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相撲部屋
日本の国技である大相撲の協会員が所属する団体及び施設 ウィキペディアから
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相撲部屋(すもうべや)は、大相撲の協会員が所属する団体。および、その団体が生活の拠点とする施設。

概要
大相撲では指導者である年寄(親方)と力士(弟子)との間で疑似的な大家族制を取っている。
力士は部屋に所属し、疑似大家族として部屋が所有する施設で共同生活を営みながら、相撲の稽古をする。
現在でも日本相撲協会の年寄・力士・行司・呼出・床山・若者頭・世話人は全員いずれかの相撲部屋に所属しており、所属していない者は本場所に出場できない。また、相撲部屋の廃止や新たな相撲部屋が創立される場合を除くと、相撲部屋の間で移籍することも基本的にはできない。
相撲部屋の運営
要約
視点
名称
該当部屋に所属する年寄の中の責任者(師匠)の年寄名跡が部屋名に冠せられる[注釈 1]。そのため、同じ部屋の部屋名のみ変更になる例、逆に、組織的つながりはなくても部屋名が同一になる例がある。
部屋の日常
相撲部屋の構成員は、部屋を代表する年寄(師匠)を中心に生活を共にする。
特に幕下以下の力士(取的)は大部屋で共同生活をする。十両以上の関取になると個室が与えられる[注釈 2]。力士が独身の間は、部屋の外に住むことは許されないことが一般的である。しかし、関取を多く擁している部屋では個室が足りなくなり、やむを得ず関取にマンション暮らしを許す場合がある(春日野部屋や九重部屋など)[2]。関取になると結婚が許され、家庭を持った力士は基本的に部屋を出て住居を構える[1]。
各部屋は、それぞれ自前の稽古場を持つ。以前は、稽古場を構えず、一門の部屋への出稽古を常態としていた部屋もあったが、1965年1月場所からの部屋別総当たり制を機に、稽古土俵を持たなければ部屋の新設・存続は認められなくなった。
伝統的に部屋では、所属力士が多くとも稽古土俵を1つしか設けない。これは「他人の相撲を見るのも稽古のうち」とか、「他人を押しのけて土俵に上がるほどの積極性を力士に持たせるため」という意図からであるとされる。一部の部屋では稽古の効率化のために2つの土俵を備えている(前田山の高砂部屋、照國の伊勢ヶ濱部屋、琴櫻の佐度ヶ嶽部屋、稀勢の里の二所ノ関部屋)。また、肥後ノ海の木瀬部屋では、2017年11月場所(九州場所)の宿舎に3つの土俵を設置したことがあった。
協会からの独立性
各相撲部屋は基本的に日本相撲協会から独立して運営されている。協会から所属力士数等に応じて補助金が交付されるが、これだけでは部屋の運営を賄うことはできず[注釈 3]、自前で必要経費を調達する。部屋の施設も相撲部屋が所有または賃貸しているものである。
部屋の継承、増減
相撲部屋も、通常の"イエ"のように、師匠から弟子へと、年寄名跡に付随する形で継承される。継承に際して、師匠の娘を有力な弟子と結婚させて養子縁組を行い、婿入りの形で民法上も親子関係を築く事例が少なくない。そのため、「部屋持ち親方は娘が生まれると赤飯炊いて喜ぶ」「相撲部屋に男児はいらぬ」と俗に言われる(師匠の息子が年寄襲名資格を満たせる成績を達成する保証はないため)[6]。
1つの部屋に部屋の創設の資格および意志を持った力士が複数名いる場合は、分家独立をして新しい部屋を構えることもある。逆に、後継者に恵まれなかった部屋や、年寄・力士がいなくなった部屋は閉鎖され、"イエ"の系統は途絶える(残っていた部屋の構成員は、他部屋に移籍する[注釈 6][注釈 7]。
