トップQs
タイムライン
チャット
視点

岩崎宏美

日本の女性歌手 (1958-) ウィキペディアから

Remove ads

岩崎 宏美(いわさき ひろみ、1958年昭和33年〉11月12日[1] - )は、日本歌手女優声優東京都江東区深川出身[2]。所属事務所はスリージーカンパニー。レコード会社はテイチクエンタテインメント(所属レーベルはインペリアルレコード)。妹は歌手の岩崎良美。元夫はミュージカル俳優の今拓哉[3]愛称は、ヒロリン。

概要 岩崎 宏美, 出生名 ...
概要 YouTube, チャンネル ...

1975年のデビュー以来、圧倒的な歌唱力[4][5][6]で数々のヒット曲を発表し、特に『ロマンス』『聖母たちのララバイ』は、共に80万枚から100万枚を超える売り上げを記録するなど日本を代表する実力派歌手の一人[7][8]。また、海外公演の開催やミュージカル作品への出演もおこなっている。

Remove ads

略歴

要約
視点

生い立ち

東京都江東区木場で製材用の機械を製作する会社の経営者の次女として1958年11月12日に誕生した[2]。3姉妹の次女。警察の師範も務めた父の影響で、幼い頃から姉妹で剣道を習った。

成城学園初等学校入学した後、小学2年生の頃に音楽教師から勧められて習い事の一環として、同教師主宰の合唱団に所属して歌を習い始めた[9]。小学5年生の校外学習で行った長野の宿舎にジュークボックスがあり、興味本位で目をつむった状態で選曲したところ、ジャクソン5の「ABC」がかかり、そのかっこよさに衝撃を受け、歌手に憧れるようになった[9]

成城学園中学校へ進学後、歌手を目指し松田トシに師事した[10]。芸能界の入り方が分からずに悩んでいたところ、中学校の同級生・岡村清太郎との縁で、先代水谷八重子の部屋子(役者見習い)となった[9]。しばらくの間水谷の身の回りの簡単な雑務をこなし(新橋演舞場にも通ったとされる)、「高校生になったら舞台に出てもいいわよ」と告げられた[9]

『スター誕生!』

オーディション番組『スター誕生!』への応募動機は、同い年の森昌子の歌手デビューである[11]。歌唱する森の姿をテレビ越しに観て「普通の女の子でも歌手に成れるのか」と衝撃を受ける[12]。そして同時に「もしかしたら私にも、チャンスが有るのかも知れないと思った」と岩崎は懐古している[13]

中学3年生の時に同番組に応募。審査員でもあった松田トシに相談すると、何を歌うか聞かれた。岩崎は候補曲として小林麻美の『初恋のメロディー』、小坂明子の『あなた』とほかにもう1曲をあげた。すると松田から「あなたの声には小坂さんの歌が合う」と言われたため、『あなた』でエントリーすることになった[11]

1974年2月20日に関東大会で代表として選出され、同年7月17日に決戦大会に出場し、最優秀賞を受賞した[注釈 1]。スカウトには8社からのプラカードが上がり、芸映・ビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント〈二代目〉)と契約した。

決戦大会当日、歌唱後に「一生懸命歌いました。どうぞよろしくお願いします」と言おうとした。しかしスカウトマンの動きを見て「あ、プラカードが上がりそう」と瞬間的に理解して感極まり「どうぞよろしく…」で言葉が切れてしまったとのこと[11]

以後は大本恭敬に師事し、現在の歌唱スタイルを築いた。本人によると、『スター誕生!』の予選会にはおでこを出して出場したが、その後受けた面接担当者から「顔がでかいな」と言われたため、おでこを隠すため前髪ぱっつんヘアでデビューすることになった[9]

歌手デビュー

1975年4月25日、「天まで響け岩崎宏美」のキャッチフレーズとともに『二重唱 (デュエット)』でビクター音楽産業より歌手デビュー。同期デビューの女性歌手には小川順子太田裕美岡田奈々片平なぎさらがいる[2]。2枚目の『ロマンス』が90万枚近い大ヒットとなり、多くの新人賞を受賞する。また同年末の第26回NHK紅白歌合戦に、紅組のトップバッターとして初出場を果たした。

1976年3月、3枚目のシングル『センチメンタル』が第48回センバツ高校野球大会の入場行進曲に選ばれた[注釈 2]。堀越高校在学中は、午前中は高校に通って授業を受け、午後からは芸能活動という日々で、都内の仕事場には電車で移動していた。

