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一龍斎貞友

日本の女性講談師、声優、ナレーター ウィキペディアから

一龍斎貞友
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一龍斎[注 1] 貞友(いちりゅうさい ていゆう、1958年昭和33年〉[6]6月20日[2][3] - )は、日本講談師声優である。師匠は講談師人間国宝一龍斎貞水[2]大阪府大阪市出身[1]。旧芸名鈴木 三枝(すずき みえ[7]1981年 - 1985年)、鈴木 みえ(読みは前の芸名と同じ[7][8]1985年 - 1998年)。声優から講談師に転向し、かつ声優業も継続して行う。

概要 いちりゅうさい ていゆう一龍斎 貞友, プロフィール ...
概要 別名, 師匠 ...
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経歴

要約
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以前は太陽プロモーション[9]、プロダクションエム・スリー[10]同人舎プロダクション[11]ウイットプロモーション[12]ぷろだくしょんバオバブ[13]センテナリア[14]に所属していた。

未熟児で生まれ、幼少期は体が弱く家にこもって本を読むことが好きで、「本の中に埋もれて暮らせたら」と考えていたほど将来は図書館司書になりたかったという[15][16]

父が厳格な家庭に育ち、「自由になりたい」という気持ちが強く「早く親元を離れたい」と考えるようになる[15][16]。小学校時代の国語の教師が芝居が好きで、授業で芝居のようなもことをしたことがきっかけだったといい、その時に「お芝居って楽しいかも」と思うようになった[15]

文章の音読は父の前でしており、作文、感想文は必ず書いた後父の前で発表しなくてはならず、チェックが入って手直ししてまた発表する感じだったという[15]

学校の教師になるという条件で、学校を受験し、合格したが、「このままでいいのかな」と疑問や限界を感じるようになって途中で中退[15]

両親としては小さい頃体が弱かったこともあり心配だったと思うが、あまりにも禁止事項が多すぎて自我が目覚めてきた頃には、その生活を続けていくことは無理だったと語り、学校中退した時には両親は相当失望していたという[15]

学校中退前に転がり込む友達にあたりをつけておいて、大阪から上京[15]。両親は、役者を目指すことについて絶対反対だったが、その時は諦念していたようだったという[17]。上京後、独り暮らしになってしまったが、色々なアルバイトをしていた[17]。友人がたくさん上京していたため、精神的には大丈夫だったという[17]。「演劇を学ぼう」と思い養成所を探し、1番の条件が月謝の安いところ見つけたススキダ演技研究所に入所[17]。本が好きだったこと、当時の夢はラジオなどで朗読のコーナーを持つことだったことから「朗読がしたい」と思っていた[17]。ラジオが好きで、「ラジオで朗読の仕事ができたら」と考えて、発声の訓練を受けており、本好きなため、「朗読の仕事を」と考えていたという[3][16]。色々なレッスンがあり、多くの人と何かを作っていくことが楽しかった[17]。狂言などはかじった程度だが、比較的得意であった[17]。当時のアルバイトは夕方から夜、もしくは早朝のものを選んでいた[17]

一番印象に残っていることは、先生が声優志望の人物たちに「アクセントが半年で直らなかったら声優になることは少し考えたほうがいい」と述べていたことであった[17]。一龍斎も関西生まれのため、アクセントを直さなくていけなかった[17]。このことは、標準語が話すことができると方言は武器になるが、逆はないことから一龍斎自身が講師をするようになっても「それはほぼ正しい」と語る[17]。父の転勤もあり方言を変えることには慣れて標準語も耳で聞き覚えることができたという[17]。その時、「他人より秀でた何かを持っていない私ができることは、やはり一つ一つのことを確実にクリアーにしていくことだ」と強く思った[17]。例えば外朗売りにしても一旦覚えてしまえば忘れないことから一気に集中して覚えたりしていた[17]

知り合いのナレーターが「声優のオーディションを受けてみないか」と声をかけてくれて、オーディションに合格し、1981年、『まいっちんぐマチコ先生』のまる子役で声優としての活動を始める[5][16][17]。『まいっちんぐマチコ先生』の時には共演の先輩から多くのアドバイスをくれたという[18]

声優養成所出身ではなく、声優になろうと思っていた訳ではなかったため、当初は声優の業界用語がわからずかなり戸惑っていた[16][17]。ほかの声優たちとの人間関係、一龍斎に対する評判などに気持ちが萎えてしまったこともあった[16]

現場では他の声優のやり方を見て勉強し、態度は大きかったようで、そのことでも色々だった[18]。当時は、目の前の仕事をこなすことが精一杯だったことから、他に気を回す余裕がなかったという[18]

活動当初はアニメが多かったため、外画の現場でヘッドホンをつけるのも忘れており、デビューして何本かまとめて仕事が決まっていったため、大変だった[18]

それでも、声優としての活動を途絶えることなく続けることができた[16]。しかし声優のレギュラーのオーディションのキャスティングの状況の厳しさの中で、「この仕事で自分はキャリアを積んでいけるのだろうか」という思いがあった[16]

新人の頃、一気に7本の番組が決まったが、7本とも終わってしまったという[18]。女性の場合、「キャリアを積むのは難しい」と感じており、そういった状況になった時に、他人をうらやんだりしないようにするためには「まず行動してアプローチしていかなくては」と思うようになったという[16][18]

1985年、芸名を鈴木みえに変更。

1992年、6代目一龍斎貞水に入門[1][5]1993年に初舞台[1][5]

講談の世界に入ろうと思った理由は声優のオーディションのキャスティングの状況の中で「どうしたらいいのか」と考えて声優の仕事を引退しても大丈夫なように朗読、司会の勉強、社員教育インストラクターの学校にも通っており、結婚式の司会を年間200組ぐらい担当したこともある[16][18]。結果的には声の仕事の魅力に勝る仕事には巡り会えず、「何か突拍子のないことを始めるよりしゃべりに関係することのほうがいいかな」と考えて周囲からは「これ以上新しいことを増やさないほうがいい」と言われていたが、「声優という仕事をリタイアしても、古典芸能なら女性でもキャリアを積んでいけるのではないか」と思い、「講談をやってみたい」と考えるようになる[18]。元々落語が好きで、後に師匠になる一龍斎貞水の講談を聞いて感銘を受けて「立体的に語るとはこういうことなんだ、この人はすごい!」と思い、弟子入りを決めたからである[16]。講談を始めた時は、周囲から反対されたという[19]

最初の5年間あまりは前座修業で、師匠の身の回りのお世話が主な仕事で、「一旦入門したからには腹を据えてやらなければ」と、必死で修業していた[16]。自分で決めたことだったことから、「厳しいことに直面 しても引くに引けない」という覚悟があったという[16]

1996年、二つ目昇進[1][5]

1999年、芸名を鈴木みえから一龍斎貞友に改名。

2004年真打昇進[1][5]。昇進披露パーティーは東京ドームホテルに600人を招いて盛大に行われた[20]

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人物

要約
視点

講談師になる前は滅多に顔出しはしていなかったが、『忍たま乱太郎』のイベントには他のメインキャストと参加していた。

講談師として真打に昇進した際は、『クレヨンしんちゃん』原作コミックの41巻38頁に作者である臼井儀人からの「祝・真打★貞友」というメッセージが載せられた。

講談を学んだことで声優として意識が変わったりことはあり、一つ目は講談の師匠に「お前の芸は“引いてしまう芸”だ」と指摘されたことがあった[19]。気が小さく、「もっと押し出していけ」といわれ、はっとしていたという[19]

講談では声の仕事のように「声を変えるのがせこい」と言われ、習性でキャラクターで声を変えていき、2008年時点では、「“持ち味”として活かしなさい」と許しがでているという[19]。講談を始めてからは、ナチュラル&リアリティのシーンの距離感、思いなどを伝えるのに、今まで以上に奥の深い部分を意識するようになった[19]

語られない深い部分を「凝縮して台詞として表現したい」と思うようになり、間尺など、色々と制約がある中でいかにリアリティを出すかということを師匠から学んだと語る[19]。自分自身の目標をたてる時に、近い目標と遠い目標の2つを同時に立てるようにしている[21]

師匠の手伝いなど内弟子としての仕事があったことから、声優としての仕事はかなり抑えなければならなかった[19]。本気で学ばなくてはならないことからカルチャーショックの連続で、我慢しなければいけなかったこともたくさんあったという[19]。講談をするようになり、声優の仕事の大切さ、好きな気持ちを、意識できるようになったという[19][22]

講師としても活躍しており、声優志望者にはどのように指導することについては、現場で迷惑をかけない最低限のことをしっかり教えようと語る[22]。基本的な発声、滑舌、鼻濁音、無声化などはもちろん、それと同時に役をどう捉えるのかもしっかりと学んで欲しいと語る[22]

初心者には、初めは外朗売りを教えている[22]。あとは「沢山の本を読んでください」と話しており、「黙読すること、音読すること、並行してやってほしい」と語る[22]

声で表現するということが見えてくることからよく画面を見ないで、「声だけ聞いてごらんなさい」とアドバイスをしている[23]

『忍たま乱太郎』をはじめ、『ちびまる子ちゃん』『クレヨンしんちゃん』など、長寿アニメのレギュラーキャラクターを担当[14]

2017年から川崎大師にて「三土の会」と称する独演勉強会を開始。

特技はバレエピアノ日本舞踊大阪弁京都弁山形弁[4]

語りの恩師として加藤精三を挙げている[24]。加藤は厳しい性格であり、自身にとって日常も役柄も変わらず恐い存在であったが、『忍たま乱太郎』で共演して距離感も縮まってとても嬉しかったという[24]。「やっぱり自分が表現者としてどういう風にやっていくかっていうのをすごく突き詰めていらした方なので、一緒にできてよかったなって思っています。加藤さんからはいろんな根本的な土台を教えていただきました」と2024年のインタビューで語っている[24]

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出演

要約
視点

太字はメインキャラクター。

テレビアニメ

1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
1999年
2000年
2001年
2003年
2004年
2005年
2006年
2008年
2009年
2013年
2015年
2016年
2018年
2024年
2025年

劇場アニメ

1981年
1985年
1986年
1988年
1990年
1991年
1992年
1993年
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2011年
2012年
2013年
2014年
2015年
2016年
2017年
2018年
2019年
2020年
2021年
2022年
2023年
2024年
2025年

OVA

1988年
1989年
1990年
1991年
1995年
  • うるるちゃんのかずあそび(ポポロ)

Webアニメ

ゲーム

1994年
1995年
1996年
2000年
2001年
2003年
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2011年
2013年
2014年
2017年
2018年
2021年
2024年
  • クレヨンしんちゃん 「炭の町のシロ」(マサオくん)
2025年
  • プロミス・マスコットエージェンシー(タマげっ太、ナツカッシー)

吹き替え

担当女優

ジュリー・ウォルターズ

映画

ドラマ

アニメ

特撮

ラジオ

CD

ナレーション

テレビドラマ

テレビ番組

その他コンテンツ

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脚注

外部リンク

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