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信夫山治貞
大相撲力士 ウィキペディアから
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信夫山 治貞(しのぶやま はるさだ、1925年3月21日 - 1977年9月2日)は、福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)出身で小野川部屋に所属した大相撲力士。本名は本間 栄(ほんま さかえ)。最高位は東関脇(1958年9月場所、同年11月場所)。現役時代の体格は177cm、109kg。得意手はもろ差し、寄り。
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来歴
上京して小野川部屋へ入門し、1940年5月場所において、15歳で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名と同じ本間。1944年、幕下入りを目前にしたところで召集され、朝鮮半島北部で敗戦を迎えた。ソ連の収容所に送られたが脱走し、偽名を使ってソウルまで逃れ、なんとか引揚船で博多港へと帰り着いた。
1946年11月場所、吾妻山の四股名(四股名はいったん本名でもある本間に戻した後、1949年10月場所で信夫山と改名した)で大相撲に復帰し、翌年11月場所で十両に昇進。しばらくは十両と幕下との間を往復したが、大関・増位山の胸を借りて実力を増し、1950年9月場所で入幕した。技能派力士として注目され、1955年1月場所では小結に昇進し、これから3場所連続で勝ち越したにもかかわらず関脇に昇進できなかったのは、小部屋で番付運が悪かったためと言われている。
研究熱心である上に私生活をも稽古として活用する力士であったと知られ、足腰を鍛えるために一本歯の高下駄をはいてつり革につかまらずに山手線を回ったり[1]、左手の握力を強化するために左手で箸を持って米や豆をつまむ練習をしたりしたというエピソードがある。[2]1958年3月場所の初日には新横綱の若乃花を降しているが、これは雑誌「相撲」1956年11月号の表紙に載った若乃花の写真を見て立合いを研究した成果だという[注釈 1]。このような努力の成果もあって技能賞の常連となり、1958年5月場所は小結で10勝を挙げて5回目の技能賞を獲得、翌7月場所に漸く関脇昇進を果たした。
新関脇の場所は9勝で敢闘賞、続く9月場所に10勝で6回目の技能賞を獲得したときは大関も期待されたが、翌場所は負け越し、以降は古傷の腰痛が悪化して十両まで落ち、椎間板ヘルニアに罹ったために1960年9月場所限りで引退した。
引退後は年寄・竹縄から同・山響を襲名し、小野川部屋からの独立の準備を進めていたが、当時の出羽一門の「分家独立を許さず」の方針の前に独立を断念。1965年9月に日本相撲協会を去り、1977年9月2日、脳出血のため東京都内の病院で亡くなった。52歳没。
鋭い出足からのもろ差しの型を得意とし、「りゃんこの信夫」というあだ名がつけられた(「りゃんこ(両個)」とは、刀を二本差しにしていることに由来する武士の俗称)。同時期のもろ差しの型を得意にした力士には、鶴ヶ嶺がいるが、右四つから撒きかえる鶴ヶ嶺とは異なり、信夫山はいきなりもろ差しになって差し手を上に返す取り口であった[1]。モンロー・ウォークに似た歩き方にも特徴があり、容姿はジョン・ウェインに似ていたため、特に若い女性に人気があった。[3][1]出足でみせるすり足は「土俵の砂に二本のレールの跡が残る」と言われたほど基本に忠実で見事なものであった。
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主な成績・記録
- 通算成績:403勝392敗50休 勝率.507
- 幕内成績:308勝322敗15休 勝率.489
- 現役在位:65場所
- 幕内在位:43場所
- 三役在位:9場所(関脇3場所、小結6場所)
- 三賞:8回
- 殊勲賞:1回 (1957年1月場所)
- 敢闘賞:1回 (1958年7月場所)
- 技能賞:6回 (1954年1月場所、1954年9月場所、1955年1月場所、1955年5月場所、1958年5月場所、1958年9月場所)
- 金星:7個(東富士1個、鏡里2個、吉葉山2個、若乃花1個、朝潮1個)
- 各段優勝
- 幕下優勝:1回 (1949年9月場所)
- 三段目優勝:1回 (1944年5月場所)
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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脚注
関連項目
参考文献
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