部屋数は昭和まではおおむね30部屋前後で安定していたが、平成になると若乃花・貴乃花兄弟の活躍によって相撲人気が高まり総力士数が増え、それに合わせて部屋の新設が相次ぎ、2004年には史上最高の55部屋にまで到達した。しかし、新しい部屋の乱立によって所属力士が数人しかいない小規模な部屋が多くなり、部屋の運営に支障をきたしたり、歴史の浅い部屋が大相撲の伝統をうまく継承できずに力士が問題を起こすケースが出てきた。これを受けて、これまで明文化されていなかった部屋創設の要件として、師匠の現役時の成績を設けることによって(後述)、分家独立を抑制させた。平成後期以降は入門者の減少と合わせて部屋数も減少し、2025年5月現在は45部屋に落ち着いている。
一門との関係
部屋の分離独立が進むと、同一の部屋から分離独立した部屋の系統が発生する。これらの系統に基づく部屋の集まりを「一門」と呼び、現在でも冠婚葬祭や合同稽古などを実施、協会の役員選挙も慣例的に一門別に頭数が割り振られている[注釈 8]。かつては無所属の部屋も許されていたが、2018年の貴乃花一門の解散を機に、いずれかの一門への所属が義務付けられるようになった(一門制度)。
東京以外の宿舎
国技館との間の交通の便などを考慮し、2024年現在では相撲部屋の本拠地は全て関東地方に存在する[注釈 9]が、大阪・名古屋・福岡の本場所開催時には、力士や親方・スタッフは場所の前後を含め約1か月ほど現地に滞在する必要が生じる。そのため各部屋は現地滞在用の宿舎を独自に確保している。
宿舎として使われる施設は主に神社や寺が多い[注釈 10][8]が、後援者の伝手などを頼り大学や企業の研修施設を利用する例[9]や、ラグビー場や競馬場などの広大な公共施設の一角を利用する例[8][10]、旅館やスーパー銭湯などを利用する例[11]、パチンコ店の元店舗や支援者企業の倉庫などを転用する例[12]などもあり、部屋によって様々である。なお、地方場所の宿舎について、一部の部屋で暴力団関係者とのつながりが指摘されている例もあった事から、相撲協会による実態調査も行われたことがある[13]。
地方場所においては場所前後の1か月程度を現地に滞在する事から、稽古の見学や交流イベントなど地域住民との交流もはかられている[14]が、2020年以降の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大時においては、感染拡大防止対策の一環により、関係者の現地滞在期間が短縮されたり、交流イベントを中止するような制限も出ている[15]。
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相撲部屋を取り巻く環境
要約
視点
番付上での力士の数は、1994年夏場所の943人がピークで、以降、少子化やスポーツの多様化で右肩下がりとなり、2013年春場所は605人にまで落ち込んだ。一時期、回復したが、2024年1月場所は599人で、45年ぶりに600人を割った。新弟子確保が課題で、2023年の新弟子検査合格者は53人と6場所体制下で最小を記録した。
2024年1月場所での所属力士数は、44部屋のうち、九重部屋が25人でトップ。2位は24人の佐渡ケ嶽部屋と高砂部屋、4位は22人の木瀬部屋、5位21人の玉ノ井部屋、6位追手風部屋と伊勢ケ浜部屋20人、8位19人出羽海部屋、9位は18人の6部屋(境川、式秀、高田川、二所ノ関、八角、宮城野)となる。一方、最少は、錦戸部屋の2人で、続いて片男波部屋の4人、安治川部屋の6人である[16]。
近年では核家族化の傾向も手伝って、力士志願の若者の中にも従来の大家族的な大所帯での生活になじめない者も多く、多数の兄弟子がいる大部屋をむしろ避ける傾向も見られる。出羽海や高砂などといった名門部屋でも、大部屋としてまとまっていくのは難しくなってきている。元横綱の栃ノ海は停年退職後に相撲部屋の小規模化の弊害について「稽古相手が少ないから強くならない。少ない弟子が部屋を去ることを恐れて親方が弟子に甘くなりがちである」とする趣旨の指摘を行ったことがある[17]。
