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女流名人戦 (将棋)
日本の将棋の棋戦 ウィキペディアから
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岡田美術館杯女流名人戦(おかだびじゅつかんはい じょりゅうめいじんせん、第52期より「ユニバーサル杯女流名人戦」〈ゆにばーさるはい じょりゅうめいじんせん〉)は、将棋の女流タイトル戦。女流棋戦の中で最も歴史が古く、勝者には女流名人のタイトル称号が与えられる。棋戦の主催は報知新聞社及び日本将棋連盟、特別協賛はユニバーサルエンターテインメント[1]。
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概要
1970年代前半、日本将棋連盟副会長であった大山康晴は、女性への将棋の普及を促進したいという考えから、女流棋士制度の創設を強く提唱していた[2]。その後、大山と原田泰夫の両副会長が中心となり、女流棋士制度を創設すると同時に「女流棋士の棋戦」を新たに作ろうという機運が連盟内で高まり、大山の意を受けた連盟理事の米長邦雄が1974年9月初旬に関根茂に相談したところ、関根が懇意にしていた報知新聞の野口敬・編集局長に話が行き、ちょうど報知新聞社がプロ野球のオフシーズンに紙面で取り上げる題材を探していた経緯もあり、報知新聞社の全面協力によって最初の女流棋戦が創設される話がわずか1か月ほどでまとまった[3]。
棋戦名については、現在の女流アマ名人戦が「女流名人戦」として既に存在していたので、プロの棋戦であるという事を明確にして、また大山の提案もあり、男性棋戦の「名人」に敬意を表し、「女流プロ名人位戦」として1974年10月に創設された[4][5][2]。その後、第29期(2002年度)を機に「プロ」が取れて正式に「女流名人位戦」となり[6][7]、創設40周年を機に第41期(2014年度)から「位」を外して「女流名人戦」に改称された[8]。
第20期(1993年度)からユニバーサルエンターテインメントが特別協賛しており[1]、同社の社名変更等により何度か冠が変更され[9][注釈 1]、第42期(2015年度)から同社が保有する美術館の名称をとり「岡田美術館杯」を冠とした[9][10]。
2022年開始の第50期より棋戦名における冠名の表記順に変更があり、それまでの「期数・冠名・棋戦名」の順(第49期 岡田美術館杯 女流名人戦)から「冠名・期数・棋戦名」の順(岡田美術館杯 第50期 女流名人戦)の名称となった。
第52期は、前期「岡田美術館杯 第51期女流名人戦」の五番勝負(2025年3月-4月実施)に先行して2024年12月から開始されたが、予選実施時には「第52期女流名人戦」として協賛・冠名が明らかにされなかった[11][12]。同52期の予選終了後に、女流名人リーグからの冠名を「ユニバーサル杯」とし「ユニバーサル杯 第52期女流名人戦」として実施することが明らかになった[13]。冠名変更の公表以後、同52期のウェブサイトにおいても変更後の冠名が表記されるようになった[14][15]。
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方式
要約
視点
女流名人リーグと予選からなる。女流名人リーグ(第39期まではA級リーグ)の優勝者が女流名人と翌年1月から2月に五番勝負を戦い[注釈 2]、先に3勝した方が女流名人となる。
順位戦と同様に第39期まではリーグ戦がA級・B級に分かれており(第24期まではリーグ戦がC級まであった)、A級リーグ下位者とB級リーグの成績優秀者との入れ替えがあった。第40期より、実質的にB級リーグは廃止され、A級リーグの名称を「女流名人位リーグ」に変更[16]、さらに第41期より「女流名人リーグ」と改称された。
予選
前年度女流名人およびリーグ戦に残留している女流棋士を除くすべての女流棋士が参加する。予選通過者は4名[注釈 3]で、通過者は女流名人リーグ(第39期まではB級リーグ)に参加する。創設当初はC級リーグが予選の代わりに行われていたが、第25期(1998年)から現行のトーナメント方式に改められている。
リーグ戦
第40期以降の制度では、「女流名人リーグ」内で10名(前期番勝負敗退者1名+前期残留者5名+予選通過者4名)の総当たり戦を行う。「女流名人リーグ」の優勝者が女流名人に五番勝負で挑戦し[18]、五番勝負の敗退者1名を含むリーグ成績上位6名がリーグ残留者(次期予選免除)となる。一方、リーグ成績下位4名がリーグから陥落となり、次期は予選からの参加となる。
同率の女流棋士が複数いる場合は、順位上位者が成績上位となる。ただし、挑戦者となる成績最上位者のみ順位に関係なく、リーグ勝敗が同成績の複数名による挑戦者決定戦(プレーオフ)を行う。また、リーグ勝敗が同成績の複数名がリーグ残留・陥落ライン上に並んだ場合は残留決定戦が行われる。
