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日本の将棋棋士 ウィキペディアから
木村 義雄(きむら よしお、1905年(明治38年)2月21日[注 3] - 1986年(昭和61年)11月17日)は、将棋棋士。十四世名人。棋士番号は2。東京府東京市本所区本所表町(現:東京都墨田区)出身。
木村義雄 十四世名人 | |
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第10期名人戦に勝利後 (1951年5月29日) | |
名前 | 木村義雄 |
生年月日 | 1905年2月21日 |
没年月日 | 1986年11月17日(81歳没) |
プロ入り年月日 | 1920年8月19日(15歳)[注 1][1] |
引退年月日 | 1952年8月24日(47歳) |
棋士番号 | 2 |
出身地 | 東京府東京市本所区本所表町(現:東京都墨田区) |
所属 |
東京将棋倶楽部 →東京将棋連盟 →日本将棋連盟(東京) →将棋大成会(関東) →日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 関根金次郎十三世名人 |
弟子 | 北楯修哉、板谷四郎、金高清吉、花村元司、清野静男、木村嘉孝 |
永世称号 | 十四世名人 |
棋士DB | 木村義雄 |
戦績 | |
タイトル獲得合計 | 8期 |
一般棋戦優勝回数 | 2回 |
順位戦最高クラス | A級(10期[注 2]) |
2018年2月27日現在 |
最初の実力制による名人、かつ最初の永世名人である。
江戸っ子である下駄屋の職人の子として育ち、幼い頃から囲碁と将棋が強く、大人にも負けなかったという。父は弁護士か外交官になることを望んでいたが、知人の説得に負けて義雄に囲碁の道場に通うことを許した。しかし生家の職業上糊として使うことから白米を常食としていた義雄は、囲碁の師匠の家である日出された麦飯を二口と食べられなかった。そのことを紹介者から忠告されたところ、父はその場では息子の無礼を侘びつつも、いくら貧乏したって米の飯を食うのがなぜ悪いと立腹して、後で義雄に対しては明日から碁をやめろと命じた。
浅草の将棋会所で指していたところを吉原から朝帰り中(本因坊秀哉も同行していた)の関根金次郎に見込まれ[3]、1916年(大正5年)にその門下になる。1917年(大正6年)には関根の紹介で大和郡山柳沢家当主の柳沢保恵伯爵邸に書生として住み込み、慶應普通科に入学。この頃に坂田三吉(阪田三吉)や小野五平の指導を受ける機会に恵まれたという。同年のうちに初段格として朝日新聞の新聞棋戦に参加。
1918年(大正7年)に[4]、柳沢邸の書生を辞して実家に戻り、外務省の給仕などを務め、夜学(錦城中学)に通いつつ将棋に励んだ。
1918年(大正7年)には二段に、1919年(大正8年)には三段となる。同門の兄弟子の金易二郎と花田長太郎を目標としていたという。
1920年(大正9年)には四段にまで昇る。同年、國民新聞主催で実施された三派花形棋士の三巴戦に関根派を代表して出場。土居市太郎派の金子金五郎、大崎熊雄派の飯塚勘一郎と戦って優勝を果たす。
1921年(大正10年)には五段に昇る。同年に死去した小野五平十二世名人の跡を受けて師の関根が名人に推挙され、十三世名人となる。
1924年(大正13年)、六段に昇る。報知新聞に嘱託として入社し、1942年まで[5]観戦記を執筆する。同年には三派が合同を果たし、東京将棋連盟(後の日本将棋連盟の前身)が発足する。この年に坂田が関西で名人を僭称した。
1925年(大正14年)、七段に昇る。9月には新昇段規定により八段の資格を得たが、これを辞退した。この年に、花田と初のラジオ対局を行う。
1926年(大正15年)の3月、再び昇段点を獲得して八段に昇る。
22歳での八段は前例のない快挙であったが、木村はそれでは満足せず、他の先輩格の八段全員を半香の手合いに指し込む快挙をなしとげたという。その後まもなく指し込み制度は廃止となった。後に木村はこのことに対して非常に憤ったことを自著において述懐している。
1931年(昭和6年)、文藝春秋社主催の土居市太郎との五番勝負に四勝一敗とする[7]。1933年(昭和8年)、読売新聞社主催の金子金五郎との十番勝負が、四連勝で終了する[8]。
