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護国神社

国家のために殉難した英霊を祀る神社 ウィキペディアから

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護国神社(ごこくじんじゃ、旧字体護國神󠄀󠄁)は、国家のために殉難した人の英霊)を祀るための神社1939年昭和14年)に招魂社から改称[1][2]第二次世界大戦前は内務省によって管轄されていたが、第二次世界大戦後は独立の宗教法人となる[2]指定護国神社東京都神奈川県を除く道府県に建立され[注 1]、その道府県出身ないし縁故の戦死者自衛官警察官消防士等の公務殉職者主祭神とする。

概説

要約
視点

護国神社は、明治時代に日本各地に設立された招魂社が、1939年(昭和14年)3月15日公布、同4月1日施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年内務省令第12號)[1]によって一斉に改称して成立した神社である。「招魂社」の名称は、「招魂」が臨時・一時的な祭祀を指し、「社」が恒久施設を指すため、名称に矛盾があるとして護国神社に改称された[3][4]。「護国」の名称は、1872年12月28日(明治5年11月28日)の徴兵令詔書の一節「國家保護ノ基ヲ立ント欲ス」、1882年(明治15年)1月4日の『軍人勅諭』の一節「國家の保護に尽さば」など、祭神の勲功を称えるに最も相応しく、既に護国の英霊等の用語が用いられて親しみも深い、との理由で採用された[5]。護国神社の総数は、1939年(昭和14年)4月時点で131社とされている[6]

社格は、護国神社制度導入と同時に改正された「府縣社以下神社ノ神職ニ關スル件」(明治27年勅令第22號)第1條第1項により[7]内務大臣が指定した府県社に相当する指定護国神社と、それ以外の村社に相当する指定外護国神社に分けられる。1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言受諾により、日本がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領統治下に置かれると、護国神社は軍国主義施設とみなされ、存続を図るために名称から「護国」の文字を外すなど改称を余儀なくされた[注 2]。改称した神社は、1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約が発効して日本が主権を回復すると、大多数は旧社名に戻している。第二次世界大戦後、いくつかの指定護国神社は神社本庁別表神社となっている。

各護国神社の祭神は靖国神社[注 3]の祭神と一部重なるものの、靖国神社から分祀された霊ではなく、独自で招魂し祭祀を執り行っている[注 4]。そのため、公式には護国神社は「靖国神社とは本社分社の関係にはない」とされており、護国神社制度の創設にあたり、内務省神社局も「別格官幣社靖國神社と護國神社とは、(略)全く別個のものであって、護國神社は靖國神社の分社又は分霊社ではなく、護國神社の御祭神は靖國神社の御祭神の一部を別に奉祀することになってゐる」と明確に否定している[5]。しかし、共に英霊を祀る靖国神社と護国神社とは深い関わりがあり、各種の交流もある。主要な護国神社52社で組織する全國護國神社會(旧・浦安会)は靖国神社と連携し、英霊顕彰のための様々な活動を行っている。なお、沖縄県護国神社では沖縄戦で犠牲になった一般住民、遭難学童及び文官関係戦歿者も祭神として祀られている[8][9]。また、広島護国神社では原子爆弾の犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒女子挺身隊員等約一万柱も祭神として祀られている[10][11]

第二次世界大戦後のGHQによる神道指令発令後、国家が神社に指揮監督する権限が無くなり、護国神社の祭神を靖国神社の祭神と定めた法令は失効した。

法令の失効や、GHQの宗教行政顧問だった岸本英夫東京帝国大学文学部助教授(当時)の示唆もあり、一部の護国神社でその護国神社に祀られるべき靖国神社以外の御祭神を奉祀する例が出始めた[12]。郷土の偉人や殉職自衛官を祀る護國神社は全部で札幌、秋田、新潟、福島、栃木、山梨、長野、富山、石川、福井、松江、愛媛、香川、徳島、高知、山口、佐賀、大分、長崎、熊本、宮崎、鹿児島、沖縄の計23社に及ぶ[13]

島矢大嗣の『護國神社における殉職自衛官の相殿奉斎等の詮衡の一考察』によれば「殆どの護國神社で靖國神社以外の御祭神を奉祀する際には、本殿とは別の御神体に奉祀され明確に区別されてきた。」と指摘している[13]

1960年(昭和35年)に全国の護国神社52社に対して昭和天皇香淳皇后より幣帛が賜与されて以降、1945年(昭和20年)から数えて10年ごとに幣帛の賜与が続けられている。

