第36号による改正前のもの)211条1項前段 |
2009年(平成21年)7月8日、神戸地方検察庁は、当時の安全担当役員だった山崎社長を業務上過失致死傷罪で在宅起訴した。起訴理由は、山崎社長が福知山線のJR東西線への乗り入れの線形改良工事の前年に函館本線で発生した日本貨物鉄道の脱線事故を受け、この事故が起きた地点の線形に注目し、当該区間にATS-Pを設置すれば事故が防げる趣旨の発言から、福知山線の線路付替の危険性を認識していたことを理由としている。
なお、山崎社長の上司役員は山崎社長から報告を受けていなかったとして、当時の社長を含めて関係する役員を不起訴処分とし、当時の事故車両の運転士も当人が死亡により同様に不起訴処分としている。しかし2009年(平成21年)10月22日、神戸第一検察審査会は不起訴となったJR西日本の歴代社長3人(井手正敬、南谷昌二郎、垣内剛)について「起訴相当」と議決したことを公表した。
2009年(平成21年)12月4日、神戸地検は上記3人についてふたたび不起訴処分としたが、検察審査会はその後、自動的に再審査を開始[54]。2010年(平成22年)3月26日、神戸第一検察審査会が再び起訴相当と議決したため、強制起訴されることとなった[55]。
2010年(平成22年)4月23日、裁判所の指定する弁護士が、検察官に代わってJR西日本の歴代社長3名を起訴し、公判が始まった。
2012年(平成24年)1月11日、神戸地裁(岡田信裁判長)はJR西日本の山崎前社長に対し「危険性を認識していたとは認められない」などとして無罪判決を言い渡した[56]。検察側は控訴せず、無罪が確定した。
2013年(平成25年)9月27日、神戸地裁(宮崎英一裁判長)はJR西日本の歴代社長3名に対し、無罪判決を言い渡した。指定弁護士は控訴。
2015年(平成27年)3月27日、大阪高裁(横田信之裁判長)は歴代社長3名について、指定弁護士による控訴を棄却[57]。指定弁護士は上告。
2017年(平成29年)6月13日、最高裁第2小法廷は指定弁護士側の上告を棄却。これによりJR西日本の歴代3社長の無罪が確定した[58]。
2009年(平成21年)9月25日、事故当時鉄道本部長だった山崎正夫前社長が、先輩である当時の事故調査委員の1人であった山口浩一元委員に対し、鉄道模型などの手土産持参で接待し、事故の調査報告を有利にするための工作と情報漏洩が発覚した。結果的には、事故調査報告書に反映されなかったが、幹部が事前に内容を知っていたという事実が明らかとなった[59]。
翌9月26日、今度は幹部のJR西日本東京本部の鈴木善也副本部長が、先輩である航空・鉄道事故調査委員会の鉄道部会長だった佐藤泰生元委員に接触を図ったことが発覚。土屋隆一郎副社長(事故対応担当審議室室長兼任)から指示を受けて接触し、「中間報告書の解説や日程を教えてもらった」と説明。会社ぐるみで事故調の委員に接触を図っていた実態が判明した。鈴木副本部長は「情報を早く入手し、安全対策に貢献したかった。軽率で不適切だった」と謝罪した。ただし「昔からの付き合い。会社ぐるみとは思っていない」と釈明もした[60]。
この2つの報告書漏洩を受け、JR西日本は山崎取締役と土屋副社長の辞任を発表した[61]。
報道では、事故が起こった路線名の表記が分かれた。朝日新聞、神戸新聞、サンテレビは、東海道本線大阪駅 - 尼崎駅間と福知山線尼崎駅 - 篠山口駅間の愛称である「JR宝塚線」を使用しているが、それ以外のマスメディアでは正式名称の「福知山線」を使用している。
在阪テレビ局の社員も通勤中に事故に巻き込まれ、死亡あるいは負傷した者がいた[62][注 21]。
テレビ各局は事故発生後40分前後から画面上へのテロップによる速報を流し始めた。その後、午前10時前にNHK総合が臨時ニュースを編成したあたりから、通常放送を中止して報道特別番組に切り替える動きが出始め、午前10時30分の時点で、NHKおよび民放各局が放送中の通常番組を打ち切ったり内容を変更したりして、列車事故に関するニュースを(おおむね午後6時台のワイドニュース終了時まで)報じた。