1935年(昭和10年)、関根が引退を表明し実力制名人戦が始まる。神田辰之助の八段昇段をめぐる将棋界の分裂劇もあったが(神田事件)、八段の中でも実力抜群であった木村は次第に頭角を現していく。
1937年(昭和12年)、将棋大成会成立後も関西で孤塁を守っていた坂田との対戦を周囲の反対を押し切って実現させ、2月5日から11日にかけて京都南禅寺で対戦して勝利する。同年の12月6日には、名人リーグ戦で千日手指しなおしの末に花田を破り、名人リーグ戦では同じ「13勝2敗」の成績ながら一般棋戦の差で第1期名人戦の勝者となる[9]。1938年(昭和13年)2月11日に、将棋大成会道場にて、名人就位式を実施する。なお、名人就位時、江戸時代の名人が詰将棋集を将軍に献上したことに倣い、記念の詰将棋を発表している[10]。同1938年から、将棋大成会の会長となる。
1940年(昭和15年)の第2期名人戦は、かつて「土居時代」を築いた実力者である土居を4勝1敗で下し、1942年(昭和17年)の第3期名人戦では関西の期待を一身に担う神田を4連勝で下した。
1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)の第4期名人戦は挑戦予備手合で当時の八段陣を下し名人位を維持した。1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の第5期名人戦には挑戦資格者が現れず、そのまま名人防衛となった。
この頃から関西の升田幸三、大山康晴が台頭する。1945年11月、木村は将棋大成会会長として、棋士総会に「段位撤廃」「順位戦創設」を提言する[11]。段位撤廃はのちに撤回されたが、順位戦は翌1946年から開始する。
1947年(昭和22年)の第6期名人戦で塚田正夫が木村から名人位を奪取した。若い塚田には対局以外の仕事を木村同様にこなすのは困難であったため、木村には前名人の称号が与えられ、これまで通り棋界第一人者の立場で社会活動することが認められた。しかし金銭面での待遇は大幅に下がったため、生活に苦慮したともいう。同1947年、将棋大成会から日本将棋連盟と改名された連盟の会長となり、1948年までつとめる。
1948年の第7期名人戦のA級リーグ戦では不振だったものの、1949年第8期名人戦A級リーグ戦で優勝して挑戦者となり、3勝2敗(この期のみ五番勝負)で塚田を破り、名人に復位する勝負強さを見せた。その後、第9期(1950年)、第10期(1951年)名人戦ではそれぞれ大山、升田を退けた。
1951年(昭和26年)の暮れから行われた第1期王将戦では、升田と対戦して一勝四敗となり指し込みに追い込まれ、升田に香を引かれる事態になる。この時、香落ち戦の第6局を升田が対局拒否をする陣屋事件が起こった。升田の処遇をめぐって将棋界は紛糾したが、最終的には木村が裁定を下しその混乱を収拾した。この対局は、「升田の不戦敗」となり、香車を落とされる対局は実現しなかった。
しかし、もはや盤上ではすっかり精彩を欠くようになっていた木村は1952年(昭和27年)の第11期名人戦で7月15日[12]に1勝4敗で大山に敗れ、名人を失冠する。この時勝った大山は、敗れた木村に深々と頭を下げたという。
「よき後継者を得た」との言葉を残し、敗戦から約一か月後の同年8月14日に、上野の寛永寺で開かれた物故棋士追善将棋大会の席上で引退を表明した[注 4]。日本将棋連盟は、木村を十四世名人に推挙した。
引退時、この後も棋戦によっては参加すると語っており、同1952年度は引退後も大山と「日経年代対抗棋戦」「名人A級選抜勝継戦」で対戦しており、また塚田と「木村・新九段三番勝負」を戦った(九段戦の「名人九段五番勝負」の代替棋戦、木村二連敗)。その後も「記念対局」「模範対局」などを行っている。墓所は鎌倉霊園。
将棋界の第一人者として最強を誇り、当時の上位棋士を全て指し込むなど、戦前・戦中の将棋界に名を轟かせ、「常勝将軍」と呼ばれ恐れられたという。信条は「勝ち将棋を勝て」。一般人にも、相撲で不敗を誇った双葉山と並んでよく知られていた。将棋大成会の組織・運営にも辣腕を振るい、段級位の廃止や順位戦の導入を提案するなど将棋界の近代化に尽くした。将棋の連盟の度重なる分裂にも心を痛め、分裂の原因となっていた、師弟関係・親子関係を排斥するために、新進棋士奨励会を設立した。