また、1957年(昭和32年)、昭和天皇香淳皇后第12回国民体育大会出席のため静岡県に行幸啓した際に、静岡県護国神社の第一鳥居前で拝礼を行い[14]、その後、1960年代までは、天皇・皇后が全国各地で開催される全国植樹祭国民体育大会に出席する際などに、各地の護国神社を行幸啓先の一つとする例が見られた[15]

護国神社は、建立以来、主として戦没者の遺族会戦友会が運営的・財政的に支えてきた。しかし、戦没者を直接知る遺族や戦友たちの高齢化とともに、その数は減りつつあり、財政的危機に見舞われる護国神社が増えると見られている。そのため、旧指定護国神社を中心に崇敬会・崇敬奉賛会を設立している。なお、東京都目黒区五本木に存在した目黒護國神社は、1959年(昭和34年)10月に目黒護国神社崇敬会を設立して管理していたが、役員が亡くなって引き継ぐ管理者もなかったため、目黒区の外部監査で指摘を受け、2008年平成20年)5月に取り壊されている[16][17]

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沿革

幕末長州藩薩摩藩等では、国事殉難者・戦没者の霊を祀るために招魂場を設けて招魂祭を営んでいた。朝廷においても1868年6月29日(慶応4年5月10日)の太政官布告第385條[18]・第386條[19]により、1853年嘉永6年)以来の国事殉難者と伏見戦争以後の戦死者を京都東山に建立した祠宇(霊山官祭招魂社、後の京都霊山護国神社)に合祀した。また同年7月21日(慶応4年/明治元年6月2日)には、東征大総督有栖川宮熾仁親王江戸城大広間において官軍戦没者の招魂祭を実施した。同様に各地の藩主等も所属藩士の戦没地または縁故の地に招魂場を設けて祭祀を行った。翌1869年(明治2年)には東京九段坂上に「東京招魂社」(後の靖国神社)が創建され、戊辰戦争以来の戦没者を合祀した。

1871年(明治4年)の廃藩置県により、旧藩主又は人民の私設した招魂場は明治新政府の管掌下に置かれ、1874年(明治7年)には招魂場敷地の地租免除と、祭祀料・営繕費の官費支給が定められた[20]1875年(明治8年)には、1853年(嘉永6年)以来の英霊を東京招魂社へ合祀することになったが[21][22]、各地の招魂場は従来通り存置されるとともに、社号招魂社に統一された[23]。なお、1879年(明治12年)6月4日に東京招魂社は靖国神社と改称し、別格官幣社に列せられている[24]

1901年(明治34年)には官費支給対象の招魂社に「官祭」を冠することが定められ[25]、支給対象外の招魂社は「私祭招魂社」と呼んで区別した。日清日露戦争後、私費による招魂社(私祭招魂社)創建の出願が増えたため、内務省神社局1907年明治40年)に「招魂社創建ニ關スル件」(明治40年2月23日秘甲第16號内務省神社局長依命内牒)で招魂社の設置基準を定め、その祭神は靖国神社合祀の者に限る等の制限を加えて創建を抑制した。しかし、1931年昭和6年)に満洲事変1937年(昭和12年)に支那事変日中戦争)が勃発すると、戦没者の霊を郷土で祀りたいという要望が各地で高まった。

1939年(昭和14年)の「招魂社ノ創立ニ關スル件」(昭和14年2月3日発社第30號神社局長通牒)で、一部の例外を除いて各道府県に1社のみ創立を許可することとし、同年4月1日に施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)で招魂社を護國神社と改称、それまで曖昧だった神社としての制度を明確にした。

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指定護国神社

要約
視点

指定護国神社は、1939年(昭和14年)4月1日の「護國神社指定」(昭和14年内務省告示第142號[26]。1894年(明治27年)勅令第22號「府縣社以下神社ノ神職ニ關スル件」[7])により内務大臣が指定した下記34社の護国神社で、以後必要に応じて追加指定され、太平洋戦争末期までに51社が指定された。このほかに内務大臣指定護国神社に相当する、樺太庁長官指定の樺太護國神社豊原市)、台湾総督指定の台湾護國神社台北市)、朝鮮総督指定の京城護國神社京城府)及び羅南護國神社清津府)が存在した。

さらに見る 神社名, 鎮座地(指定当時、官報記載順) ...

