トップQs
タイムライン
チャット
視点
クリスチャン・クリエン
ウィキペディアから
Remove ads
クリスチャン・クリエン(独: Christian Klien、 1983年2月7日 - )は、オーストリア・ホーエンエムス出身の元レーシングドライバー。
経歴
要約
視点
カート
幼い頃からカートレースを始め、アイルトン・セナのレースを見たことによりF1ドライバーとなることを志す。1996年から1998年にかけ、クリエンはスイスとオーストリアのカートレースを転戦したが、その1996年(13歳)にスイスのカートチャンピオンとなったのを手始めに、その後も幾つかのレースで勝利を収める。
ジュニア・フォーミュラ
1999年に4輪レースへステップアップ。ドイツのフォーミュラ・BMWジュニアカップを戦い、4勝してシリーズをランキング4位で終えた。翌年はフォーミュラ・BMWのドイツ選手権にチーム・ロズベルグから参戦し、総合10位、新人の中では3番手でシーズンを終えた。2001年も同シリーズに参戦し、5勝するとともに、ランキング3位でシーズンを終え、この年はイタリア・フォーミュラ・ルノーの冬季選手権に参戦するため、JDモータースポーツと組み、同シリーズにおいて1勝を挙げるとともに、同チームとともに2002年はドイツ・フォーミュラ・ルノーに参戦。クリエンはここで4勝してドイツ・チャンピオンとなり、同シリーズのヨーロッパ選手権(ユーロカップ)では5位を得た。
2003年からミュッケ・モータースポーツに移籍し、F3へステップアップ。ユーロF3でライアン・ブリスコーとタイトル争いを繰り広げ、4勝を挙げる。同年のザンドフールトで開催されたマールボロ・マスターズでは優勝を果たした。
フォーミュラ1

2005年アメリカGP
2004年、レッドブルによる援助を受け、クリエンはジャガー・レーシングのF1シートを獲得する。マネージャーは父のヨハネス・クリエンである。
2004年
初年度のクリエンは同チームのファーストドライバーであり評価が高かったマーク・ウェバーと組むこととなり、大きなプレッシャーを抱えたものであったが、幾つかのレースにおいて内容でウェバーを上回るなど、時折り印象的な速さと能力を見せた。ベルギーGPにおいてF1での初ポイントを記録したが、結局このシーズンの入賞はこのグランプリのみとなり、ランキングは16位となった。
2005年

2005年に向けてのシーズンオフのテスト期間中、クリエンはジャガー・レーシングを買収して発足したレッドブル・レーシングにデビッド・クルサードとヴィタントニオ・リウッツィとともに参加した。レギュラー候補を3人抱えていたレッドブルチームは、シーズン中、クリエンとリウッツィに数戦ずつ交代で走らせることを決め、クリエンはさしあたり、開幕戦から数戦をクルサードとともに戦うこととなった。
この年、クリエンは関係者の予想を裏切るレッドブルの意外な速さを武器に開幕直後から活躍を見せ、開幕戦オーストラリアGPと第2戦マレーシアGPで連続入賞を遂げ、予選グリッドも常に3列目、4列目に付けるという上々の滑り出しを見せた。第4戦サンマリノGPから第7戦ヨーロッパGPまではリウッツィにシートを譲ったが、残りのレースは全て任され、シーズン中に計5戦で入賞し、ランキング15位でシーズンを終えた。
シーズン前は、第8戦カナダGPでクリエンに一度シートが戻された後も、シーズン後半でまたリウッツィに再度の交代があるものと思われていたが、そうはならなかった要因としては、クリエンが力強いパフォーマンスを見せていたこと、2005年のレギュレーションでは予選出走順が前戦順位の下位からとなり、交互に出走することで予選が不利になるのを避けること、この時期レッドブルがミナルディを買収し、クリエン、リウッツィ両ドライバーに翌年のシートを確実に保証することが可能となったことなどが考えられる。
2006年
2006年もレッドブルから参戦することとなったが、獲得ポイントはチームメイトのクルサードを下回る2ポイントにとどまり、第15戦イタリアGPを最後にシートをサードドライバーのロバート・ドーンボスに譲り、レッドブルから離脱することとなった。 レッドブル離脱前後から、中国・日本・ブラジルGPをスパイカーMF1のサードドライバーとして参加するべく動いていたが、スパイカーMF1がそれぞれアレクサンドル・プレマ、エイドリアン・スーティル、アーネスト・ヴィソをサードドライバーに起用すると発表したため、今年のF1公式セッション参加は無くなった。 2007年のシートを模索していたが、ホンダ・レーシング・F1チームよりサードドライバーとして迎えられた。
2007年