1977年3月に堀越高等学校を卒業。同期生には森昌子・池上季実子伊藤咲子[9]・岡田奈々がいる。森昌子らと卒業式には出席したが単位を2つ落としていたため、卒業式の後に補習のために2か月間堀越高校に通った[9]。同年秋、初のバラード『思秋期』がヒットし、第19回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。

1978年10月、父が個人事務所「有限会社スリージー」を設立[14]。1979年7月にはロックミュージカル『ハムレット』にオフィーリア役で出演した。

ドラマ主題歌の大ヒット、独立、エジプト公演

1982年、日本テレビ系の2時間ドラマ『火曜サスペンス劇場』の主題歌『聖母たちのララバイ』がオリコンチャート週間売上1位を獲得し、80万枚を売り上げる大ヒットとなった。同年の日本歌謡大賞を受賞。翌1983年には同曲が、第55回センバツ高校野球大会の入場行進曲として再び採用された。

同曲は発売2年前に公開された米映画『ファイナル・カウントダウン』のBGM「ミスター&ミセスタイドマン」との類似性が指摘され、作曲者が「木森敏之John Scott」と記載されることになった。日本レコード大賞は外国人作家の楽曲は選考対象外であったことから、同年末の第24回日本レコード大賞ではノミネートに至らなかった。

『火曜サスペンス劇場』では1981年9月から1987年11月までの6年間にわたり、『聖母たちのララバイ』『家路』『』『25時の愛の歌』『夜のてのひら』の5曲が主題歌として採用された。その後も1992年10月から1993年9月にかけて『愛という名の勇気』が主題歌となった。

ザ・ベストテン』(TBSテレビ)には、1979年から1983年までの5年間に合計5曲(『春おぼろ』『万華鏡』『すみれ色の涙』『聖母たちのララバイ』『家路』)が計35週チャートインし、特に『聖母たちのララバイ』が5週連続で第1位(1982年年間ベストテンでは第2位)を獲得した。また、『NHK紅白歌合戦』(NHK総合ラジオ第1#NHK紅白歌合戦出場歴参照)には1975年から1988年まで14回連続出場している。

1984年、デビュー以来10年間所属した「芸映」を退社し独立、音楽番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)には1984年8月『』を歌ったのを最後に、1986年春に『好きにならずにいられない』で出演するまで約2年ほど出演できなかった。久々に番組に出演した際は司会の芳村真理から「宏美ちゃん、お帰りなさい」という言葉と共に迎えられる[15]。その後、間もなくして同番組のマンスリーゲストにも起用された(1986年11月期のマンスリー)[16]

1986年10月21日、外務省が中心となって進める日本文化交流「ジャパン・ウイーク」がエジプトで開催された。そのメインイベントに親善大使として招かれ、ピラミッドスフィンクスの前でコンサートを開く。それまでもザ・ビートルズフランク・シナトラが現地で歌ったものの、女性アーティストとしては岩崎が初だった[17]。このライブは同年ビデオ化され、2004年にCD-BOX『HIROMI IWASAKI 30TH ANNIVERSARY BOX』でDVD化、2007年にライブCD-BOX『ROYAL BOX 〜スーパー・ライブ・コレクション〜』でCD化されている。

1987年にはドラマ『男女7人秋物語』にメインキャストとして出演、平均視聴率30%を記録した。

1回目の結婚、出産、復帰

1988年にミュージカル『レ・ミゼラブル』にフォンティーヌ役で出演、その後も同役で再演に参加。

同年、三井物産の創業者で初代社長の益田孝玄孫である商社勤務の男性と結婚し[18]、芸名も夫の姓に合わせて益田 宏美に改名した。1989年に長男、1992年に次男を出産。

1989年、益田宏美名義で主にクラシック音楽を基調とした楽曲を収録したアルバム『誕生 〜BIRTH〜』を発売した。小さい子供を持つ母親を中心にヒットし、1年間で7万枚が売れ、2年後の1991年時点でも毎月2,000〜3,000枚の注文が入るロングセラーとなった[19]。続いて発売された『家族 〜FAMILY〜』『きょうだい』と合わせて「胎教&育児3部作」と称される[20]