指定護国神社は1府県1社を原則として指定されたが、崇敬地域の広い北海道は3社が指定され、岐阜県兵庫県島根県広島県は2社が指定された[注 5]。これは、県内に複数の陸軍聯隊区が存在して各々の地元意識が強く、県内1箇所に調整できなかったことに起因する。例えば広島県の場合、福山市備後国歩兵第41聯隊)と広島市安芸国歩兵第11聯隊)にそれぞれ1社ずつ存在する。なお、全国の英霊を祀る靖国神社のある東京都には指定護国神社は存在しない[注 6]。また、社名については指定護国神社以外は道府県名を冠することが出来ない。なお、指定護国神社の中で社名に道府県名を冠していない県は島根県のみである。

このうち、神奈川縣護國神社、宮崎縣護國神社熊本縣護國神社の3社は1945年(昭和20年)8月15日時点で完成に至らず、日本の敗戦に伴い造営が中止された。

神奈川縣護國神社は、1942年(昭和17年)7月27日、横浜市神奈川区三ツ沢西町・南町(現在の三ツ沢公園)に創立許可を得て社殿造営が開始されたが[27]、完成間近の1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲により焼失した。第二次世界大戦後も再建されず、神奈川縣護國神社跡地には、1953年(昭和28年)3月に横浜市戦没者慰霊塔が建てられた。また、同年11月5日竣工した神奈川県戦没者慰霊堂(横浜市港南区最戸)には戦没者及び戦災死者5万8千余名の名簿が納められ、毎年5月10日に神奈川県主催の神奈川県戦没者追悼式が行われるほか[28]、多宗教による合同祭祀が行われている。なお、神奈川県内での護国神社の役割は横浜市西区宮崎町に鎮座する伊勢山皇大神宮(神奈川県宗社・横浜総鎮守)が担っており、1879年(明治12年)に境内に建立された、西南戦争での神奈川県出身戦没者の慰霊碑である「明治十年西征陣亡軍人之碑」は「野毛山招魂社」と呼ばれ[29]、秋には県主催の神奈川県戦没者慰霊祭[注 7]が執り行われていた[30]大正期には、県の殉職警察官・消防官の慰霊祭も行われ、その奉納行事として撃剣競技の大会も開催された。戦時下になると、県主催の戦勝祈願祭や戦勝奉告祭が度々行われた[要出典]

2012年(平成24年)、有志により「神奈川縣護國神社を再創建する會」が組織され[注 8]2018年(平成30年)5月29日に神奈川縣護國神社が仮宮として創建、2020年令和2年)12月5日に鎌倉市台4-1199-19の地に鎮座(遷座)している[31][注 9]

宮崎縣護國神社は、1943年(昭和18年)4月23日、宮崎市下北方町に創立許可を得て造営に着手したが[32]、勤労奉仕による整地作業が終わり建築用材及び建設資金を集めた時点で終戦を迎えたため、GHQ宮崎軍民政部長官の厳命で建設放棄を余儀なくされた。主権回復後の1953年(昭和28年)4月に宮崎県護国神社再建奉賛会を組織して再建に着手し、宮崎神宮の境内に建設された。1955年(昭和30年)3月10日竣工、同日鎮座祭が斎行された。

熊本縣護國神社は、花岡山招魂社から改称して、新社殿建設のため熊本市黒髪町立田山山麓に県民奉仕により1万坪の新社地を造営し、1944年(昭和19年)3月5日に内務大臣の許可を得て新社殿の造営に着手したが、終戦に伴い中止された。1953年(昭和28年)5月11日、造営予定地だった立田山山麓から現在地の藤崎台招魂祭場跡に造営敷地が変更された。1955年(昭和30年)1月7日に熊本県護国神社御造営奉賛会が設立されて同年10月着工、1957年(昭和32年)4月末に竣工。同年5月10日に御鎮座大祭が斎行された。

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論争

自衛隊発足後、殉職した自衛官も護国神社に祀られるようになり、合祀申請は自衛隊地方連絡部(現・自衛隊地方協力本部)協力の下、社団法人隊友会により行われるようになった。しかし、第二次世界大戦前と同様に合祀・合祀申請ともに遺族の同意を一切求めず行われるため、クリスチャンである殉職自衛官の妻が宗教人格権を侵害されたとして、合祀の取消と損害賠償等を請求する事態に発展したことがある(山口自衛官合祀訴訟・最大判昭和63年6月1日民集第42巻5号277頁[33])。

主な護国神社

要約
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さらに見る 社名, 所在地 ...

大田原神社境内に鎮座していた大田原護国神社は、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災で全壊して取り壊されたが、大田原神社境内に祠が再建されている[49]

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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