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日本の唱歌 ウィキペディアから
大阪の出版社「昇文館」を主宰する市田元蔵が企画し、大和田建樹に作詞を、多梅稚と上真行に作曲を依頼したことから「鉄道唱歌」は誕生した。しかし、昇文館の経営状態はすでに悪化していた。1900年5月10日に第1集東海道篇を発売したものの、印刷部数はわずか3,000部であり、宣伝資金もなかったために、ほとんど売れないまま、昇文館は倒産した。
この「鉄道唱歌」の版権を市田から買収したのが、大阪で楽器店(現在の三木楽器)を営んでいた三木佐助である。江戸時代より「往来物」と呼ばれる宿場町を覚える歌や、鉄道開業後に「レールエ節」と呼ばれる鉄道沿線を紹介する歌が存在したため、鉄道路線網が形成されるに従って、それら路線の沿線を歌った書籍の販売の着想を得たと言われている[1]。第1集東海道篇は1900年に『地理教育 鉄道唱歌 第一集』のタイトル[2]で三木によって再度出版され、楽団を乗せた列車を走らせるなどの奇抜な広告戦略の効果もあって大流行した。さらに、この年の年末までに第5集までが発表された。詞はいずれも大和田建樹によるもので、曲は第1集・第2集が多梅稚と上真行、第3集が多梅稚と田村虎蔵[注 2]、第4集が納所辨次郎と吉田信太、第5集は多梅稚が2種といったように、各曲に2つずつつけられた。これは「鉄道唱歌」が書籍の形式で販売されたので、「読者に好きな方を歌ってもらおう」という、最初の企画者・市田元蔵のアイディアだったといわれている。だが第1集から第3集、そして第5集の曲の1つであった多梅稚のそれが、抒情的な上真行の曲よりも、ヨナ抜き音階のピョンコ節でメロディーが覚えやすく、余りにもテンポがよく旅情がそそられるといった事情のためか広く歌われるようになって、他の方の曲はほとんど歌われなくなってしまった。現在知られているのはもちろん多梅稚の曲である。多梅稚の作曲に依らない第4集も、この曲で歌われることが多い。ちなみにテンポ良く聞こえるのは歌詞が七五調となっているのも要因の一つである。
異説として、最初から三木の企画だったとする説、無名の一青年の詞を買い取り大和田が補筆したとの説がある[3]。三木は、街頭で手風琴に合わせて演歌師が歌う哀愁を帯びたメロディーを耳にして鉄道旅行歌のアイデアを閃き、作詞を大和田に依頼する[4]。その際、参考に横江鉄石の『東海道汽車の旅』と無名作家の歌詞を大和田に差し出すが「物足りない作品ですね。表現も硬くて暗い」と言って返されたとしている[4]。
「鉄道唱歌」の書籍は大正初期までの20年間に総計2000万部を売ったという[3]。
タイトルに「地理教育」と付けられている背景として、当時の音楽教育の一環として歌による知識の習得という方針があり、版元はこの方針に乗って鉄道唱歌の販売数を増やす意図があったようである[1]。本歌の発表直後から全国各地で郷土版が多く製作された[2]。膨大な詞の中に沿線の地理や歴史、民話や伝説、名産品の紹介を織り込んだこの曲は、大人の間でも人気となった。
歌詞の方は基本的に沿線に沿って七五調で順々に詠っているが、沿線に作者(大和田建樹)の好んだ場所や歴史的な場所のようなところがある場合、またその路線の終点の場合などは、そこに多く歌詞を割り当てたり、さらには「寄り道」していることもある。たとえば以下の最初にある鎌倉の場合、その直前に「横須賀行きは乗り換えと / 呼ばれて降るる大船の」とあり、横須賀線に乗換えて寄道することが歌詞になっている。
また、線路が必ずしも旧街道に沿っていないために、各方面の街道の峠などの地形や旧跡、名物等が駅や線路から離れていることがあるが、そういった点でも必ずしも正確でないこともある[注 3]。