1995年に協議離婚が成立し、夫が親権、岩崎が養育権を得た[18]。しかし翌1996年に前夫が再婚し、後妻が養子縁組する形で子供たちを引き取ってしまう[18]。訴訟も考えたが「公判中は子供に一切面会させない」と告げられたため断念した[18]。前夫が子供を連れて海外へ転勤したため、子供に会うことができなくなった[18]

離婚が成立した1995年、芸名を岩崎宏美に戻して本格的な歌手活動を再開した。活動再開後は、吉田美奈子・Cat Gray・佐藤竹善塩谷哲のほか幅広いアーティストとのコラボレーションを展開。LAレコーディングしたアルバム『FULL CIRCLE』などを発表。また以前に比べてキーは下がったものの、シングル「許さない」「あとかたもなく」などサビにファルセットを用いた楽曲を次々に発表した。

2000年代: カバーアルバム『Dear Friends』シリーズ、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団との共演

2001年、アニメ『ポケットモンスター』のエンディングテーマ曲「ぼくのベストフレンドへ」を担当。

2003年に発売したカバーアルバム『Dear Friends』は好評を博し、その後もシリーズ化されている。

2006年、バリー・マニロウのアルバムにデュエット・パートナーとして参加、8月に開催されたマニロウのラスベガス公演にもゲスト出演した[21]

2007年4月、プラハでチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演し、ドヴォルザークホールで自身の代表曲を中心に12曲を録音し、同年9月26日にセルフカバー・アルバム『PRAHA』として発売した。これが縁となり、翌2008年4月にはチェコ共和国の初代親善大使に任命された。

2009年4月29日、ミュージカル「レ・ミゼラブル」での共演をきっかけに今拓哉と再婚[22]。2009年12月、所属事務所の社名を「株式会社スリージー」に変更[14]。2010年には(当時の)夫の今拓哉が設立した個人事務所「コンリアルアート」に移籍した。

2010年代以降: ニューヨーク公演

2015年、デビュー40周年を記念して初のニューヨーク公演を開催した[23]

2017年、ディズニー映画『美女と野獣』の吹き替え版にポット夫人役として参加[24]、劇中歌も歌った。

2020年4月25日、デビュー45周年を迎え、公式YouTubeチャンネルを開設した[25]。同年にはデビュー45周年記念イベントを予定していたが、前年末からの新型コロナウイルス感染症の影響によりイベントは中止となった[26]

2021年、野口五郎名古屋市大阪市東京都でジョイントコンサートを開催し、初のデュエット・シングル『好きだなんて言えなかった』をリリースした[27]。翌2022年も野口とのコラボアルバム『Eternal Voices』を発売、京都市を皮切りに全国11箇所のプレミアムツアーを決行した[28]

再婚から14年後の2023年4月、今との離婚が成立[3]。離婚を機に所属事務所の社名を「株式会社スリージーカンパニー」に変更した。

同年6月上旬、新形コロナウィルスに感染。当初6月9日に仕事復帰予定であったが、体調の回復が遅れて延期になった[29]。それから1週間後の6月17日に活動を再開した[30]

2025年にはデビュー50周年を迎え、記念コンサートの開催のほか、TBSテレビ出演時の映像をまとめたDVD-BOXの発売など様々な記念企画の展開が行われる[31]

Remove ads

人物

要約
視点

性格は竹を割ったようにサバサバしている[4][32]

小学5年生からジャクソン5、メンバーの中でもリード・ヴォーカルのマイケル・ジャクソンが好きになった[9]。中学生の時に洋楽のコンサートで初めてジャクソン5を聴きに行った[9]。当時はマイケルの特集記事など読むため、学校帰りに時々銀座の洋書専門店で音楽雑誌[注釈 3]を買っていた[9]

「まさし教の信者」を自称し[33]、さだを「生き神様」と敬うほどのさだまさしファンである。2012年にはさだの楽曲でのカバーで全曲構成された『Dear Friends VI さだまさしトリビュート』をリリースしている。

デビューから数年間は前髪ぱっつんの個性的な髪型を続けたことから、本人が周りから聞いた話として当時世間で「おでこに第三の目を隠しているのでは?」との都市伝説が囁かれたという[9]

デビュー当時から岩崎の曲を数多く手がけた筒美京平からは「あなたはこれから歌い手になるにあたって、みんなに褒められるのは高音かもしれないけど、あなたの良さは中低音だからそれを忘れないでね」といわれたという[6]

