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石倉三郎

日本の俳優、コメディアン、タレント ウィキペディアから

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石倉 三郎(いしくら さぶろう、1946年昭和21年〉12月16日[1] - )は、日本俳優コメディアン [2][3]香川県小豆郡内海町(現:小豆島町)出身[4]血液型はA型[5]。4人兄姉の末っ子[6]所属事務所は株式会社GROW[7]。身長170cm、体重65kg[7]。現在は東京都在住。

概要 いしくら さぶろう 石倉 三郎, 本名 ...
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来歴

小豆島での暮らしは貧乏で、長兄が映画館の映写技師、母親はいわゆる「もぎり」として働いており、潜り込んで映画は山ほど観ていた[6]。それで知らず知らず俳優への憧れが芽生えた[6]。特に三木のり平に憧れた[6]

中学1年生終わりに家族で大阪市鶴見区に転居[8]大阪市立緑中学校卒業後[9][10][11][12]、私立の定時制高校に合格するも学費が捻出できず[6][8]、兄の勤める会社に就職する[6][8]。18歳で俳優を志し母親に毎月仕送りをする約束で上京[13][6]。上京後は、青山スーパーマーケットアルバイトをしながら、劇団の研究生となる[6]

アルバイトの休憩時間に通っていた喫茶店で、常連だった高倉健から声をかけられ[13][6]1967年(昭和42年)、高倉の紹介で東映東京撮影所大部屋俳優になる[6]。高倉から「倉」の一字をもらい「石倉 三郎」を芸名にする[13][6]。東映東京制作の任侠映画エキストラとして出演するが[13]1972年(昭和47年)に東映退社[14]。その後、舞台俳優やコメディアン、坂本九の専属司会などを経験した[14]

1975年(昭和50年)、チャップリンズを組んで演芸界へ転向し[15][16]日劇ミュージックホールでコントを披露[17]チャップリンズコントチャップリンと名前を改めるが解散。1979年(昭和54年)、レオナルド熊ラッキーパンチを結成するも[6]、すぐに解散。一時期は芸能界を引退してマザー牧場に関連する仕事をしていた[16][18]

1981年(昭和56年)、レオナルド熊とコント・レオナルドを結成(事実上の再結成)[6]1985年(昭和60年)、解散[2]。以後は俳優に復帰[2]。しばらくの間はお笑いタレントとして活動を並行し、『OH!たけし』や『風雲!たけし城』などのビートたけしの冠番組に出演していた[19]市川崑に重用されたことから、次第にバイプレイヤーとして活躍[20]

2016年(平成28年)、『つむぐもの』で映画初主演[3]

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人物

  • ビートたけしとは互いに浅草フランス座で下積みしていた頃からの仲である[21]
  • コント・レオナルド解散の原因は、レオナルド熊との公私両面にわたる深刻な不仲化が原因(詳細はコント・レオナルドを参照)[16]。石倉はコンビ解散後、1994年のレオナルド熊の死去・葬儀に参列するまで一切レオナルド熊と顔をあわすことはなかった[22]
  • 山田辰夫とも交流があり[19]、1988年に映画『独身アパートどくだみ荘』で共演している[23]
  • 橋爪功とは親交が深い[24][25]。『あさイチ』に橋爪がゲスト出演した際には「(橋爪の)唯一の友達ではないでしょうか。ほら、あの人(橋爪)、偏屈だから」とコメントしている[26]
  • 市川崑は石倉の個性に着目し、テレビでの演技をエッセイで称賛。『四十七人の刺客』にて重要な役に起用して以来、自らの死去までほとんどの作品に出演させた。いわゆる、市川崑ファミリー[27]の最終メンバーの1人となった、といえる。
  • 所謂、喧嘩の強さでも知られており芸能界で歴代の強さを持つといわれることもあった[28]
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出演

テレビドラマ

NHK総合

NHK BSプレミアム

日本テレビ

TBS

フジテレビ

テレビ朝日

BS朝日

テレビ東京

WOWOW

  • 娘の結婚(2003年)
  • イヴの贈り物(2007年)

その他

映画

舞台

バラエティ

ラジオ

その他

  • 短編映画 「気づかなくてごめんね」(2019年9月) 監督 犬童一利
  • うどん県(2011年10月 - 、香川県)
  • コラム「粋に生きたい!」(二十四の瞳映画村)[82]

CM

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受賞歴

  • 第2回 プラチナエイジスト・特別賞(2016年[83]

脚註

関連項目

外部リンク

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