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日本アイ・ビー・エム
米国IBM社(IBM Corporation)の日本法人 ウィキペディアから
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日本アイ・ビー・エム株式会社(にほんアイビーエム、日本IBM株式会社、英文表記:IBM Japan, Ltd.)は、東京都港区虎ノ門に本社を置く、アメリカのテクノロジー企業であるIBM(IBM Corporation)の日本法人。
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米IBMの完全子会社である有限会社アイ・ビー・エム・エイピー・ホールディングス(APH。後述のIBM APとは別の日本法人)の完全子会社であり、米IBM社の孫会社にあたる。
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概要
日本IBMはアメリカの外資企業で、米IBM社の孫会社。創立は戦前の1937年、多数の日本人従業員を抱え国内企業との合弁を含む多数の関連会社を展開している、コンピュータ関連サービス企業である。
戦後から1980年代まではコンピュータのハードウェアやソフトウェアのメーカーであった。当時の通産省が国産メーカー保護育成政策を取っていたことも背景に、日米コンピュータ戦争の当事者や、IBM産業スパイ事件の関係企業ともなった。
1975年からの椎名武雄社長時代には、「Sell IBM in Japan, sell Japan in IBM.」や「社会とともに」[1]を標語として、日本市場に合った製品・サービスの提供による日本の産業界への貢献を通じて「日本の企業」として認知されることを目標とした結果、規模の拡大が進み、社員は1万人、売上は1兆円を超え、最盛期には1兆7千億円を超える収益を達成した[2]。
日本市場の特殊性もあり、世界のIBMグループの中でもユーザーのシステム構築に深く参加したケースが多かったことも特徴である。現在ではIBMは世界レベルでもサービス事業の比率が売上の6割となったが、そのベースとなった。SI(システムインテグレーション)事業は、日本IBMが先行していた分野とされる。
かつて日本IBMで開発された製品は世界で展開されていた(詳細は日本IBM大和事業所を参照)。外部との交流も多く、プロジェクトマネジメント学会で日本IBM社員が多数を占めていた[要出典]、日本IBM出身者が他の外資系企業の経営者となるケースが多かった[3]、などとも言われる。
大歳卓麻社長体制で21世紀に入って以降は、経営方針を一転した。
GIE[4]の実践として、日本法人の独立性・独自性を排し、役員・部長レベルの主要幹部職へ米IBMやアジアからの多数の駐在員(IBMでは「アサイニー」(assignee)とよぶ)や社外からの人材を登用し[5]、IBM Corporation全体としての組織・製品・サービスの最適化による効率(利益)の最大化を追求している[6]。具体的には、米IBMの「2015年通期でのEPS20ドル以上達成」[7]への貢献を最優先の経営目標としていたが、2001年以降12期連続の減収決算でピーク時のほぼ半分まで売上が減収し続けたため、利益確保のために、恒常的な事業売却とリストラや昇進・昇給の凍結、減俸[8]を含む徹底的なコスト削減努力を続けた[9][10]。2012年5月15日、同社として56年ぶりとなる2人目の外国人社長が就任した頃から、売り上げ減少には歯止めがかかった。(業績の数字については#業績の推移を参照)2014年には、全国4カ所に支社を配置した[11]。
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主な事業
→「IBM § 主な事業」を参照
沿革
要約
視点
歴史
第二次世界大戦前

- 1923年 - 森村商事のニューヨーク出先機関(森村ブラザース)が生産管理の合理化を検討していた日本陶器(同じ森村グループで、現在のノリタケ)の製造担当重役を現地の事務機見本市に案内。水品浩がパンチカードシステム(統計会計機)の比較研究を担当し、IBMの製品を薦める[12]。
- 1925年 - 森村商事が日本におけるIBMの独占販売代理店権を獲得。最初のIBM製パンチカードシステムが日本陶器に設置される。
- 1927年 - 業績不振や事業方針の不一致から森村商事に代わって黒澤商店が代理店となる。