持ち時間は2時間(第51期よりチェスクロック方式、第50期まではストップウォッチ方式)。
A級・B級リーグ(第39期まで)
第39期まではリーグ戦は「A級リーグ戦」「B級リーグ戦」の2つに分けて行われており、現行の「女流名人リーグ」に相当するのが「A級リーグ戦」であった。「B級リーグ戦」は「A級」の下位リーグであり、A級、B級、いずれも定員は10名であった。「A級リーグ戦」成績下位者3名と「B級リーグ戦」成績上位者3名は昇降級により入れ替えされた。また、「B級リーグ戦」成績下位者5名はリーグから陥落し、次期の「B級リーグ戦」にはリーグ残留者5名と予選からの勝ち上がり5名により行われた。
休場
順位戦と同様、病気や出産などのやむをえない理由により、ある1年間の対局をすべて休場した場合、それが当期の女流名人リーグ表を組む前に申請していれば、その期に限りすべて不戦扱いとしてリーグ脱落をせず、次の期に順位は「張出」として最下位ながらリーグに参加できる。順位戦と異なる点は、この場合でも脱落者・予選通過者の人数は通常と変わらず、リーグ戦の人数が一定に保たれている点である[注釈 4]。ただしリーグ発表後にリーグ最終局まで休場した場合については、基本的には以降の対局は全て不戦敗として扱われ、翌期への優遇措置は取られない。一方でリーグ途中で休場しても、短期間かつ11月のリーグ最終局前に復帰して日程に余裕があれば日程調整して可能な限り全対局行なわれる。
女流名人戦五番勝負
女流名人と女流名人リーグ優勝者が翌年の1月から2月にかけて五番勝負を戦い、勝者が新たな女流名人となる。第42期からは、特別協賛のユニバーサルエンターテインメントが所有し、棋戦の冠名にもなっている、箱根の「岡田美術館」で第1局を行なうことが通例となっている。その他では近年は第2局が福間香奈の地元である島根県の出雲文化伝承館、第3局が千葉県野田市の関根名人記念館(いちいのホール)、第4局が岡山県の湯原国際観光ホテル菊之湯の開催[注釈 5] が定番となっている。
持ち時間は各3時間(ストップウォッチ方式、対局開始は午前9時30分)。
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クイーン名人
女流名人を通算5期獲得した女流棋士には「クイーン名人」の称号が与えられる。
歴代五番勝負・女流名人リーグ
要約
視点
第5-9期、第25期以降のリーグ戦に表記の数字は「開始時のリーグ順位」。 |
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通算成績
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第1期女流プロ名人位戦
第1期ではもともと唯一の女性プロだった蛸島彰子は別格とされ、他の5人によるトーナメントの優勝者と蛸島が三番勝負を行い、勝者が初代女流名人となるシステムであった[2]。
その中から関根紀代子と寺下紀子が挑戦者決定戦に進出。挑戦者決定戦では関根が風邪を引いていて、対局中にゆったりしたセーターを着ていたために、その袖に引っ掛けて落した香車を気づかずに持ち駒として使ってしまい、関根の反則負けとなった[2]。これが女流棋戦初の反則負けである。第1期は蛸島と関根の対局の実現を期待されていたが、この影響で結局その後も両者の番勝負が実現することは無かった[2]。
蛸島と寺下による三番勝負は1974年11月に行われ、蛸島が第1局・第2局を連勝して三番勝負を制し、第1期女流名人となった[20]。
なお、1974年度の第1期のトーナメントの金額は1局ごとに5000円。別に化粧代として同額。決勝三番勝負の対局料は8万円で優勝賞金は15万円であった[2]。
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エピソード
- 当初女流名人位戦に関しては予選・リーグ戦・番勝負を通じてほとんどの対局が東西の将棋会館で行われていたが、23期からは、番勝負を地方で開催するようになった(初めての地方対局は第23期5番勝負第1局、金沢での対局)[21]。
- 2006年度の第33期五番勝負では、第3局で本棋戦における初の海外対局が2007年3月5日に中国の青島で行われた[22]。
- 福間香奈(旧姓・里見)は第46期の女流名人防衛で11連覇を達成し、同一女流タイトル戦の連続在位記録としては女流王将10連覇の林葉直子を超え史上1位となった。第47期も防衛に成功して記録を更新して12連覇となった[23]。
- 第48期女流名人戦で伊藤沙恵が里見香奈を破って女流名人となったが、9度目のタイトル挑戦での初タイトル戴冠は男女を通じて将棋史上最多タイトル挑戦での初戴冠となった[24]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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