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伊東輝悦

日本のサッカー選手 ウィキペディアから

伊東輝悦
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伊東 輝悦(いとう てるよし、1974年8月31日 - ) は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身の元プロサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(守備的ミッドフィールダー)。元日本代表

概要 伊東 輝悦, 名前 ...
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自筆サイン(2019年)
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経歴

要約
視点

小学生時代から多くのサッカー関係者に注目されていたが、当時は小柄なMFではなく長身FWだった。小学5年生時には清水市の選抜チーム・清水FCのメンバーとして1学年上の服部年宏望月重良らと共に、小学6年生の時にはエースとして田島宏晃らと共に全日本少年サッカー大会2連覇を経験している。

東海大学第一高校に進学。同校は2学年上に森島寛晃、後にアトランタオリンピック代表となる服部年宏、岩下潤(1年先輩)、松原良香白井博幸らを始め、後にJリーガーとなる選手が数人いたが、清水商業清水東静岡学園などの壁に阻まれ高校選手権には一度も出場できず、地元開催で2枠の出場があった1991年度高校総体での準優勝のみが目立った成績となった(決勝戦の相手は清水東で、後に清水エスパルスでチームメイトとなる田島宏晃、斉藤俊秀が所属していた)。

しかし、静岡県選抜としては国体2年連続優勝に貢献。各世代の日本代表にも選ばれるなど評価は高く注目されていた。「ゴムまりのようなドリブル」で一気に数人を抜き去るようなプレーから、マラドーナをもじって「テルドーナ」とも[2] 呼ばれる。

クラブ

高校卒業後、1993年に地元の清水エスパルスに加入した。1994年6月11日のJリーグ・サントリーシリーズ第21節ガンバ大阪戦でプロ初出場を記録した。プロ3年目の1995年から頭角を現わした。また、当時U-22日本代表監督だった西野朗に促され、「最大の転機」というディフェンシブハーフへの転身を果たす[2]。ただし、状況によってはチャンスメイクを果たした。

1999年スティーブ・ペリマン監督の下、Jリーグ2ndステージ優勝を果たし、この年のJリーグベストイレブンに選出されるが、アタッキングゾーンでのプレーを求められなかったため、この頃からさらに攻撃的なプレーが少なくなる。

2007年11月11日サンフレッチェ広島F.C戦(日本平)にて、藤田俊哉に続いて史上2人目のJ1通算400試合出場を達成した(同一クラブ所属では史上初)。2008年5月11日の鹿島戦(日本平)ではJリーグ通算最多出場となる415試合出場を達成、2009年6月27日FC東京戦(国立)にて、J1史上初となる450試合出場を達成した。

2010年11月、デビュー以来所属していた清水エスパルスより戦力外通告を受けたが、2011年よりJ1に昇格し戦力補強を望んでいたヴァンフォーレ甲府より、同じく戦力外となったチームメイト市川大祐と共にオファーがあり移籍。引き続きJ1でプレーすることとなった。

2011年7月16日ガンバ大阪戦(中銀スタ)でJ1史上初の通算500試合出場を達成[3]

2012年に甲府が降格したがチームに残留し、J2初参戦で25試合に出場。2013年に甲府が再昇格したことから再びJ1のピッチに立つことになった。しかし2013年はコンディション不良もあり6試合の出場にとどまり、同年限りで甲府を退団することとなった。

2014年、AC長野パルセイロへ移籍[4]

2016年、ブラウブリッツ秋田へ完全移籍したが[5]、同年シーズン限りで秋田を退団[6]

2017年よりアスルクラロ沼津に加入した[1]。2022年、これまで最年長Jリーガーであった三浦知良がJFLの鈴鹿ポイントゲッターズに移籍したことで、伊東が最年長Jリーガーとなった。

2024年10月31日、現役引退を発表。11月24日、最終節のホーム松本山雅FC戦のアディショナルタイムに主将のMF徳永晃太郎に代わって途中出場しキャプテンマークも譲り受けた。愛鷹は試合終了間際の失点直後にも関わらず拍手に包まれた[7]。試合後の引退セレモニーでは「サッカーを楽しむ事の大切さ」を柔和な表情で説いた[8]

日本代表

1996年アトランタオリンピックに出場。初戦のブラジル戦で決勝ゴールを決めマイアミの奇跡の立役者となる。3戦目のハンガリー戦でも前園真聖の決勝ゴールをアシストした。

1997年サッカー日本代表に初選出される。1998 FIFAワールドカップ日本代表にも選出されたが、試合に出場することはなかった。

フィリップ・トルシエ監督の下では運動量と守備的意識を買われ、ボランチではなく主に右サイドの要員として起用される事が多かった。しかし常に望月や明神や波戸らと併用され、レギュラーとして定着した時期はなかった。2000年カールスバーグカップメキシコ戦では初のゲームキャプテンを任せられるなど、トルシエ監督から絶大な信頼を得る(合宿終了後にゲームキャプテンから一言と言われた際、寡黙な性格のためか「お疲れ様でした」の一言しか言わなかった)。しかし、2002 FIFAワールドカップ日本代表には、負傷から復帰した直後のタイミングとなってしまい選出されなかった。

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所属クラブ

個人成績

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その他の公式戦
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個人タイトル

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 27試合 0得点 (1997年 - 2001年)
さらに見る 日本代表, 国際Aマッチ ...

出場

さらに見る No., 開催日 ...
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脚注

関連項目

外部リンク

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