各集の歌い始めは以下のようになっており、いずれも旅立ちの印象を強く読者に与えるものとしていた。
なお第3集と第4集は、上野駅から大宮駅に至る区間で重複しているが、それぞれにおいて歌う場所をずらすなどの配慮をし、特色を持たせてある。
また各集の最後ないし最後の1つ前に当たる所、また、東北線の終点「青森」の歌詞(第3集40番)では、以下に示した通り急速に発達した鉄道網を賞賛する歌詞が見られる。
その他、最後では以下のように次の旅(次の集)へ続くことを表したもの、または旅の終わりを祝うないし惜しむ歌詞も見られる。
1985年に書かれ、翌1986年に発売された[5]「石坂まさを一人旅して─全国我が町音頭」(県別編・市町村編合わせて3355番)が出るまで長らく日本一歌詞が長い歌だった。
カラオケでは鉄道唱歌第一集66番をすべて歌うことができ、その曲長は28分40秒(DAM)であり、カラオケで収録されている歌としては有数の長さを誇る。発売されたCDとしてはボニージャックスが334番全集(北海道編は含まない)、キドブラザーズが省略せずに399番を収録したCD集がある(他に山陰鉄道唱歌、中央線鉄道唱歌がある)。
全374番の歌詞を続けて歌うと1時間30分以上かかる[6]。
集 | 篇 | 初版発行日 | 作曲者 | 路線[注 4] | 番数 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 東海道篇 | 1900年5月10日 | 多梅稚・ 上真行 |
東海道線[注 5](新橋駅→神戸駅) 横須賀線(大船駅→横須賀駅、当時は東海道線の一部) 現在の湖西線・大阪環状線・福知山線沿線にあたる地域も歌われている。 |
66 |
2 | 山陽・九州篇 | 1900年9月3日 | 多梅稚・ 上真行 |
山陽線(神戸駅→三田尻駅[注 6]) 鹿児島線(門司駅[注 7]→八代駅) 日豊線(小倉駅→宇佐駅[注 8]) 長崎線[注 9](鳥栖駅→長崎駅[注 10]) |
68 |
3 | 奥州・磐城篇 | 1900年10月13日 | 多梅稚・ 田村虎蔵 |
東北線[注 11](上野駅→青森駅) 常磐線(仙台駅→岩沼駅→田端駅[注 12]→上野駅) |
64 |
4 | 北陸篇 | 1900年10月15日 | 納所辨次郎・ 吉田信太 |
高崎線・信越線[注 13](上野駅→高崎駅→直江津駅→沼垂駅[注 14]) 両毛線(高崎駅→前橋駅→足利駅) 北陸線[注 15](富山駅→米原駅) 七尾線(津幡駅→和倉温泉駅) |
72 |
5 | 関西・参宮・南海篇 | 1900年11月3日 | 多梅稚 | 片町線・関西線(網島駅[注 16]→新木津駅[注 17]→亀山駅→長島駅) 奈良線(新木津駅→木幡駅) 紀勢線・参宮線(亀山駅→津駅→山田駅[注 18]) 関西線・桜井線・和歌山線(加茂駅→奈良駅→高田駅→柏原駅,高田駅→橋本駅,粉河駅→和歌山駅[注 19]) 南海線(和歌山北口駅[注 20]→難波駅) |
64 |
6 | 北海道篇 (南の巻・北の巻) |
1906年8月・ 1907年6月 |
田村虎蔵 | 【南の巻】函館線(函館駅→南小樽駅) 【北の巻】函館線(南小樽駅→札幌駅→旭川駅) 手宮線[注 21](南小樽駅→手宮駅) 幌内線(岩見沢駅→幾春別駅,幌内太駅→幌内駅)[注 21] 室蘭線(岩見沢駅→室蘭駅) 夕張線(追分駅→夕張駅[注 22]) |
40 |
附録として第3集に「松島あそび」、第5集に「奈良めぐり」が付いている。
またその後、鉄道唱歌に倣って各地の鉄道を歌った歌(「豆相鉄道唱歌」・「沖縄県鉄道唱歌」・「東京地理教育電車唱歌」など)が発表された。
