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ミス仙台

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ミス仙台(ミスせんだい)は、宮城県仙台市新民謡ご当地ソング)として、1936年昭和11年)に西條八十が作詞し、古関裕而が作曲した流行歌。通称「仙台小唄」。

概要 「ミス仙台」, 二葉あき子 の シングル ...
概要 「ミス仙台」, 二葉あき子 の シングル ...
概要 「ミス仙台」, (二代目)コロムビア・ローズ の シングル ...
概要 「ミス仙台」, 島倉千代子 の シングル ...

歌い出しの「森の都の花乙女」により、仙台の雅称「杜の都」を世に広めた。

仙台において二葉あき子(当時21歳)の歌唱でヒットし、戦中・戦後は青春の歌として会合や酒宴で出席者が一緒に歌う愛唱歌となった。高度経済成長期には支店経済都市となった仙台に異動してきた転勤族らにも(二代目)コロムビア・ローズ(当時18歳)の歌唱で親しまれた。安定成長期に入ると島倉千代子(当時36歳)の歌唱で「七夕おどり」と共に盆踊り曲としても浸透した。誕生から約80年が経ち、歌詞に描かれた仙台と現在の仙台との間にズレが生じているが、仙台七夕BGMの定番として今も親しまれている。

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概要

要約
視点

1930年代半ば当時の仙台四季の様子を織り交ぜながら、の思い出を表現した新民謡流行歌であり、歌詞は七五調(繰り返される「仙臺、仙臺、なつかしや」は八・五で字余り)、曲は4分の4拍子変ロ長調ヨナ抜き音階日本民謡長調でみられる五音音階)で作られている。

1936年昭和11年)、二葉あき子(当時21歳)の歌唱で初めて発売。当時のシングル電気録音シェラック製の78回転SPレコードデファクトスタンダードになっていたため、『ミス仙台』は10インチSPレコードの片面のほぼ最大録音時間である3分30秒[1]の演奏時間だった。伴奏では、1小節に8つの8分音符のうち、表打ちとなる4つの下拍(ダウンビート)には単音のベースライン、裏打ちとなる4つの上拍(アップビート)には和音が配され、軽快なリズムとなっている。また、間奏でのソロ助奏管楽器になっている。

二葉はデビューしてからヒット曲に恵まれないまま、17作目に『ミス仙台』を発売した。そんな無名歌手の曲ながら、『ミス仙台』は仙台市や宮城県でヒットした[※ 10]。そのため、『ミス仙台』の曲をそのままに、西條が新たに作詞した「乙女十九」が作られ、やや速いテンポで二葉が歌い(演奏時間:3分22秒[6])、『ミス仙台』の発売から半年後の1937年(昭和12年)1月に発売された。これが二葉にとって初の全国ヒットとなった[※ 11]。なお、『ミス仙台』の替え歌の「水府望郷歌」(水戸小唄)が、(旧制)水戸高等学校時代から茨城大学で歌い継がれている。

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争が始まると、レコードの原料のシェラックが不足するようになり、『ミス仙台』は1943年(昭和18年)3月に廃盤となった。また、戒厳下の東京で制作され、検閲(参照)も受けて発売された『ミス仙台』だったが、敵性語が含まれていたため、戦時中から戦後占領期までは「仙台小唄」との通称でも呼ばれたとされる。しかし占領期も終わりに近付き、原盤を用いて1951年(昭和26年)1月に『ミス仙台』が再び発売されると、通称は廃れた。

高度経済成長期の1962年(昭和37年)11月には(二代目)コロムビア・ローズ(当時18歳)が、オイルショックによる狂乱物価最中の1974年(昭和49年)7月には島倉千代子(当時36歳)が『ミス仙台』をカバーして発売した。島倉のバージョンでは、二葉のオリジナルと比べてテンポが遅く、歌い方もこぶしを多用する演歌風になっている。また、伴奏では裏打ちとなる4つの上拍(アップビート)が強調されず、間奏でのソロや助奏も木琴に替わっている。なお、当時のシングルはビニール製の45回転ドーナツ盤(片面の最大録音時間は5分〜8分)がデファクトスタンダードになっていたため、演奏時間が3分46秒[5]の島倉のバージョンでも収録可能だった(2004年3月31日発売の島倉の全集CDにおける演奏時間は3分54秒[7])。