戦後、若手棋士たちは木村を倒すために持ち時間の短い将棋に有利な急戦腰掛け銀定跡の研究を行ったという。しかし木村は、名人失冠後に腰掛け銀の研究に打ち込み、先手必勝の角換わり腰掛け銀定跡(木村定跡)を完成させたという。
坂口安吾は、第8期名人戦第5局の観戦記「勝負師」において、「彼(木村)は十年不敗の名人であり、大成会の統領で、名実ともに一人ぬきんでた棋界の名士で、常に東奔西走、多忙であつた。明日の対局に今夜つくはおろかなこと、夜行でその朝大阪へついて対局し、すぐ又所用で東へ走り西へ廻るといふ忙しさであつた。」と述べ、また「青春論」では「彼(木村)は心身あげて盤上にのたくり廻るという毒々しいまでに驚くべき闘志をもった男である」と讃えている。
報知新聞嘱託として長く観戦記を執筆し、名文家として知られた。
引退後は神奈川県茅ヶ崎市にて隠棲生活を送り、1960年(昭和35年)に将棋棋士として初となる紫綬褒章を受章。1978年(昭和53年)には勲三等旭日中綬章を受章した[13]。
1977年頃に日本将棋連盟が大阪市に関西将棋会館を建設するべく資金を集めるための資材として木村と大山康晴(十五世名人)、中原誠(当時の現役名人、後の十六世名人)の3人による署名入りの記念免状を発行した。その際には茅ヶ崎の木村邸で木村・大山・中原のスリーショット写真が撮影されている[13]。
加藤一二三の著書によると洗礼を受けたクリスチャンであったとのことである。実際は、死去の前日に、夫人の願いをいれて病床で洗礼を受けた[14]。1986年、満年齢81歳の「盤寿」[注 5]での死去であり、死去日は将棋連盟が決めた「将棋の日」である11月17日だった[注 6]。12月13日の将棋連盟葬は、キリスト教式で行われた[15]。
江戸っ子としての粋にこだわる一面もあり、修行時代に木村の鞄持ちをしていたこともある芹沢博文によれば「昼食に鰻重が届くと、蓋を取って茶を注ぎ、しばらくすると上に乗った鰻を捨て、香の物をおかずに茶漬けを食べる」ことがしばしばあったという。「鰻をポイと捨てるところが通の食べ方である」と芹沢はその食べ方を絶賛している[16]。
弟子の花村元司と板谷四郎も木村同様多くの弟子を輩出し、系譜上には深浦康市(王位)、高見泰地(叡王)、藤井聡太(竜王・名人・王位・叡王・王座・棋王・王将・棋聖)らタイトル獲得者や、平成期以降も多くのプロ棋士が誕生している。長男の木村公正は、のちにプロとなる木村嘉孝とともに早稲田大学将棋部で活躍した[17]。三男の木村義徳もプロ棋士となったが、加藤治郎門下となり、系統は異なる(木村は関根金次郎、加藤は小菅剣之助の系譜)。
特に花村とは仲がよく、晩年まで共に仲良く競輪場へ通っていた。1985年に花村が先に亡くなると「(花村は)とてもよい弟子だがたった一つ悪いことをした。師匠より早く死んだことだ」と悲しんだという。
弟の木村文俊は駒師。妹の若子は女優松井須磨子の養女となり、のち俳人・川上梨屋の妻。妻・鶴子は実業家鶴森信太郎の娘。日本鋳銅取締役の鶴森亀蔵は義兄にあたる。先述の通り、三男・義徳も棋士となり順位戦A級八段まで昇級昇段(引退後に贈九段)。
木村には名勝負と呼ばれているいくつかの対局がある。それを以下に記す(段位、タイトルはその時点のもの)。
木村は将棋が強いばかりではなく、将棋普及にも尽くした。これまでの定跡書が素人には良く分からないとされていたのを改善し、名著『将棋大観』を著し、駒落ち定跡を定めている。現在でも『将棋大観』掲載の定跡は、「大観定跡」といわれ駒落ち将棋の基本となっている。また、平手戦でも数々の定跡を発見・確立した。
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開始 年度 |
順位戦 出典[22] |
竜王戦 出典[23] | ||||||||||||||||
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期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | 期 | 竜王 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 6組 | 決勝 T |