NHK総合では、事故を起こした電車に乗り合わせていた神戸放送局の小山正人チーフアナウンサーの第一報に基づき、午前9時43分08秒に速報テロップを送出。その後、『生活ほっとモーニング』を中断して[63]、午前9時46分から11時54分まで特設ニュースを放送した[64]。また、正午のNHKニュース[65]のあとも、朝の連続テレビ小説『ファイト』の再放送を除き、午後6時15分までJR西日本の記者会見や、専門家の見方なども含めて、特設ニュースを放送した[66][67][68]。さらに『NHKニュース7』を午後8時15分(45分延長)まで[69]、『NHKニュース10』を午後11時10分(15分延長)まで延長して[70]、この事故を伝えた[71]。
日本テレビ系の『ザ!情報ツウ』ではNHKでの報道開始とほぼ同じタイミングで事故の一報を報じ、10時前後より事故現場上空のヘリコプター空撮映像を交えて繰り返し報じたり、子画面に中継映像を出したりながら通常放送が行われた。
一部の在阪民放局では午後7時以降も通常番組を中止し、報道特別番組を編成したほか、事故発生翌日以降も関連ニュースを特別番組などとして伝え続けた。
事故直後の報道機関は、事故当日にJR西日本社員が「第1種A体制」を優先せず懇親行事を取りやめずに開催していたことが分かり、当時のJR西日本の体質を安全軽視であると批判した。また関西本線・王寺駅では駅員を盗撮するメディアも現れたほか、懇親行事を行った京都府内のレクリエーション施設の係員に対しても「なぜやめさせないのか」と質問し報道する事例もあった[要出典]。このほか、読売新聞大阪本社の記者がJRの記者会見会場で度を過ぎた詰問調の質問(暴言)を浴びせたとされる事例もあり、のちに同社は謝罪した[72]。
ただちに危険につながるものではない(数m程度の)オーバーランは従来より全国各地で日常的に一定割合で発生しているが、この事故を契機に小規模なインシデント(事故を引き起こす危険性が高い事態だったが、実際には事故にならなかった案件)が連日取り上げられて報道されるようになった。2010年(平成22年)には、同様に全国で発生しているATSの作動による急ブレーキ作動の事案について、JR西日本がこれを公表していないとして多くの報道機関に報道されたが、この中では遺族に取材して「あきれました」などといったコメントを流す事例もあり、報道に対する批判が殺到した。なお、ATSの作動による緊急停止の事案をすべて公表している鉄道会社はほかになく、公表の是非そのものに関しての考察は報道されなかった。
さらに事故当時、一部の報道機関が取材ヘリコプターを現場に飛ばし、要救助者の声や生体反応をローター音で遮ってしまい救出活動を妨げたとされる。これは新潟県中越地震でも問題になっていた直後であるほか、昼夜問わず取材ヘリを飛ばしたため近隣住民の迷惑ともなったとされ、インターネットコミュニティ上で報道機関に対する批判が出た。
また、321系の営業運転開始前後に207系の配色変更が行われたこと[73]や、321系で採用された「0.5Mシステム」が、当事故の影響で
脱線事故を受け、社内運動部であるJR西日本硬式野球部はすぐに活動自粛を発表、7月には日本野球連盟に休部届を提出して活動休止となり、毎年行われていたJRグループの対抗戦も中止となった。その後、8年間の休部状態を経て、2013年(平成25年)に活動を再開し、現在に至る。
この事故は日本国外でも大きな反響を呼び、各国の報道機関が報道したほか、フランスのジャック・シラク大統領、ドイツのヨシュカ・フィッシャー外務大臣、アメリカ合衆国のコンドリーザ・ライス国務長官、王毅・駐日中華人民共和国特命全権大使、潘基文・大韓民国外交通商部長官も、日本国政府に弔意を表明した。
福知山線脱線事故を受け、国土交通省では鉄道の安全性を向上させるため、鉄道に関する技術上の基準を定める省令の改正を行い、2006年(平成18年)3月24日に公布、同年7月1日に施行した[75][76]。
事故発生後、これに関連・便乗した事件が発生した。以下はその一部である。
急カーブを含む類似事故を以下に記す。
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