その後、1979年(昭和54年)にすがいかよ、2005年平成17年)に美波京子、2013年(平成25年)に綾華といった地元にゆかりがある歌手がカバーしている。

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ご当地ソング

要約
視点

『ミス仙台』は流行歌の一分野である新民謡、すなわち現在で言うご当地ソングであるが、後に「さんさ時雨と並ぶご当地ソング」とも言われるほど広く受け入れられた。地元でのヒットの過程には、当時の最先端のマスメディアであり、宮城県では1928年(昭和3年)に放送が始まったラジオの影響はあまりなかったとされる。

市民や県民は『ミス仙台』を、手にしたレコードや楽器店から街に流れる音色を聴いて親しんだり、新聞広告[※ 12]に見られるように合唱で親しんだりしたようである。仙台市出身や宮城県出身ではない者が少なからずおり、数年しか仙台に住まないような芸者学生旧制二高東北帝国大学等)もみんな歌えた[8]とのことであり、酒宴で歌われることも多かったと見られる。

二葉あき子の1936年(昭和11年)の初版B面は「躍進宮城」という新民謡だったが、戦後の1951年(昭和26年)の再発盤B面は、多人数で歌うことを前提とした音頭という形式の歌「宮城音頭」となった。すなわち『ミス仙台』は、当初考えられた鑑賞や合唱から、会合や酒宴で出席者が一緒に歌う曲へと既に変化していると発売元も認識していたと考えられる。1962年(昭和37年)にも(二代目)コロムビア・ローズが歌う『ミス仙台』が発売されるが、B面は二葉の再発盤と同様に「宮城音頭」だった。レコードプレーヤーが一般家庭にも広まった高度経済成長期、支店経済都市となった仙台で勤務した転勤族らにより、仙台のご当地ソングとして『ミス仙台』は全国に広められた[9]

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同1962年(昭和37年)、仙台七夕祭り協賛会、河北新報社(仙台市)、東北放送(仙台市)が協賛した「七夕おどり」が島倉千代子の歌唱で発売された。同シングルの歌詞カードにはA面用の振付のほか、B面用にフォーク・ダンス振付が載っていた。同曲は仙台七夕に因むご当地ソングとして急速に地元で普及するが、その一方で盆踊りの曲としても地元で広く使用された。1974年(昭和49年)、島倉が歌う『ミス仙台』(B面:七夕おどり)が発売されるが、歌詞カードには『ミス仙台』の振付が写真入りで説明されていた。このような歌と踊りをセットにしたプロモーションによって、島倉が歌う『ミス仙台』は「七夕おどり」とともに、昭和40年代から急速に拡大した郊外住宅地(ベッドタウン[10]などで新住民同士の交流のため盛んに行われた、地域の夏祭りにおける盆踊り用の曲として改めて浸透していった[11]。以上のような町内会小学校学区ごとに網羅的に行われた夏の体験により、市民・県民は『ミス仙台』を島倉の曲だと認識するように変化した。

1978年(昭和53年)5月5日さとう宗幸が歌う「青葉城恋唄」が発売されるが、6月12日宮城県沖地震が発生すると、被災地に住むさとうの同曲は注目を集め、全国的なミリオンヒットとなった。これ以降、仙台のご当地ソングの地位は、『ミス仙台』(新民謡/演歌)から「青葉城恋唄」(フォークソング)に取って代わられてしまった。また、協賛会や地元有力マスメディアが推す「七夕おどり」が、仙台七夕を象徴する曲として定着した。さらに、歌詞の内容が現代の仙台とズレがあって分かり辛いこと、会合や酒宴で出席者が一緒にご当地ソングを歌う習慣の衰退、少子化に伴う地域の夏祭りの衰退なども重なり、地元でも『ミス仙台』を知らない人が多くなった。それでも島倉のシングルのB面「七夕おどり」とともに、仙台七夕のイメージが付いたため、現在でも仙台七夕まつりにおけるBGMの定番ソングの1つとして、期間中は街のあちこちで(主に島倉の)『ミス仙台』を耳にすることが出来る。