また、協会から独立運営であるが故に相撲部屋の閉鎖性も指摘され、コンプライアンスに対する認識の甘さから部屋内での所属員による暴力事件・パワーハラスメント・モラルハラスメントが顕在化しつつあり、事件発覚のたびに処分が繰り返されている現状である。日本相撲協会ではコンプライアンス委員会を設置し「暴力行為禁止規定」を定め、対象者への厳罰化、さらには内部通報窓口による情報提供も行われているが、こうしたコンプライアンス遵守が協会員の間で徹底されていない現実がある。処分としては協会員の解雇などに加え、親方に対しては部屋を運営する素質が認められない場合は降格に加え、師匠の交代、部屋の閉鎖[注釈 11]などの厳罰が科されることもあるが、一部の部屋では協会に所属しない部屋の関係者(師匠夫人、いわゆる「女将」など)によるコンプライアンス違反の事例も見られ、こうした協会員以外の関係者には「協会としての指導や処分が下せない」問題も浮上している[注釈 12]。
かつて相撲部屋の女将は旅館や料亭の娘や花柳界の女性らがなる例も多かったというが、現在は結婚前に1人の女性として職を持ちながら関取と恋愛結婚して女将になるケースが多い[6]。
平成時代からはウエイトトレーニング設備を備えた部屋も多い。昭和時代までは器具で作った筋肉は相撲では役に立たないと敬遠される傾向があった(隆の里や霧島など昭和世代の力士にもウエイトトレーニングを取り入れた例はあった)が、平成に入って貴乃花や武双山[注釈 13]らの成功もあって、力士が他のトレーニングジムへ通う煩を避けるためもあり、こうした傾向が進んでいる。入門時の基準にこうした設備の充実を挙げる新弟子も少なくない。2010年代では九重部屋や伊勢ヶ濱部屋が筋力トレーニングを行う部屋の代表となっている。
力士の喫煙に関しては各部屋の師匠の考えによって異なる。かつては喫煙したら破門という部屋もあったが、中には上がり座敷で喫煙しながら指導していた親方もあり、師匠が喫煙者だと力士も容認される傾向にある。稽古場の陰に灰皿が置かれ、力士の稽古後の一服が珍しくない部屋もある。かつては角界においては喫煙者が珍しくない状況であったが、2023年7月場所終了時点では十両以上の関取70人のうち、喫煙者は10数%ほどで、8、9人に1人程度の割合である[23]。
多くの相撲部屋は、一般人の希望があれば稽古の見学を受け入れている。ただし、多くの部屋では見学者が守らなければならないルールを設けているのが実情である。一般に、相撲部屋の稽古見学では、私語、喫煙、飲食、席の途中移動、携帯電話の電源をONにすること、無断撮影、着帽・サングラスの着用、土俵や力士に足を向けること、土俵や稽古スペースに入り込むこと、体調不良時の見学が禁止されている[24]。
2020年以降に日本で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が流行した際、相撲部屋による共同生活が感染拡大防止のために避けるべき「密閉・密集・密接」という“3密”の最たる例でもあると指摘された[25]。2021年には荒汐部屋[26]や九重部屋[27]からそれぞれ12人以上の感染者が確認されクラスター化した。2022年2月には幕内42人中過半数が感染した[28]。
嘉風は現役終盤期に御嶽海、正代との鼎談で「基本的には名門大学ほどラインが強い。しかも有能な人材ほど、好きに部屋を選ばせてもらえない」と、大学の相撲部と相撲部屋の間にある人材供給のパイプの存在について語っている[29]。
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部屋一覧
要約
視点
2025年7月6日現在の相撲部屋(5大一門、計45部屋)。すべて所在地が関東であり、特に両国国技館周辺の東京都墨田区に集中立地している。
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過去に存在した部屋
