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國登國生
日本の力士 (1925-1995) ウィキペディアから
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國登 國生(くにのぼり くにお、1925年(大正14年)4月18日 - 1995年(平成7年)10月3日)は、東京府北豊島郡板橋町(出生当時、現在の東京都板橋区)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は藤 國松(ふじ くにまつ、旧姓は小川(おがわ))。身長174cm、体重126kg。得意手は右四つ、寄り。最高位は東小結(1954年1月場所・1954年5月場所)[1]。
来歴
小学校を卒業後、鉄工所に勤務する。体の大きさと力強さから周囲に力士になることを勧められた。1939年(昭和14年)1月15日、職場の休みを利用して両国の相撲部屋に入門しようとして出羽海部屋を訪ねて行った。しかし、両国にたどり着いたのは夜になってからだった。この日はちょうど出羽海部屋の安藝ノ海が双葉山の70連勝を止めた日で、部屋の前は大勢の安藝ノ海見たさの人であふれ、部屋に入ることができなかった。そのため出羽海部屋への入門を断念し、この日は帰宅せざるを得なかった。
後日、佐ノ山親方(元前頭2・朝響)を紹介されて1940年(昭和15年)3月に高砂部屋に入門、同年5月場所で初土俵を踏んだ[1]。順調に出世し、途中1945年(昭和20年)3月から11月まで兵役に応召したが、復帰して1947年(昭和22年)11月場所にて十両へ昇進した。この新十両の場所で優勝を飾り、翌場所の1948年(昭和23年)5月場所でも十両優勝を遂げ、同年10月場所で新入幕を果たした。
右四つから一気の出足で寄る相撲ぷりは江戸っ子相撲として人気を博し、また相撲人形の様な容貌と典型的な力士らしい体格で子供にも絶大な人気があった。入幕2場所目の1949年(昭和24年)1月場所では千秋楽に勝てば11勝2敗で幕内最高優勝を飾るところであったが、惜しくも敗れて準優勝に終わった。しかし10勝3敗と好成績を残して敢闘賞を受賞、優勝は同部屋の先輩で10勝2敗1分の新横綱・東富士であった[1]。
1956年(昭和31年)2月には名古屋での準本場所で15戦全勝優勝している[2]。
右四つからの寄りが武器であり将来を嘱望されたが、ケガと糖尿病のために小結が最高位となり、その後は幕内中堅力士として幕内44場所を務め、現役晩年は十両が定位置となり1961年(昭和36年)5月場所限りで引退した。36歳まで力士を務めるなど力士寿命自体は長かった[1]。
引退後は年寄・佐ノ山を襲名し佐ノ山部屋を興したが、1964年(昭和39年)1月場所限りで部屋を閉じて高砂部屋に移籍し、1990年(平成2年)4月に停年退職。日本相撲協会では、勝負審判を長年に渡り務めた。
この間、1980年(昭和55年)11月場所12日目に序二段の取組みで物言いがついた際に二日酔いの泥酔状態で土俵に上がれなくなり、さらに協議が終わってから土俵から下がる時に土俵に草履を忘れたため、翌日の理事会で審判委員から2階級降格の平年寄となっている。その後は病に倒れ停年まで参与であった。
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主な成績・記録
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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改名歴
- 國登 国枩(くにのぼり くにまつ)1941年5月場所-1944年5月場所
- 國登 國枩(- くにまつ)1944年11月場所-1946年11月場所
- 國登 國生(- くにお)1947年6月場所-1961年5月場所(引退)
参考文献
- 『戦後新入幕力士物語 第1巻』(著者:佐竹義惇、ベースボール・マガジン社刊)
関連項目
脚注
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