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年表

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西條八十(作詞)
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古関裕而(作曲)
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二葉あき子(オリジナル盤歌唱)
概要 画像外部リンク ...
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島倉千代子(1974年盤歌唱)
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「ミス○○」

英語において、未婚女性の姓に冠する敬称 Miss(ミス)は、ミス・アメリカ1921年開始)のように地名・職業名・年号などに冠するとミスコンテスト(美人コンクール)の優勝者の意味にもなる。しかし、昭和初期の日本では、ミスコンテストとは関係なく、レーベル名にミスを冠した歌手や地名にミスを冠した新民謡(流行歌)があった。

1931年(昭和6年)、日本で録音された最初のラテン音楽南京豆売り」(ビクター)が発売されるが、同曲は覆面歌手の鉄仮面こと作間毅が歌った。1932年(昭和7年)になると、覆面歌手の金色仮面(ゴールデン・マスク)こと小林千代子が「ミス東京」(ビクター)を発売し、大和屋花一は「ミス南地」(コロムビア)を発売した。ビクターの覆面歌手が大いに注目され人気を博したことから、コロムビアも1933年(昭和8年)に覆面歌手のミス・コロムビアこと松原操を、タイヘイレコード1935年(昭和10年)に覆面歌手のミス・タイヘイこと奥田英子をデビューさせた。1936年(昭和11年)春にコロムビア専属となった二葉あき子は、同年『ミス仙台』、翌1937年(昭和12年)には「ミス東北」[※ 15]と「ミス秋田」(いずれもコロムビア)を発売している。

一方、仙台市の(特に仙台七夕まつりの)観光振興のための親善大使を、仙台商工会議所が公募してミスコンテストのような形式で選出してきた。戦後占領期が終わった1953年(昭和28年)から20年間は、「ミス織姫」「ミス七夕」「ミス観光」といった名称で未婚女性が選出された。オイルショックを機に中断されていたが、仙台市が政令指定都市移行に向けて動き出した1986年(昭和61年)に「ミス仙台」との名称で復活した。ジェンダーフリー等を意識して、2004年(平成16年)からは「せんだい・杜の都親善大使[21]」との名称になり、応募資格に婚姻歴制限や性別制限が無くなった。