大和田建樹自身も、その後伊予鉄道を歌った「伊予鉄道唱歌」、「鉄道唱歌」の改訂版といえる「東海道唱歌」・「山陽線唱歌」・「九州線唱歌」や、大阪市電を歌った「大阪市街電車唱歌」、大韓帝国の鉄道・南満洲鉄道を歌った「満韓鉄道唱歌」などを作成している。
名称 | 初版発行日 | 作曲者 | 路線 | 番数 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
松島船あそび | 1900年10月 | 奥好義 | 4 | 名勝地松島を歌う 鉄道唱歌第3集附録 | |
奈良めぐり | 1900年11月 | 目賀田万世吉 | 8 | 奈良の名所巡り 鉄道唱歌第5集附録 | |
満韓鉄道唱歌 | 1906年 | 天谷秀 | 関釜連絡船(下関駅→釜山港) 韓国鉄道京釜線(草梁駅[注 23]→西大門駅[注 14]) 韓国鉄道京仁線(永登浦駅→仁川駅) 韓国鉄道京義線(龍山駅[注 24]→新義州駅[注 25]) 南満洲鉄道安奉線(安東駅[注 26]→奉天駅[注 27]) 南満洲鉄道満洲本線(奉天駅→大連駅) |
60 | 第二次日韓協約で日本の保護国となった大韓帝国の鉄道と、日露戦争の結果日本が利権を得た清国満洲における鉄道(南満洲鉄道)を歌いこんだ。 |
阪神電車唱歌 | 1908年 | 田村虎蔵 | 阪神本線(大阪梅田駅→神戸(雲井通)駅) | 22 | 阪神電気鉄道の宣伝を兼ねて作成 |
大阪市街電車唱歌 | 1908年7月 | 田村虎蔵 | 大阪市電南北線(梅田停車場前→恵美須町) 大阪市電南北線(中之島支線)(中之島二丁目→大江橋) 大阪市電九条高津線(東線)(難波新川→新川橋) 大阪市電九条高津連絡線(新川橋→湊町停車場前) 大阪市電東西線(末吉橋→九条二番道路) 大阪市電築港線(九条二番道路→築港桟橋) 大阪市電築港北海岸通線(築港桟橋→天保山桟橋) |
20 →21 |
当時の大阪市における名所を、市電を用いて歌いこんだ。 南北線(中之島支線)開業時に一度歌詞が変更されており、変更以前は全20番であった。 |
伊予鉄道唱歌 | 1909年1月 | 田村虎蔵 | 伊予鉄道高浜線(高浜駅→松山駅[注 28]) 伊予鉄道横河原線(松山駅→横河原駅) 伊予鉄道森松線(廃線、立花駅[注 29]→森松駅) 伊予鉄道郡中線(松山駅→郡中駅) 伊予鉄道城北線(後半廃線、古町駅→木屋町停留場→道後駅[注 30]) |
25 | 伊予鉄道の開業20周年を記念して作成された。 |
東海道唱歌 | 1909年1月 | 田村虎蔵 | 東海道線[注 5](新橋駅→京都駅) 横須賀線(大船駅→横須賀駅) |
50 | 後述する「山陽線唱歌」・「九州線唱歌」と共に、「汽車」3部作として「鉄道唱歌」の改訂版の意味も兼ね作成 |
山陽線唱歌 | 1909年10月 | 田村虎蔵 | 山陽線(神戸駅→下関駅) | 52 | 「鉄道唱歌」第2集作成の翌年に全通した山陽本線を全て歌いこんだ。 |
九州線唱歌 | 1909年10月 | 田村虎蔵 | 鹿児島線[注 31](門司駅[注 7]→鹿児島駅) 日豊線(小倉駅→宇佐駅[注 8]) 長崎線[注 9](鳥栖駅→長崎駅) |
54 | 1901年に鹿児島までが全通した鹿児島線を中心に、九州の鉄道路線を歌いこんだ。 |
台湾周遊唱歌 | 1910年2月 | 高橋二三四 | 台湾総督府鉄道縦貫線北段(基隆→中港[注 32]) 台湾総督府鉄道淡水線(台北→淡水) 台湾総督府鉄道縦貫線山線(中港[注 32]→彰化) 台湾総督府鉄道縦貫線南段(彰化→高雄) 台湾総督府鉄道屏東線(高雄→屏東) |
90 | |