要約
視点
平成以降
デフォルトでは消滅年月の昇順。部屋名は50音順ソート、師匠の列は番付順ソート。
部屋の閉鎖によるもの
部屋名の変更によるもの
平成以前
左から閉鎖した部屋名、閉鎖した年、閉鎖時点の師匠の現役名。
- 大山部屋 1986年 大飛進
- 花籠部屋1985年 輪島大士
- 高島部屋 1982年 三根山隆司
- 君ヶ濱部屋1978年 鶴ヶ嶺昭男
- 間垣部屋 1975年 清水川明於
- 中川部屋 1973年 清恵波清隆
- 谷川部屋1969年 八幡野平八郎[注釈 71]
- 湊川部屋1965年 十勝岩豊
- 小野川部屋1965年 錦華山大五郎 [注釈 72]
- 追手風部屋1965年 清水川元吉
- 錦島部屋1964年 木村今朝三
- 振分部屋1964年 朝潮太郎 (3代)
- 佐ノ山部屋1964年 國登國生
- 立川部屋1963年 緋縅力弥 (1922年生)
- 大鳴戸部屋1963年 二瀬山勝語
- 浦風部屋1962年 太郎山勇吉 [注釈 73]
- 雷部屋1961年 番神山政三郎
- 中村部屋1961年 楯甲新蔵
- 熊ヶ谷部屋1961年 三根山隆司
- 荒磯部屋1961年 照國萬蔵 [注釈 74]
- 吉葉山道場1960年 吉葉山潤之輔
- 陸奥部屋1960年 大潮清治郎
- 佐ノ山部屋1960年 朝響信親
- 宮城野部屋1957年 鳳谷五郎
- 熊ヶ谷部屋1957年 敷嶌猪之助 [注釈 75]
- 西岩部屋1956年 鯱ノ里一郎 [注釈 76]
- 富士ヶ根部屋1955年 若湊三郎 [注釈 77]
- 武隈部屋1954年 両國勇治郎 [注釈 78]
- 陣幕部屋 1954年 青葉山徳雄 [注釈 79]
- 式秀部屋1954年 有明五郎
- 芝田山部屋1953年 大ノ海久光
- 尾上部屋1952年 野州山義朗 [注釈 80]
- 安治川部屋1951年 巴潟誠一
- 山分部屋 1949年 駒ノ里秀雄
- 若藤部屋 1948年 越ノ海東治郎
- 振分部屋 1948年 浪ノ音健蔵 [注釈 81]
- 湊川部屋 1948年 綾錦由之丞
- 枝川部屋 1947 海光山大五郎
- 春日山部屋 1947年 藤ノ川雷五郎
- 甲山部屋 1947年 小松山貞造
- 玉ノ井部屋 1947年 陸奥錦秀二郎
- 友綱部屋 1947年 矢筈山登
- 花籠部屋 1947年 三杉礒善七
- 中川部屋 1947年 吉野山要治郎
- 二子山部屋 1947年 土州山役太郎
- 双葉山道場1946年 双葉山定次
- 音羽山部屋1946年 白岩亮治 [注釈 82]
- 立田山部屋1946年 能代潟錦作
- 三保ヶ関部屋 1946年 滝ノ海調太郎
- 谷川部屋 1946年 黒瀬川浪之助
- 高崎部屋 1946年 錦華山大五郎
- 佐渡ヶ嶽部屋 1946年 阿久津川高一郎
- 鏡山部屋 1945年 金木山弥一郎
- 芝田山部屋 1944年 宮城山福松
- 高田川部屋 1944年 早瀬川一栄 [注釈 83]
- 玉垣部屋 1943年 巴潟誠一
- 式秀部屋 1943年 有明吾郎
- 片男波部屋 1943年 開月勘太郎 [注釈 84]
- 千賀ノ浦部屋 1943年 幡瀬川邦七郎
- 甲山部屋 1943年 小田ノ山権蔵
- 二十山部屋 1943年 小錦八十吉 (1887年生)
- 荒汐部屋 1943年 殿り卯三郎
- 粂川部屋 1942年 鏡岩善四郎
- 時津風部屋 1941年 小九紋竜梅吉 [注釈 85]
- 尾車部屋 1941年 大戸平吉太郎 [注釈 86]
- 八角部屋 1940年 大鳴門灘右エ門 (1887年生) [注釈 87]
- 出来山部屋 1938年 紫雲竜吉之助
- 松ヶ根部屋 1935年 紅葉川規知朝
- 押尾川部屋 1935年 時ノ矢五郎
- 待乳山部屋 1934年 光風貞太郎
- 九重部屋 1934年 豊國福馬
- 浅香山部屋 1934年 西ノ海嘉治郎 (3代)
- 武蔵川部屋 1933年 鴨緑江渡右衛門