妹・良美

妹の岩崎良美とは幼い頃から仲良しであり[34]、妹に向けて作詞した曲「やさしい妹へ」がアルバム『Love Letter』に収録されているほか、岩崎姉妹によるジョイントライブが「宝くじ助成・まちの音楽会[35]として定期的に実施されている。

子供達

離婚を機に離れ離れとなった子供達とは成人後に自由に会えるようになり、再婚した今と子供達の関係も良好であった[18]。2008年には、コンサートに初めて子供達が見に来たため、客席の2人を見て「夢はかなうものだ」と幸せを感じつつ歌ったという[18]。次男はプロサッカークラブ横浜FCの職員として、外国人選手の通訳を担当している[36]

交友関係

アイドル時代は野口五郎[37]山口百恵[38]伊藤咲子[39]と仲が良かった。また、松本ちえことは誕生日がちょうど1年違いの11月12日、生まれた時間も松本が午後12時20分、岩崎が午後12時40分という近い時間ということもあり、交流が生まれた[40]

『男女7人秋物語』で共演した大竹しのぶとはデビューの頃から知り合いで、現在でも仲が良い[41][42]

2018年、かつての所属事務所の先輩歌手西城秀樹が死去した際は「とても格好良い先輩でした。早過ぎますよね…まだ信じられないです」とコメントした[43]

ドラマ出演

岩崎にとって『男女7人秋物語』は初めての連続テレビドラマのレギュラー出演だった。岩崎はメロディーが付いていないと歌詞が覚えられず、メロディーが無い台本を覚えるのに苦労したという[44]。また共演した明石家さんまとのキスシーンを嫌がっており、その理由について噂になるのが嫌だったというのに加え、「さんまさん歯が出てて、私アゴが出てるから、それで2人とも血だらけになるんじゃないかとか…」と語った[44]

エジプト公演

エジプト公演の際、気をつけてはいたものの、現地の水にあたり、当日は点滴を受けながら会場に行くほど最悪の体調だったが、ピラミッドに照明が当たっているのを見た瞬間、痛みが急に引いたという。そういった事もあり、岩崎は「私はピラミッドの形をしたものを見ると、なんか頭が下がるような思いで…。ピラミッドパワー、絶対あると思ってるので」と語っている[17]

健康状態

1988年にミュージカル『レ・ミゼラブル』に出演していた時に声帯ポリープができた[9]。演じたファンティーヌの歌の音域が岩崎の声域より広かったが、念願の出演だったため無理して地声を出し続けたせいで次第に声がガサガサするようになり、治療のため結局途中降板した[9]

2001年にはポリープによる喉の不調に見舞われたが、摘出手術を受け回復した。また、同年から甲状腺疾患バセドウ病橋本病を併発しており、2015年時点でも治療を継続している[45]

Remove ads

評価

芥川也寸志山本直純淡谷のり子は、岩崎の歌唱力を高く評価していたという[46]

ファン

著名人のファンに石破茂[47]石原詢子[48]神野美伽[49]林家たい平[50]宮本浩次[51]らがいる。岩崎自身も「石原詢子さん 以前から大好き[52]」「宮本さんフリーク[53]」であるとコメントしている[注釈 4]


ディスコグラフィ

要約
視点

※最高位はオリコン調べによる。

シングル

さらに見る #, 発売日 ...

オリジナル・アルバム

さらに見る No., タイトル ...

ライブ・アルバム

さらに見る No., タイトル ...

カバー・アルバム

さらに見る No., タイトル ...

セルフカバー・アルバム

さらに見る No., タイトル ...

ベスト・アルバム

さらに見る タイトル, 発売日 ...

共演・参加盤

さらに見る タイトル, 発売日 ...

カセットのみの企画盤

さらに見る タイトル, 発売日 ...

CD-BOX

さらに見る タイトル, 発売日 ...

映像作品

さらに見る タイトル, ソフト ...

参加作品

さらに見る 楽曲名, 収録先 ...

タイアップ曲

さらに見る 年, 楽曲 ...
Remove ads

出演

要約
視点

NHK紅白歌合戦出場歴

さらに見る 年度/放送回, 回 ...

テレビドラマ

舞台

ラジオパーソナリティ

ラジオ番組

CM

NHK みんなのうた

※△は『特集みんなのうた』の放送。

さらに見る 放送期間, 放送曲 ...

映画

アニメ

Remove ads

脚注

参考文献

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads