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多田文久三

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多田 文久三(ただ ふくぞう、1921年7月8日 - 2006年9月1日[1])は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手投手捕手)・コーチ審判員評論家

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

要約
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プロ入りまで

高松商業では当初捕手であったが、上級生になると強肩を見込まれて投手にコンバートされた[2]。2年次の1939年甲子園連続出場で夏はベスト8まで進出し[3]、3年生の1940年にも春の甲子園でベスト8まで進んでいる。

現役時代

1941年に投手として東京巨人軍に入団し、2年目の1942年の途中に捕手兼任となり、3年目の1943年には高校の1年先輩であった楠安夫の応召を受けて正捕手となる。本職が捕手ではなかったために、エース・藤本英雄の低めに伸びる速球を取り損ねて、1年先輩にもかかわらず藤本にマウンドまで呼びつけられて、よく注意を受けた[4]。また、盗塁を刺すときの送球の加減ができず、遊撃手白石敏男グラブが送球の勢いに負けて後退してしまい走者タッチできずに盗塁を許してしまったり、4月には1試合に2度の打撃妨害、2度のファールフライ落球を経験している[5]。同年11月に応召され姫路三八連隊に入隊。

戦後に職業野球が再開されると、早速1945年東西対抗戦に選ばれ東軍の第一捕手として出場する[6]1946年に再び巨人に入団し現役復帰を果たすと、再び正捕手となって全試合に出場する。同年7月28日の対パシフィック戦では、先発捕手として諏訪裕良バッテリーを組むが、諏訪が6失点で降板すると、その場でプロテクターレガースなどを外してマウンドに上がり、相手打線を封じて勝利投手となっている[7]。しかし、1947年になると、前年度23勝の近藤貞雄が負傷、同21勝の藤本英雄中日へ移籍という状況の中で、多田は投手に再コンバート。川崎徳次(24勝)に次ぐ12勝、リーグ13位の防御率2.36の成績を残す。活躍のきっかけについて、投球時に身体が開き球離れが早くなってしまうことについて、偶然列車に乗り合わせた新田恭一に相談したところ、右体重を乗せるべきとのアドバイスを受け、実践したところ球持ちが長くなり低めへの制球が非常に改善されたという[8]。その後、1950年まで主戦投手として4年連続二桁勝利を挙げ、1949年は防御率3.34(リーグ9位)、1950年は防御率2.91(リーグ5位)と2年連続で個人投手成績ベストテンに入った。この間の1949年オフに三原監督排斥騒動が発生すると排斥派の中心となって活動し、三原脩が他球団への放出を画策している旨のを流して主軸打者の青田昇を排斥派に引き入れるなどしている[9]。結果、三原は総監督に祭り上げられて、高松商業の先輩である水原茂が新監督となった。尚、戦後、復員してから近鉄に移籍するまで7年間、上記の高松商業の先輩水原が召集されるまで背負っていた背番号「19」を背負っている。

肩を痛め1951年以降出場機会が減少するが、同年の南海との日本シリーズにあたって、投手も捕手も経験がありチーム全般を観察できるとして、多田は先乗りスコアラーとして対戦する南海の試合を偵察。柚木進江藤正中原宏エース級投手の配球投球時の山本一人蔭山和夫木塚忠助飯田徳治ら百万ドル内野陣の盗塁時のタイミングの取り方などを記載した「多田メモ」を作成する。巨人は日本シリーズでの南海の盗塁を僅か5個に抑えるなど、このメモが巨人の日本一達成に大いに役立ったという[10][11]

1954年芥田武夫監督に豊富なキャリアを買われて近鉄パールスへ移籍し[12]、同年は原勝彦と交互にマスクを被って捕手として81試合に出場するが、1955年限りで現役を引退。

引退後

引退後はパ・リーグ審判員(1956年 - 1957年[13]を経て、1958年には近鉄の一軍投手コーチを1年だけ務めた。近鉄退団後はスポーツニッポン評論家(1959年 - 1960年)を経て、1961年から1966年までは高松商業の先輩にあたる水原茂監督の下で東映フライヤーズの一軍投手コーチを務めた。東映では怪童・尾崎行雄を1年目から中心投手に育て、球団初のリーグ優勝・日本一に貢献。その後も手腕を発揮し、石川陽造嵯峨健四郎田中調永易将之宮崎昭二森安敏明を主戦投手に育てている[12]。その後は1968年から1969年にかけてパ・リーグ審判員を務め、1970年横浜市の橋本フォーミング工業に就職した[3]

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選手としての特徴

遠投105m手榴弾投げ85mの強肩で、左足を高く上げて真っ向から投げ下ろす速球と、落差の大きいドロップを武器とした。速球のスピードは、エース・川崎徳次より格段に速かったという[14]。但し、スタミナに欠け、試合終盤に息切れすることが多かった[12]

逸話

詳細情報

年度別投手成績

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年度別打撃成績

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  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 20 (1941年 - 1943年)
  • 19 (1946年 - 1953年)
  • 3 (1954年 - 1955年)
  • 40 (1958年)
  • 60 (1961年 - 1966年)
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参考文献

脚注

関連項目

外部リンク

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