訂正鉄道唱歌 | 1911年1月 | 多梅稚 | 東海道線 | 66 | 鉄道唱歌の東海道編で大和田建樹が訂正を望んでいた歌詞を、大和田の死後に氏の遺志を汲んで出版元の三木佐助が出版した。 |
また、昭和期には「鉄道唱歌」に倣う形で「新鉄道唱歌」が作成されている。これには「日本放送協会編」と「鉄道省編」の2種類がある。鉄道省編は1929年に応募曲として発表され、日本放送協会編は1937年に国民歌謡の一つとして作られた。
東海道新幹線が開通する直前、詩人の谷川俊太郎が「新・鉄道唱歌」を作った。夢の超特急「新幹線」をユーモアと風刺で包んだ落首、つまり戯れ歌で1節目に「予算の山に入りのこる 八百億を友として」というが、この八百億とは報じられた予算超過額だった。3節までの短いものだった[7]。
なお、TOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」は、発表当時のJR東海社長だった葛西敬之が、作詞・プロデューサーを担当したなかにし礼に「新しい鉄道唱歌を作って欲しい」と依頼したというエピソードがある。鉄道唱歌は、国鉄時代に、電車特急・急行の車内放送の前に流す車内チャイムの一つとして使用された。東海道新幹線でも初代の車内チャイムは鉄道唱歌を使用していた。しかし、JR発足後に新製・更新された車両の多くは鉄道唱歌のチャイムを採用せず、さらに国鉄時代から運用された特急形車両の廃車や運用減少が進んでいるため、鉄道唱歌のチャイムを耳にする機会は非常に少なくなってきている。
大和田建樹の生誕100周年と鉄道開業85周年に当たる1957年(昭和32年)、大和田の門弟らが結成した同人「待宵舎」が記念碑の建立を発案し、日本国有鉄道や同和鉱業、鉄道友の会らの賛同や協力を得て『鉄道唱歌の碑』が同年10月に設置された[15]。碑の中央には大和田直筆の第1集第1番の歌詞が刻まれた銅銘板がはめ込まれ、その下の大和田の生涯を記す碑文は、彼と同郷で鉄道唱歌の全歌詞を暗誦できたという安倍能成が揮毫した[15]。
鉄道唱歌の作者大和田建樹先生は安政四年(一八五七)四月廿九日愛媛縣宇和島に生まる 幼少國漢文に親しみ十五歳以後特に國学に志した 明治七年十八歳の秋上京遊学十七年東京大学講師翌年高等師範学校教授廿四年辞任 爾来又官仕せず門を開いて歌文を教え地方に出講し行餘謡曲能舞を嗜む 学は漢洋に亘り著述は辞典註釋詩歌随筆等百五十冊を越えたが丗三年鉄道唱歌東海道山陽九州奥州線磐城線北陸地方關西参宮南海各線の五冊を連刊就中汽笛一聲新橋をの一句に始まる東海道の部は普く卋に流布して津々浦々に歌われ鉄道交通の普及宣傳に絶大の貢献をなした 先生明治四十三年十月一日に歿す享年五十四 今年恰も生誕百年に當って先生の遺弟待宵舎同人の發起により東海道鉄道唱歌にゆかり深い新橋驛構内に碑を建て永く先生を記念する
— 昭和三十二年十月 安倍能成
碑の除幕日には、新橋駅(現汐留駅)- 横浜駅(現桜木町駅)間が正式開業した10月14日が選ばれ、国鉄の東京鉄道管理局吹奏楽団が鉄道唱歌を演奏する中、建樹の孫の大和田欽子や大和田門人の舟橋さわ子(舟橋聖一の母)、鷹司平通(当時交通博物館館員)などが出席して除幕式が執り行われた[15]。ただし、鉄道唱歌が制作された当時の新橋駅は記念碑建立時には汐留駅(1986年(昭和61年)廃止)であったため、碑は同駅の方に向かった新橋駅汐留口に置かれている[15]。
なお、大和田直筆の第1集第1番の歌詞は埼玉県さいたま市の鉄道博物館に所蔵されている。かつては、東京都千代田区の交通博物館に歌詞が飾られており、同館の最終営業日(2006年5月14日)の閉館時には、この歌を歌い閉館を惜しむ人たちが見られた。
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