- 1937年6月17日 - IBM海外事業部(ヨーロッパ・ディビジョン)から派遣されたG.D.シュバリエを代表取締役、貿易業の経営を始めた渋沢智雄を社長としてIBMの完全子会社「日本ワットソン統計会計機械株式会社」設立[13]
- 1942年 - 敵産管理法による「敵国資産会社」の指定を受け、全資産を日本政府に凍結される。保守サービスは新設された国策会社の「日本統計機株式会社」が引き継ぐ。
第二次世界大戦後

- 1949年 - 日本ワットソン統計会計機械の財産と営業権が返還される。IBM本社のチャールズ・M・デッカー(元・日本ワットソン統計会計機械の機械部門担当)が社長に就任。従業員数は66人[13]。
- 1950年 - 商号を「日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズ株式会社」に変更。
- 1953年 - 南糀谷工場(東京都大田区、木造)を開設。パンチ・カード・システム(PCS)を製造。
- 1956年 - 水品浩が社長就任
- 1959年2月 - 商号を「日本アイ・ビー・エム株式会社」に変更
千鳥町工場で組み立てられるSystem/360(1966年) - 1959年9月 - 千鳥町工場(大田区、鉄筋コンクリート製)1期工事が竣工。PCS、IBM80欄カード、後にIBM 1440コンピューター、IBM System/360コンピュータなどの製造。
- 1960年3月 - 鈴木信治副社長が社長就任
- 1962年10月 - 稲垣早苗営業担当副社長が社長就任
- 1964年4月 - 初の集積回路とOSを大々的に採用し、商業・科学計算両用のSystem/360コンピューター・シリーズを発表
- 1967年 - 藤沢事業所(工場)(神奈川県)開設
- 1969年 - ハードウェア価格から、ソフトウェア価格、教育価格などを分離(アンバンドリング)
- 1971年 - 野洲事業所(工場)(滋賀県)、および、旧本社ビル(東京・六本木)開設
- - 漢字情報システムを発表
- 1972年 - 日本開発研究所を開設。後の藤沢開発研究所(1975年)、大和開発研究所(1985年)
- 1973年9月15日 - 沖縄県那覇市にあった支店を廃止
- 1975年2月 - 椎名武雄が社長就任
- 1981年 - 世界で唯一の、半導体からメインフレームまでのコンピュータ一貫生産体制を野洲工場にて確立
- 1982年 - IBMとしてアジア地域の最初の基礎研究所である東京基礎研究所(東京・三番町)開設
- 1983年 - 日本語PC、文書処理、コンピュータ端末機の機能「三役」を備えたマルチステーション5550を発売
IBM JX - 1984年 - 個人用パソコンIBM JXを発売開始。
- - 大型コンピュータ上で動く統合オフィスシステム(電子メール、スケジュール、文書処理・保管・検索)を発売開始。
- 1985年 - 大和事業所(研究所)(神奈川県)開設。世界向けおよび日本/アジア太平洋向けの藤沢開発研究所を移転
- 1987年
- 1989年 - 椎名武雄がIBM CorporationのVice Presidentに就任(日本IBM社長と兼務)(1993年に退任)[14]
- 1990年
- 1991年
- 1992年7月1日 - コンピューター・システム・リース株式会社を合併
- 1993年1月 - 北城恪太郎が社長就任 3 社 分割 した。
- 1995年
- 椎名武雄(当時会長)が経済同友会副代表幹事と、総理府行政改革委員会規制緩和小委員会座長に就任[15]
- 国内売上高が初めて1兆円を突破(1兆197億1,200万円。輸出を含む総売上高は1兆3,087億3,400万円)[15]
- 日本市場専用であったコンシュマー向けパーソナルコンピュータ製品のPS/Vを、全世界共通ブランドのAptivaとして一新
- 7月、日本アイ・ビー・エム情報システム株式会社・アイ・ビー・エム流通サービスソリューション株式会社・アイ・ビー・エム金融ソリューション株式会社・アイ・ビー・エム公共ソリューション株式会社を合併
- 1996年 - 東芝との共同出資子会社会社であった液晶ディスプレイ製造会社のディスプレイ・テクノロジー株式会社(DTI)を米IBM直轄に変更
- 1998年 - 長野冬季オリンピックにおけるTOP4スポンサーとしてITシステムを提供
- 1999年12月 - 大歳卓麻が社長就任。北城恪太郎は日本IBMの上部組織(当時)であるIBM AP(現:IBM Asia Pacific Services Corporation)のPresidentに就任(日本IBM会長と兼務)[16]
21世紀
- 2001年