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歌詞に描かれた仙台

要約
視点
森の都 / 杜の都
2008年(平成20年)時点で見つかっている文献によれば、仙台を「の都」と初めて記したのが1909年(明治42年)[12]、「の都」と初めて記したのが1916年(大正5年)であり[12]、当初はどちらで表記しても良かった。
『ミス仙台』の歌詞カードでは、1936年(昭和11年)発売の二葉あき子のシングル、1962年(昭和37年)発売の(二代目)コロムビア・ローズのシングル、1974年(昭和49年)発売の島倉千代子のシングルにおいて「の都」の方を使用している[17][3][5]
の都」は、1970年(昭和45年)に仙台市が公文書において表記統一し、1978年(昭和53年)にさとう宗幸が歌ったヒット曲「青葉城恋唄」の歌詞カードで用いられたことで広く普及した。そのため現在では、『ミス仙台』の歌詞も「の都」と表記される場合がある。
さらに見る 1935年(昭和10年)国勢調査人口, 最新推計人口 ...
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1927年(昭和2年)頃の仙臺市および近郊地図仙台市電の環状線、芭蕉の辻線、および、荒町まで敷いた長町線が実線で図示されている。その他の計画路線は点線で表されている。なお、建設中の仙山東線も実線で図示されている。
月に棹さす廣瀬川
穏やかな水面に映る月に、船頭が棹を差して小船(あるいは)を操る姿を表現している。
名取川水系の広瀬川では上流域で切り出した燃料用の木材を流して、仙台市中心部に近い中流域で陸揚げする流木を、江戸時代には仙台藩の管轄下で、明治維新後は民間企業が行っており、広瀬川上流域からの流木は大橋東詰付近(現・西公園[※ 16]で、名取川上流域からのそれは木流堀を経由して広瀬川の宮沢橋西詰付近[※ 17]で陸揚げしていたが、大正期より大口需要先である公的機関(第2師団・役所・学校など)がから石炭亜炭仙台市の亜炭)へとエネルギー革命を実施したため、『ミス仙台』が創作された昭和10年代に終焉を迎えている[23]。また渡し船も当時、名取川中下流域の鈎取中田閖上などでは見られたが、仙台市中心部周辺では架橋が進んだため既に廃れていた[24]
一方、牛越橋から広瀬橋までの両岸には当時、旧・仙台藩家臣の屋敷跡等を利用した料亭偕行社・公園・学校が多数あったため、その客らが舟遊びをした様子を表現した可能性がある。奥山無門の「第二師団遠望の図」(1917年(大正6年)頃)には、大橋付近にて、船頭が棹を差して進めている船(6人程度乗船)が2艘描かれている[23]
なお、新拾遺和歌集藤原隆信和歌「明けぬとや 釣する舟も 出ぬらん 月に棹さす しほがまのうら」がある。
夏の祭は七夕
江戸時代の仙台の七夕は、(旧暦)7月6日[※ 18]夕方に七夕を飾り、翌(旧暦)7月7日朝に広瀬川などでその飾りを流す(七夕流し)[※ 19]という形で定着していた[25]
明治改暦後も旧暦で行われたが、七夕流しの風習は廃れ、その一方で肴町(魚問屋の集積地)や遊廓[※ 20]で仕掛け物や豪華な七夕飾りが生まれた[25]1910年(明治43年)以降は、新暦月遅れ8月6日7日)で行われるようになった[25]
1926年(大正15年)8月6日、市中心部に位置する各商店街が協力して、不景気[※ 21]を払拭しようと「七夕祭連合大売出し」を開催したところ、道を埋め尽くすほどの人出が見られ大盛況となった[25]。これが「商店街七夕」の端緒であり、翌年も同様な形で開催された。そして1928年(昭和3年)、東北産業博覧会の関連行事として「第1回全市七夕飾りコンクール」が行われると七夕飾りはさらに豪華絢爛となった[25]。仙台を代表する祭は、江戸時代には仙台東照宮の祭礼「仙台祭」、明治・大正期には青葉神社の祭礼「青葉祭」や年末年始の「歳の市」等だったが、飾り付けの豪華さも人出も年々上昇していった「仙台七夕」が『ミス仙台』が創作された1936年(昭和11年)頃までにはその地位に上り詰めていた[25]
しかし、1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件を発端として支那事変日中戦争)が進行すると、同年を最後に仙台七夕は行われなくなった[26]終戦翌年の1946年(昭和21年)8月6日・7日、小規模ながら仙台七夕は復活開催された[26]。翌1947年(昭和22年)、昭和天皇の東北巡幸に合わせて8月5日から3日間の日程で開催された。このとき市内には5000本の竹飾りが飾られ、戦前には見られなかった大きな薬玉も登場するなど、量と質で大きな変化を見せた[26]1954年(昭和29年)以降は現在のように8月6日・7日・8日の3日間の日程で開催され、全国から観光客が集まる「観光七夕」として発展している[26]