- 山科部屋 1933年 柏山吾郎
- 白玉部屋 1932年 宮城山福松
- 片男波部屋 1932年 高緑太三郎
- 中川部屋 1931年 鬼鹿毛清七
- 錦戸部屋 1931年 錦戸春吉
- 浦風部屋 1931年 浦ノ濱栄治郎
- 立田山部屋 1930年 白岩亮治
- 岩友部屋1930年 響矢由太郎
- 清見潟部屋1930年 岩木山孫平
- 楯山部屋1930年 国ノ音治三郎
- 追手風部屋1929年 追手風政吉
- 中立部屋1928年 伊勢ノ濱慶太郎
- 千賀ノ浦部屋1928年 綾川五郎次
- 白玉部屋1928年 玉椿憲太郎
- 湊川部屋1928年 綾浪源鋭
- 千田川部屋1928年 木村喜三郎
- 田子ノ浦部屋1927年 鬼ヶ谷才治
- 浅香山部屋1927年 八嶌山平八郎
- 湊部屋1927年 日ノ出山常吉
- 荒磯部屋1927年 鶴渡清治郎
- 雷部屋1927年 梅ヶ谷藤太郎 (2代)
- 桐山部屋1927年 高武蔵源太郎
- 勝ノ浦部屋1927年滝ノ音啓五郎
- 錣山部屋1925年 小金山伝治郎
- 入間川部屋1923年 両國梶之助
- 音羽山部屋1923年 梅垣直治郎
- 不知火部屋 1923年 松の音吉松
- 藤島部屋1923年 藤見嶽虎之助
- 春日山部屋1923年 當り矢信太郎
- 立川部屋1923年 甲吾郎
- 峰崎部屋1922年 木村銀治郎 (2代)
- 高島部屋1922年 谷ノ音喜市
- 花籠部屋1921年 荒岩亀之助
- 佐ノ山部屋1921年 朝汐太郎 (初代)
- 大嶽部屋1920年 玉手山七郎
- 東関部屋1920年 太刀山峰右エ門
- 根岸部屋 1920年代? 根岸治右衛門 (10代)
- 待乳山部屋1919年 大砲万右エ門
- 稲川部屋1916年 稲川政右エ門 (1871年生)
- 錦戸部屋1916年 錦戸春吉
- 甲山部屋1915年 大甲信太郎
- 秀ノ山部屋1914年 天津風雲右エ門
- 入間川部屋1911年 有村直吉
- 武蔵川部屋1911年 劔山谷右エ門 (1852年生)
- 千賀ノ浦部屋1910年 大泉保吉
- 関ノ戸部屋1910年代? 逆鉾与治郎
- 竹縄部屋 1910年代? 千歳川絹治
- 八角部屋1908年 大鳴門灘右エ門 (大関)
- 立田川部屋1907年 朝日嶽鶴之助 (幕下)
- 玉垣部屋1905年 浦ノ海光太郎
- 木瀬部屋1905年 木村瀬平
- 千賀ノ浦部屋1904年 大達羽左エ門
- 九重部屋1903年 浦湊喜太郎
- 濱風部屋1900年代?稲葉山菊二郎
以下は存在時期及び、師匠が不明な部屋である。
- 雷電部屋
- 木村庄之助部屋
- 式守伊之助部屋
- 秋津嶋部屋
- 阿蘇ヶ嶽部屋
- 出水川部屋
- 梅ヶ谷部屋
- 大木戸部屋
- 大橋部屋
- 神楽部屋
- 柏戸部屋
- 御所ヶ浦部屋
- 御所車部屋
- 呉服部屋
- 小松山部屋
- 竹嶋部屋
- 千歳川部屋
- 笘ヶ嶋部屋
- 名取川部屋
- 捻鉄部屋
- 八ッヶ峰部屋
- 雪見山部屋
- 四賀峰部屋
- 七ツ森部屋
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部屋の創設・継承資格
要約
視点
もともと部屋の分離独立に関する基準はなく、理事会で承認されればどの年寄でも部屋を新設することができたが、上述の部屋数の急増を受けて、平成中期に部屋創設の要件に該当年寄の現役時代の成績の制限を加えた。
- 部屋創設(分家独立)の要件
2006年9月28日制定。以下の要件を満たし、引退から1年以上経過した後、師匠の了承と理事会の承認を得ること[30]。
- 既存の部屋の継承に限定した要件
1998年5月1日制定。現役力士が理事会で相撲部屋継承者と認められれば、通常の年寄襲名条件(年寄名跡#襲名条件を参照)ではなく、例外規定を適用し、現役を引退して部屋を継承することが可能となった。条件は以下。
現在の有資格者
- 部屋付きの年寄で部屋創設の条件を満たしたもの
