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マイク・ソーシア
アメリカの野球選手、監督 (1958 - ) ウィキペディアから
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マイケル・ローリ・ソーシア(Michael Lorri Scioscia[注釈 1]、1958年11月27日 - )は、アメリカ合衆国・ペンシルベニア州デラウェア郡アッパー・ダービー出身の元プロ野球選手(捕手)、監督。右投左打。愛称はソーシュ/Sosh[2]。
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経歴
要約
視点
1976年のMLBドラフトでロサンゼルス・ドジャースから1巡目(全体19位)で指名され、入団。
1980年4月20日にメジャーデビューを果たした。
1992年までドジャース一筋にプレイ。50日間に及ぶストライキでシーズンが短縮された1981年には93試合に出場。この年のワールドシリーズではベテランのスティーブ・イェーガーに正捕手の座を譲るが、2連敗で迎えた第3戦では4回からイェーガーに代わりマスクをかぶり、それまで4失点と乱調だったフェルナンド・バレンズエラを立ち直らせ完投勝ちに導き、シリーズの流れを変える役割を果たした。
1982年にも129試合に出場し、おおむね正捕手の座を射止めた。
1983年は故障(回旋筋断裂)のため、わずか12試合の出場に終わる。
1984年には114試合出場した。
1985年には141試合に出場して自己最高の打率.296を記録し、チームの地区優勝に貢献。恵まれた体格でブロック力に優れ、リードも優秀であった。
キャリアのハイライトと言えるシーンは1988年のチャンピオンシップシリーズ第4戦であった。地区優勝し、ワールドシリーズ出場をかけてニューヨーク・メッツと対戦。シリーズは戦前からメッツ有利の予想で、第3戦を終わってドジャースは1勝2敗とリードを許していた。第4戦はメッツのエース、ドワイト・グッデンが初回2点を許したものも、2回から8回まで追加点を許さず、メッツは4回に3点を奪い逆転。さらに6回にも1点を追加し、8回を終わって2-4となった。しかし、最終回ドジャースの攻撃で、一塁に四球の走者ジョン・シェルビーを置いて、打席に入ったソーシアがグッデンから起死回生の同点2ラン本塁打をライトスタンドに放つ。ソーシアのこのシーズンの本塁打はわずか3本で、対するグッデンはそのシーズン248回1/3を投げて被本塁打8、9イニング平均0.29本と正味3試合完投で1本弱しか打たれていなかった。この試合は延長12回、ドジャースが制し、その勢いで第5戦も勝って3勝2敗とする。第6戦に敗れるが最終第7戦でオーレル・ハーシュハイザーの力投で勝ち、ワールドシリーズ出場を果たした。オークランド・アスレチックスとのワールドシリーズも4勝1敗で勝ち、自身2度目だが、正捕手としては初とも言えるワールドシリーズ制覇を成し遂げた。
1989年は初の2桁となる10本塁打、1990年には自己最多の12本塁打を記録し、2年連続オールスター出場を果たし、日米野球で来日した。しかし、1991年に回旋筋断裂の致命傷を負う。
引退後、ドジャースでコーチやマイナー監督を務め、1997年・1998年にはベンチコーチ[3] を務める。2000年よりアナハイム・エンゼルス(2016年よりロサンゼルス・エンゼルス)の監督を務める。2002年にはワイルドカードでプレイオフ進出を果たすと、球団史上初のリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでもサンフランシスコ・ジャイアンツを下し、ワールドシリーズ優勝を果たした。
2009年1月に、エンゼルスと2018年までの契約延長を発表。60歳を迎える年までチームの指揮を執ることになった。
2018年に監督を退任した。
2021年4月6日に東京オリンピック野球競技アメリカ大陸予選及び本大会でアメリカ合衆国代表監督を務めることが決定し[4]、8月7日の決勝戦で銀メダルを獲得[5]。試合後、監督業から退く意向を表明した[6]。
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人物
選手・監督の両方でワールドシリーズ優勝を経験したのは、メジャー史上17人目。(他に12人が選手兼任監督として両方を同時に経験している。)
ノーヒット・ノーランの捕手を2度務めた。1回目は1990年6月29日のバレンズエラ(セントルイス・カージナルス戦)。2回目は1992年8月17日のケビン・グロス(ジャイアンツ戦)。
1990年のオールスターでは、ドジャースの捕手としてはロイ・キャンパネラ以来となる先発出場を果たす。
監督として通算900勝は、チーム初代監督のビル・リグニーを抜きエンゼルス史上最多の白星である。
監督としては数少ないバイリンガルの一人で、英語の他にスペイン語を話し、ラテンアメリカ出身選手とのコミュニケーションに苦労しない。また、送りバントや盗塁も多用するいわゆるスモールベースボールを好む。
2002年のワールドシリーズで対戦したジャイアンツの監督ダスティ・ベイカーはドジャース時代のチームメイト。
現役時代は主に背番号「14」を着けていたが、監督としてもこの番号を着けている。
2011年のMLBドラフトで息子のマットがエンゼルスから45巡目で指名され入団した。
1986年のキャンプで行われた紅白戦にて、前年に読売ジャイアンツを任意引退して打撃投手としてキャンプに参加していた定岡正二とバッテリーを組んだ経験がある[7]。
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詳細情報
要約
視点
通算成績(選手)
年度別成績
太字はプレーオフ進出(ワイルドカードを含む)。
- 2018年度シーズン終了時
表彰
記録
背番号
- 14(1980年 - 1992年、1997年 - 1998年、2000年 - 2018年)
脚注
外部リンク
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