- 総売上高1兆7,075億35百万円(うち国内売上高は1兆4,608億88百万円)、経常利益1,728億90百万円を、従業員数 21,671人(年度末)で達成。これは売上、利益とも日本IBMとしての過去最高の業績である(2012年現在)[17]
- コンシュマー向けパーソナルコンピュータ市場から事実上撤退[18]
- 台湾の奇美グループと合弁会社・インターナショナル ディスプレイ テクノロジー株式会社(IDTech)を設立し、液晶ディスプレイ開発部門を野洲事業所(工場)から移籍
- セイコーエプソンと合弁会社野洲セミコンダクター株式会社(YSC)を設立し、半導体生産部門を野洲事業所(工場)から移籍
- DTIを東芝に売却。東芝モバイルディスプレイ株式会社が発足[19]
- 2002年 - 確定拠出年金制度を導入し、退職金制度を改訂[20]
- 2003年
- 北城恪太郎が経済同友会代表幹事に就任したため、IBM AP Presidentを退任
- 野洲事業所(工場)のプリント基板生産部門を京セラに売却、京セラSLCテクノロジー株式会社が発足
- HDD事業(藤沢事業所〈工場〉)を会社分割法により日立に売却、株式会社日立グローバルストレージテクノロジーズが発足
- 2004年
- 2005年
- 2006年 - YSCをオムロンへ売却[25]
- 2007年
- 2008年
- 2009年
- 2010年
- IBMホームページ・ビルダーの著作権・商標権をジャストシステムに売却[32]
- IBMビジネスコンサルティングサービスを日本アイ・ビー・エム株式会社へ統合[33]
- ソフトウェア事業のPLM事業部を、会社分割法によりダッソー・システムズ株式会社へ売却[34]
- 年齢別最低保障給を廃止
- 2011年
- 2012年
- IBMホームページリーダーの営業活動を終了[37]
- リテール・ストア・ソリューション事業(POSシステム関連事業)の東芝への売却が発表[38]
- 5月 - マーティン・イェッターが社長就任。日本IBM56年ぶりの外国人社長となる
- 100%子会社の日本アイビーエム総務サービス株式会社(IGAS)をジョーンズ・ラング・ラサール株式会社に売却[39]
- 大和事業所を閉鎖
- 2013年 - 相対評価で下位15%の約2,000名の社員に対する10% - 15%の定期減給を制度化[40]
- 借り上げ社宅制度の廃止と住宅手当の本給への組み込み
- 2014年
- 2015年1月 - プロ野球選手与那嶺要の息子で日系三世のポール与那嶺が社長就任[45]
- 2017年4月 - エリー・キーナンが社長就任
- 2019年5月 - 山口明夫が社長就任
- 2021年9月 - ITのインフラストラクチャー・サービス部門を分社化し、キンドリルジャパン(株)として独立。日本IBMとの資本関係はない。
- 2024年1月 - 箱崎事業所から虎ノ門ヒルズ ステーションタワー(東京都港区)に本社を移転[46]
歴史的プロジェクト
日本IBMが参加したコンピュータ史上に残るプロジェクトには以下がある[47]
- 1964年 - 東京オリンピックで、中央にIBM 1401・IBM 1440の二重システム、各会場にIBM 1050端末システムを置いた、オリンピック史上初の競技結果集計オンラインシステム
- 1965年 - 三井銀行(現:三井住友銀行)による、世界初の銀行オンラインシステム
- 1968年 - 八幡製鐵(現:日本製鉄)君津製鐵所による、世界初の鉄鋼業の生産管理オンラインシステムであるAOL[48][49]
- 1971年 - 日本経済新聞および朝日新聞による、世界初の日本語対応の新聞製作システム[50][51]
- 1998年 - 長野オリンピックでの、世界最大規模のWebサイト(合計ヒット数:6億4630万件(期間:2月7日 - 22日) 1分間当たりの最多ヒット記録:103,429ヒット/分)
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業績の推移
要約
視点
戦後すぐの1952年の売上高は5億円(従業員は200人)で、おもにパンチ・カード・システムのリース収入であった。1960年には米国IBMが日本企業(富士通、NECなど)にコンピュータ関係特許使用を開示する代わりに日本IBMの国内コンピュータ製造を認められて、System/360の寄与もあり急激に業績を伸ばし、1974年には売上高は2千億円(従業員1万人)で、日本企業の申告所得ランキングで上位20社に入る大企業になった。1987年には初めて売上高1兆円に達した[52]。