ネオン色めく一番町 三味の音いろも泣きぬれて
さらに見る 業種, 軒数 ...
江戸時代の仙台城城下町の中心地は、仙台城(青葉城)大手門から城下町を通って塩竈松島石巻三陸海岸へと続く東西道(塩竈街道/石巻街道/金華山街道/気仙道)と、江戸(現・東京)から蝦夷地(現・北海道)までを結ぶ南北道(奥州街道)とが交差する芭蕉の辻である。芭蕉の辻を構成する町丁は、東と西が大町4丁目、北が国分町[※ 23]、南が南町である。
1887年(明治20年)、日本鉄道(現・JR東日本東北本線)が仙台区(現・仙台市)まで開通すると、芭蕉の辻と仙台駅との間にある大町5丁目(現・マーブルロードおおまち)、新伝馬町(現・クリスロード)、名掛丁(現・ハピナ名掛丁)が繁華街商店街)化していった(3町丁を合わせて現・中央通り[28]
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1926年(大正15年)開業の仙台市電の1号車(保存車両)
奥州街道(国分町[※ 23]および南町)の東側を並走する東一番丁(現・一番町)は、明治期に侍町から商業地へと変化し始め、勧工場活動写真館劇場飲食店などの集積が進んで歓楽街(盛り場)となった[28]。しかし、大正末期に開業した仙台市電の電停が東一番丁付近に設置されたことや、東一番丁の南部に藤崎百貨店が1932年(昭和7年)に、北部に三越百貨店仙台支店がその翌年に開業したことにより、国分町[※ 23]および南町に取って代わって市内随一の繁華街(商店街)へと成長していった[28]。すなわち、『ミス仙台』が創作された1936年(昭和11年)当時の東一番丁(現・一番町)は、歓楽街(盛り場)から繁華街(商店街)への転換期にあたる[28]。当時の東一番丁は、1930年代に一般商店等でも使われるようになったとは言え、元々カフェーの装飾用だったネオンサイン[27]に彩られ、西から接続する虎屋横丁には料亭や芸者置き場もあって[29]三味線の音色もありふれていた。
さらに見る 順, 積雪量 ...
雪に埋もるる北の
仙台管区気象台における「月最深積雪」を見ると、1936年(昭和11年)1月26日に33cm2月9日に41cmを観測しており[30]、その年の6月に『ミス仙台』が創作されている。因みに、4年前の1932年(昭和7年)2月26日に37cm、前年の1935年(昭和10年)1月1日に34cmと、『ミス仙台』が創作される前の1930年代に上位がきている[30]
なお、現在の仙台管区気象台の「積雪の深さ最大」の平年値1981年2010年の30年平均値)は、10日分を積算したごとの値でも2月上旬の8cmが最大である[31]
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榴岡公園八重紅枝垂
(2010年4月25日撮影)
枝垂櫻の春
『ミス仙台』が創作された1936年(昭和11年)当時、宮城県内の名勝日本三景の「松島」、仙台市内で唯一指定された「榴ヶ岡の」、紅葉で有名な「鳴子峡」の計3つのみだった[32]
「榴ヶ岡の桜」は、仙台藩第4代藩主・伊達綱村が枝垂桜などを1000本余り植えた「桜の馬場」(現・榴岡公園)に由来する[33]が、1924年(大正13年)の名勝指定当時は彼岸桜と枝垂桜の両種により占められており[32]、特に遠藤庸治・初代仙台市長が明治期に広めた八重紅枝垂は現在も榴岡公園を彩っている。すなわち、染井吉野が現在ほど広まっていなかった当時は、榴ヶ岡の「枝垂桜」が仙台に春の訪れを告げていた。

画像

1930年頃の仙台の画像を以下に列挙する。

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仙台小唄

「仙台小唄」には同名異曲が4曲知られている。『ミス仙台』にとって「仙台小唄」は通称であるが、同曲以外は「仙台小唄」が正式な曲名。

さらに見る 経緯, 歌唱 ...

その他

松竹映画「下田夜曲」(主演:八雲恵美子、主題歌:音丸)と日本コロムビアがタイアップして開催した歌謡コンクールで優勝し、二葉あき子が日本コロムビアから『ミス仙台』を発売したのと同年月の1936年(昭和11年)7月に、日本コロムビアの関連レーベルであるリーガルレコードからデビューした、仙台市出身の女性歌手。しばしば『ミス仙台』を歌っていたのは青葉である、と誤解されることがある。

脚注

関連項目

外部リンク

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