規定が適用された例
この規定になって以降、部屋を新設したのは12例である。
なお、この規定が制定されて以降木瀬部屋が2012年4月に北の湖部屋から独立、中川部屋が2017年1月に追手風部屋から独立が承認されているが、木瀬部屋は2010年5月31日の閉鎖処分の解除による再興のため[注釈 88]、中川部屋は2016年10月17日に閉鎖処分を受けて一時的に消滅した旧春日山部屋の再興のため[注釈 89][注釈 90][注釈 91]新設には当たらないとされている。
また、既存の部屋の継承に限定した要件で、現役を引退して部屋を継承したのは2例である。
なお、部屋の師匠が停年もしくは逝去したことに伴い部屋付きの親方が師匠になる場合は条件等の制限はない。
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各種部屋別記録
- 最多横綱昇進
- 出羽海部屋 8人(大錦卯一郎、栃木山守也、常ノ花寛市、武藏山武、安藝ノ海節男、千代の山雅信、佐田の山晋松、三重ノ海剛司)
- 最多幕内最高優勝
- 九重部屋 52回(北の富士勝昭10回、千代の富士貢31回、北勝海信芳8回、千代大海龍二3回)
- 元千代の山の旧九重部屋は師匠の死で消滅、独立して井筒部屋を興していた元北の富士がこれを吸収して、新九重部屋となったもので、ふたつの九重部屋は厳密には別の部屋という見方もある。同様に、千代の富士引退とともに、元北の富士は部屋を譲り、独立した八角部屋(元北勝海)に所属したので、これも別の部屋という考え方も可能になる。北の富士の10回および千代大海の3回の優勝を数えないとすれば、39回になる。そうなると、出羽海部屋の49回が最多にみえるが、出羽海部屋も、1922年6月の常陸山死去のあと、独立して入間川部屋を興していた元両国が吸収したともいえるので、常陸山時代の常陸山1回、両国1回、大錦5回、栃木山5回、常ノ花1回を減らせば36回になる。すると、白鵬1人のみで45回優勝の宮城野部屋が最多となる。
- 最多連続幕内最高優勝
- 出羽海部屋 10場所連続(大正6年1月~大正10年5月、栃木山守也5回、大錦卯一郎4回、常ノ花寛市1回)
- 九重部屋 10場所連続(昭和60年9月~昭和62年3月、千代の富士貢8回、北勝海信芳2回)
- 同一部屋力士による三賞独占(受賞者3人以上)
- 出羽海部屋(昭和24年5月、殊勲賞:千代の山雅信、敢闘賞:羽島山昌乃武、技能賞:五ツ海義男)
- 優勝も同部屋の増位山大志郎。
- 藤島部屋(平成3年5月、殊勲賞:貴花田光司、敢闘賞:安芸ノ島勝己:貴闘力忠茂、技能賞:該当者なし)
- 二子山部屋(平成5年5月、殊勲賞:若ノ花勝、敢闘賞:貴ノ浪貞博、技能賞:貴闘力忠茂)
- 優勝も同部屋の貴ノ花光司。
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相撲部屋制度そのものの廃止論について
相撲部屋制度は、伝統として江戸時代から存続してきたが、次のように、相撲部屋制度そのものの廃止が提唱されたこともある。
2024年2月23日の北青鵬の暴力行為での引退を受け、フリーアナウンサーの宮根誠司は、相撲部屋での共同生活が暴力の温床になっているのではと推察し、相撲部屋制度そのものを廃止すべきであると提唱している[32]。ただ、相撲部屋制度廃止が提唱されることは歴史上初めてではなく、大正期に学生相撲の隆盛や近代スポーツの日本社会への浸透を背景に、相撲関係のジャーナリストや著名人から相撲部屋制度の廃止、弟子養成システムの合理化などの意見が出されたこともあり[33]、また「野球界」昭和3年号でも相撲部屋制度廃止論が掲載されていたが、実現には至らなかった。
相撲部屋を題材としたテレビドラマ
脚注
関連項目
外部リンク
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