こうして1980年代までは毎年2桁成長をしてきた日本IBMは日本コンピュータ企業の追い上げとダウンサイジングの影響もあり、1991年には売上成長もマイナスに転じ、1993年にはリストラ費用も含めて初めての赤字、翌年からは業績の回復を経験している。最近の業績は次の通り。
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子会社・関連会社
要約
視点
主な子会社・関連会社・合弁会社には以下がある。なお、これらを中心とした同社の現時点での出資先企業についてはIBMおよび日本IBMについて - 日本 | IBMを参照。
子会社
日本国内の主な子会社には以下がある。
- 日本アイ・ビー・エム システムズ・エンジニアリング(ISE)
- 日本アイ・ビー・エムデジタルサービス(IJDS)
- 日本アイビーエム・ビジネスサービス株式会社(IJBS)
- 日本アイ・ビー・エム プロキュアメント・センター(IPC)
- 日本アイ・ビー・エム テクニカル・ソリューション(TSOL)
関連会社
日本国内の主な関連会社には以下がある。
- レノボ・ジャパン合同会社
- 日本情報通信株式会社(NI+C)
- 日本物流開発株式会社(JLD)
合弁企業
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事件・ニュースと訴訟
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その他
- マニュアル等で独特の用語(本社の用語に準じるため)や訳語を使うことがある。
- 「ディスケット」 - フロッピーディスクのこと。ディスケットはIBMの商標であるため。
- 「DASD」 - Direct Access Storage Deviceの略で「ダスド」と発音される。磁気ディスク装置(ハードディスク)のこと。DASDは本来は直接アクセス方式の補助記憶装置全般を指す用語だが、現在では磁気ディスク装置と事実上の同義語となった。主にメインフレームで使われる。
- 「Fixed disk」(固定ディスク) - これもハードディスクの事。本来はディスクが取り外し・交換できるディスクドライブ装置に対し、できないものを指す語。
- 1980年代までは、キーボードを「鍵盤」、ディスプレイを「表示装置」、プリンターを「印刷装置」と訳していた。これらは当時の現地化・日本語化の推進による
- OS/2(バージョン2までの日本語版)では、電源オフ(シャットダウン)を「遮断」と訳していた
- かつて存在した大和工場・野洲工場には硬式野球部を有していた。野洲硬式野球部は、アメリカンフットボール部とラグビー部とともに、1989年に強化スポーツ部に指定されたが、野洲硬式野球部は2003年に廃部、ラグビー部は2009年に指定解除されている。
- IBMが「巨人」と呼ばれていた頃には、日経BPより「日経ウオッチャーIBM版」というIBMの動向だけに焦点を当てた定期刊行物が発行されていた(1996年休刊)[127]。
- 20世紀にはコンシュマー向けのビジネスをしていたこともあって、檀ふみ、渥美清、森進一、森繁久彌、太宰久雄、糸井重里、藤田元司、田中美奈子、りょう、山口智子、所ジョージ、中谷美紀、香取慎吾、米倉涼子などを起用した日本独自の宣伝活動をしていたが、近年は全世界共通の宣伝キャンペーンを展開している。かつては「いい縁とりもつコンピューター」、「社会とともにIBM」のキャッチコピーもあった。
- 2000年代初頭までは、大学生が就職を希望する企業に関する各種調査において上位にランクされていた[102]。
- 2021年度に1000人以上を中途採用することを発表した[128]。
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主な出身者
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スポンサー番組
現在
※系列局がない宮城県や新潟県、静岡県、広島県、熊本県において、別番組にも提供している。
過去
- JNN報道特集(TBS)
- 報道2001(フジテレビ)
- 報道ステーション(テレビ朝日、水曜日)
- 知ってるつもり?!(日本テレビ)
- 情報ライブ EZ!TV(フジテレビ、関西テレビ)
- NNNきょうの出来事(日本テレビ)
- NEWS ZERO(日本テレビ)
- 真相報道 バンキシャ!(日本テレビ)
- 木曜洋画劇場(テレビ東京)
- たけしの誰でもピカソ(テレビ東京)
参照
関連項目
外部リンク
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