ホンダでテストドライバーとして活動。イギリスGPではジェンソン・バトンが背中痛を訴えたため、プラクティスセッションを1度だけ走行した。この年限りでホンダを離脱することを表明しているため、結果的にホンダでの公式セッションはこの1度だけということになった。また、シーズン中からレースシート獲得を見据え、ベルギーテストではホンダに所属しながらスパイカーF1でテストをした。同週にはホンダでもテストを行っていたため、1週間(正確には3日のテスト日程)で2つのチームを経験したことになる(マクラーレンテストドライバーのペドロ・デ・ラ・ロサも2008年11月のバルセロナテストで、マクラーレン・フォースインディア両方から参加)。スパイカーでのレギュラーシート獲得を見据えたテストであったが、結局チームはスポンサーを欲していたこともあって山本左近にそのシートを奪われた。また、シーズンオフのバルセロナテストでもフォース・インディアでのテストに参加し、2008年のドライバー候補として名前が挙がったものの遂にはそのシートも獲得できなかった。
2008年

2008年度のBMWザウバーのリザーブ兼テストドライバーとなることが決まり、同チームに2年間在籍した。この間はF1におけるリザーブ兼テスト職を兼任しながら(実際にはテスト時間に大幅な制限が加えられ始めたのでほとんどF1に参加できなかった)ル・マン24時間レースに出場した。2008年はフランク・モンタニー、リカルド・ゾンタと組み3位を獲得。翌年はニコラ・ミナシアン、ペドロ・ラミーと組み6位に入った。
2010年
BMWザウバーの母体であるBMWが撤退した為、ドライバーシャッフルに乗じてレギュラーシート獲得を狙ったが、惜しくもペドロ・デ・ラ・ロサにそのシートを奪われてしまう。又、US F1においてもホセ・マリア・ロペスとシート争いをしたが、チームは火急な資金調達を狙っていた為、これもロペスに決定した。
5月5日、ヒスパニア・レーシング・F1チームよりクリエンをテストドライバー兼リザーブドライバーとして迎えいれた事が正式に発表された[1]。かつてスパイカーにおいてシート争いをした山本左近も同チームのテストドライバー兼リザーブドライバーに迎え入れられたばかりであった。スペインGP金曜午前中のフリー走行では26周を走り、久々の走行でさらにぶっつけ本番という状況下でレギュラードライバーのブルーノ・セナより0.5秒近く速いタイムをマークした。シンガポールGPにて、山本左近が食中毒の為に欠場が報じられると、急遽代理としてシートに座った。予選ではセナを1秒以上も上回るタイムをマークした[2]。その後ブラジルGPとアブダビGPにも山本左近に代わり出場した。
Remove ads
レース戦歴
要約
視点
フォーミュラ略歴
フォーミュラ3・ユーロシリーズ
フォーミュラ1
(2010年第19戦終了時)
スポーツカー
ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ
世界耐久選手権
SUPER GT
ブランパンGTシリーズ・耐久カップ
ル・マン24時間レース
ドイツツーリングカー選手権
Remove ads
エピソード
関連項目
脚注
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads