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参議院全国区
かつて参議院議員選挙の選挙区 ウィキペディアから
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参議院全国区(さんぎいんぜんこくく)とは、かつて日本の参議院議員通常選挙で採用されていた、全国を一つの選挙区とする選挙制度である。
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概説
全国を区域とする全国区は、1947年から1980年までの参議院議員通常選挙で、各都道府県を区域とする地方区と並んで設置されていた。候補者個人への投票によって、定数100人(1950年以降は半数改選のため改選数は50人ずつ)を選出していた。
全国区制を導入した理由は、法案が貴族院に提出された1946年12月に大村清一内務大臣が、「全国的に有名有為で優れた学識経験を持つ人材を簡抜することを主眼とし、職能的知識経験を有する者が選挙される可能性を生じさせることで、職能代表制を有する長所を採り入れることも目的としている」と説明している[1]。
全国が単一の選挙区であるため、ゲリマンダーや一票の格差の問題が生じることなく、全ての候補者が全国の有権者から等しい条件で審判が下される制度であった。
一方で、全国各地を回る必要があることから、選挙費用がかさむ制度でもあり、金権選挙になる傾向があり「銭酷区」、「八当七落」、「十当九落」などと皮肉られる問題もあった(金権選挙を参照)。実際に、労働組合・業界団体・宗教団体などといった大きな組織をもつ組織内候補や、知名度の高いタレント候補に有利な制度であった。また、夏に選挙が行われ、全国を回ることから体力の消費が非常に激しく、当選した候補者が選挙直後に死去する事例も発生し、「残酷区」とも揶揄された。
全国から票を得られるので他の当選者の数倍の得票を得た候補者もいたが、単記非移譲式投票であるため議席を一つしか得られず、取り過ぎて余った票(広義の死票)が目立つ制度でもあった。また、有権者は多数の候補者の中から票を投じる相手を選ばなくてはならない(定数50人に対して、だいたい90人から110人が立候補していた)ために、有権者に候補者との距離を遠く感じさせる選挙という意見も存在した。
以上の問題点により、1983年の参院選からは政党名で投票する拘束名簿式の比例代表制に変更され、参議院比例区となった。全国区には無所属での立候補が可能だったが、比例区では不可能となった。2001年以後は現在の非拘束名簿式による比例代表制に変更されたため、実質的に全国区制が復活したと指摘する意見もある。
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選挙結果
要約
視点
全国区上位当選者
全国区下位当選者
第2回以降は欠員補充のため下位当選の何人かが半期(任期3年)議員となっている(背景ピンクの候補者)。なお第3回参院選で当選した楠見義男は1954年10月の栃木県佐野市での再選挙の結果落選。次点だった平林剛が半期議員として当選した。また第4回参院選で当選した小西英雄は1959年2月に東京高裁の当選無効判決[2]について最高裁で上告が棄却され判決が確定し議員を退職[3]。次点だった上条愛一が半期議員として当選した。
全国区上位落選者
背景青の候補者は、後に繰り上げ当選した候補者。第3回参院選で次点だった平林剛は1954年10月の再選挙で当選。第4回参院選で次点だった上条愛一は小西英雄の当選無効判決の確定により当選[4]。
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呼称
全国行脚による選挙活動で疲労し切って選挙戦中又は当選確定直後に倒れて死亡した候補者が実際にいたため、全国区ならぬ「残酷区(ざんこくく)」と揶揄されていた。また、全国を飛び回る交通費も膨大であったため「銭酷区(ぜにこくく)」とも呼ばれていた。以下にその実例を示す。
脚注
関連項目
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