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道原裕幸

日本のプロ野球選手 (1949-) ウィキペディアから

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道原 裕幸(みちはら ひろゆき、旧名:博幸1949年5月30日 - )は、山口県柳井市出身の元プロ野球選手捕手、右投右打)・コーチ解説者

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

要約
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プロ入りまで

山口県桜ケ丘高校では2年上に河村健一郎、2年下に長州力がいた。捕手として2年次の1966年に秋季中国大会県予選で準決勝に進出するが、豊浦高に敗退。3年次の1967年夏は県大会準々決勝でまたも豊浦高に敗れ、甲子園には出場できなかった。

高校卒業後は芝浦工業大学に進学し、東都大学野球リーグでは3年次の1970年春季リーグに優勝。1年上の三塁手伊原春樹と共にクリーンアップを打ち、リーグ通算79試合出場、264打数75安打、打率.284、8本塁打、32打点。ベストナイン3回(捕手)受賞。同期には二塁手の大野保雄(日本石油)がいた。学生運動の影響で体育会の推薦制度が廃止されたため後輩部員が皆無な状態での活動であった。

現役時代

1971年のドラフト1位で広島東洋カープに入団。即戦力捕手として期待されるが、打撃面での低迷もあって水沼四郎西沢正次らの壁を破れず、出場機会に恵まれなかった。

1975年にはリード面に成長が見られ、水沼と併用されて55試合で先発マスクを被り、球団史上初のリーグ優勝に貢献。同年の阪急との日本シリーズでは5試合に先発し、9打数3安打2打点を記録。以後も水沼に次ぐ2番手捕手として1979年1980年の2年連続日本一に貢献。

1981年には50試合に先発マスクを被るが、7月19日大洋戦(横浜)でアート・ガードナーが本塁を踏み忘れて3点本塁打を取り消される事件が起こる。生還した走者の道原がガードナーを出迎えた際、立っていた位置が本塁上であったため、結果的にガードナーをブロックする形で起こった珍事であった。

1982年も40試合に先発出場するが、その後は達川光男の台頭により、水沼と共に控え捕手としての起用が続く。

1984年限りで現役を引退。

現役引退後

引退後は広島で二軍バッテリーコーチ補佐(1985年)、寮長兼二軍バッテリーコーチ補佐(1986年)、寮長兼一軍バッテリーコーチ(1987年)、一軍バッテリーコーチ兼寮長(1988年, 1990年 - 1991年)、二軍バッテリーコーチ兼寮長(1989年)、二軍バッテリーコーチ(1992年 - 1993年, 1999年 - 2000年, 2007年)、一軍バッテリーコーチ(1994年 - 1998年, 2001年 - 2004年)、三軍バッテリーコーチ(2008年)、三軍野手コーチ(2009年)、三軍野手コーチ兼大野寮長(2010年)を歴任。コーチ業の合間を縫って、RCC解説者(2005年 - 2006年)を務めた。2008年シーズン途中、HFMDO THE CARP」でDJを務めていたコーチの阿部慶二が球団と業務提携を結ぶ中国野球リーグ広東レパーズに派遣されたため、7月28日の放送よりDJ業を引き継ぐが、予定より早く阿部が日本に戻ってきたため、8月25日で卒業。

2011年からは大野寮長専任となる。

2013年からは球団編成部担当。

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詳細情報

年度別打撃成績

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年度別守備成績

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記録

背番号

  • 10(1972年 - 1984年)
  • 87(1985年 - 2004年)
  • 81(2007年 - 2010年)

登録名

  • 道原 博幸(みちはら ひろゆき、1972年 - 1979年)
  • 道原 裕幸(みちはら ひろゆき、1980年 - )
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脚注

関連項目

外部リンク

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