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1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||||||||||||
1937 | 【 第1期名人 】(第1期 番勝負の実施無し) | |||||||||||||||||
1938 | 【 第1期名人 】(第1期 番勝負の実施無し) | |||||||||||||||||
1939 | 【 第2期名人 】
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1940 | 【 第2期名人 】
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1941 | 【 第3期名人 】
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1942 | 【 第3期名人 】
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1943 | 【 第4期名人 】(第4期 番勝負の実施無し) | |||||||||||||||||
1944 | 【 第4期名人 】(第4期 番勝負の実施無し) | |||||||||||||||||
1945 | 【 第5期名人 】(第5期 番勝負の実施無し) | |||||||||||||||||
1946 | 【 第5期名人 】(第5期 番勝負の実施無し) | |||||||||||||||||
順位戦開始前↑(第5期名人まで) | ||||||||||||||||||
順位戦開始後↓(第5期名人在位) | ||||||||||||||||||
1947 | 1 | 名人 | -- | |||||||||||||||
1948 | 2 | A 01 | 7-7 | |||||||||||||||
1949 | 3 | A06 | 7-2 | |||||||||||||||
1950 | 4 | 名人 | -- | |||||||||||||||
1951 | 5 | 名人 | -- | |||||||||||||||
1952 | 6 | 名人 | -- | |||||||||||||||
第11期名人戦(第6期順位戦)を以って引退 | ( 棋戦創設前 ) | |||||||||||||||||
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 ) 順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。 竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。 |
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | (出典) |
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1945 | 7 | 5 | 2 | 0.7143 | |
1946 | 19 | 11 | 7 | 0.6111 | |
1947 | 23 | 11 | 12 | 0.4783 | |
1948 | 22 | 15 | 7 | 0.6818 | |
1949 | 23 | 14 | 9 | 0.6087 | |
1950 | 24 | 16 | 8 | 0.6667 | |
1951 | 37 | 20 | 17 | 0.5405 | |
1952 | 18 | 5 | 12 | 0.2941 | |
1953 | 1 | 0 | 1 | 0.0000 | |
1954 | 3 | 3 | 0 | 1.0000 | |
1955 | 5 | 4 | 1 | 0.8000 | |
1956 | 1 | 0 | 1 | 0.0000 | |
1957 | 2 | 1 | 1 | 0.5000 | |
1958 | 1 | 0 | 1 | 0.0000 | |
1959 | 1 | 0 | 1 | 0.0000 | |
1952年8月24日引退 |
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