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小椋佳
日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家 (1944-) ウィキペディアから
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小椋 佳(おぐら けい、1944年〈昭和19年〉1月18日 - )は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家。本名・神田 紘爾(かんだ こうじ)[2]。
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人物
1971年に歌手としてデビュー。当初はフォークソングあるいはニューミュージックに分類されていたが、次第にジャンルを広げていった。銀行員としてエリートコースを歩む一方、デビューから20年以上もの間、ほとんど表舞台に出ないアーティストとして活躍する[3]。
1993年、銀行を退職すると、音楽活動の一方で再び母校の東京大学法学部に学士入学し、1995年に法学部第3類(政治コース)を卒業。さらに東京大学文学部思想文化学科とその大学院(人文社会系研究科の思想文化コース)でも学び、2000年に修士号を取得した(哲学専攻)。
他の歌手への提供曲も多く、のべ300人以上の歌手に楽曲を提供している(2023年1月時点)[3]。1975年の「シクラメンのかほり」(歌:布施明)は第17回日本レコード大賞などを受賞した。その他、「俺たちの旅」・「時」・「俺たちの祭」(歌:中村雅俊)、「愛燦燦」(歌:美空ひばり)、「夢芝居」(歌:梅沢富美男)、「十六夜だより」(歌:三橋美智也)などがある。作詞のみを担当した曲としては「憧れ遊び」、「愛しき日々」、「遥かな轍」(作曲・歌:堀内孝雄)、「山河」(作曲:堀内孝雄、歌:五木ひろし)、「白い一日」(作曲・歌:井上陽水)がある。作曲のみを担当した曲では「匠」(歌:三橋美智也)がある。また、アニメーション『銀河英雄伝説』のエンディング曲、校歌・市歌・社歌なども数多く手掛けている。
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来歴
要約
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幼少期
東京都下谷区東黒門町(現在の台東区上野)の出身[2]。父は千葉県海神(現・千葉県船橋市)の農家の出身[2]、母は東京都向島の出身[2]。父は再婚、母は再々婚だった[2]。両親は小料理店を経営[2][4]。商いがはねた夜に父は琵琶を爪弾き、母は端唄や小唄を習い、両親とも芸事が好きで[2]、それらは受け継いでいると思うと話している[2]。
子供の頃の夢は野球選手で[5]、「大きくなったら大阪タイガースの藤村富美男に弟子入りして、プロ野球でプレーする」ことが目標だったが[5]、地元の野球大会でポカスカ打たれて頓挫[5]。歌うことは子供の頃から好きで、小学校の行き帰りや入浴中などに当時の流行歌を歌うようになった[3]。
台東区立黒門小学校1年のとき、机を並べた塚原佳穂里は[5]、初恋の相手で[5]、ずっと相手にしてもらえなかったが[5]、中学2年生から佳穂里への一方通行の恋などを綴った日記を書いた[5]。これがシンガーソングライター小椋佳誕生のきっかけという[5][注 1]。
東京大学時代
黒門小学校[5]、台東区立忍岡中学校[5]、東京都立上野高等学校を経て[5]、一浪で東京大学文科一類に入学[6]し、3年次に法学部第1類(私法コース)へ進学[1]。東大在学中は東京大学法律相談所で旧司法試験の勉強を行う[7]。
大学時代に「生きた証に何か創造的なことをしたい」との思いから、音楽活動を始めた。また、同時期に小説のようなものを書いたり、絵を描いたり、他者のコンサートや芝居や映画を見るなど様々なことを行った。
1966年、銀行への就職が決まった後[3]、寺山修司の舞台を観て感銘を受ける[5][注 2]。当時は電話帳に寺山の電話番号が掲載されており[5]、電話を掛けたら寺山本人が電話で出て[5]、寺山家に出入りするようになる[5]。そこで寺山家に居候していた東由多加と親しくなった[5]。歌手として世に出たのはこれがきっかけ[5]である。
銀行員との兼業
1967年に東京大学法学部第1類(私法コース)を卒業し、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)に入行[5][注 3]。銀行マンとして銀座支店[5]、資生堂グループ専任担当[8]、兜町支店[8]、赤坂支店[8]、本店証券部証券企画次長、財務サービス部長などを歴任する傍らで音楽活動を行ってきた[8]。香港の現地法人社長打診を拒否し[8]、浜松支店長に就任[注 4]。またこの間、ノースウェスタン大学留学や、メリルリンチ証券派遣など、米国滞在を経験している[8]。
前述の「5分間なんでもコーナー」が縁で、1969年に寺山が企画していた天井桟敷のLP『初恋地獄篇』に歌手として3曲参加。この作品がきっかけとなり、1971年に歌手としてデビュー。当初はフォークソングあるいはニューミュージックに分類されていたが、次第にジャンルを広げていった。前述のように銀行員としてエリートコースを歩む一方、デビューから20年以上もの間はほとんど表舞台に出ないアーティストとして活躍する[3]。
デビューの経緯
『初恋地獄篇』を聴いた日本グラモフォン(後のポリドールレコード)の新人プロデューサー・多賀英典は、声のイメージから15~6歳の美少年だと思って[3]会おうとしたところ、『初恋地獄篇』の関係者から「やめた方がいいよ。彼は東大卒のエリート銀行員だし、なんと言っても歌手という感じじゃないし…」と断られたと回想している。
当時小椋佳と出会った際の印象について、多賀はこう振り返っている。「喫茶店で待っていたらやってきてさ。一目見てなんと言って断ろうかと思った(笑)。」「銀行員で結婚していて、とても歌手という風貌ではないので、どう断って帰ろうかとそればかり考えた。」「当時はアイドルにしろ歌手にしろ必ずテレビで売るから容貌が悪いのは問題外だったんだよね。」「小椋君が「『初恋地獄篇』の曲、僕の曲じゃないんだ。僕の曲、聞いてくれる?」というので断るわけにもいかず聞いたら、思わず「この曲、私がなんとかするから私にくれ!」と叫んでいた。すごく興奮したことを覚えている。その曲が『しおさいの歌』だった。」
一方の小椋は、「初対面の僕を見てがっかりされました。僕は幼い頃から家族にも『変な顔』って言われていた上に、当時既に妻子持ちの銀行マンでしたから。」「持ち歌を披露した時、彼から『君の曲が欲しい。でも君はいらないんだけど』って言われました。」と回想している[3]。
「小椋佳を歌手デビューさせるわけにもいかないので、小椋君の曲を歌える歌手を探していたら、彼が銀行の米国研修に行くことになったのでしかたがなく本人でいくことにした」という顛末を多賀は語っている。
『青春 ~砂漠の少年~』
「しおさいの歌」が映画監督・森谷司郎に気に入られたことから、1971年の正月映画『初めての旅』への採用が決まった。同年、アルバム『青春 ~砂漠の少年~』でデビュー。
アルバムで世界観を創るという多賀の方針から、当時としては珍しくシングルではなくアルバムでデビューした。当時、ポッと出の新人ならLP一枚の制作費250万円程度が相場だったが、多賀は部長と喧嘩して500万円を使わせた。多賀は「いいものは必ず売れると思っていた。若かった。」と振り返っている。レコーディングエンジニアの大野進も、「初回販売が1000枚だと言うので営業を怒鳴りつけた。こんないい作品が売れないはずがないと思った。」と振り返っている。
しかし小椋は当時のプロモーションについて、「ポリドールの営業会議で、僕の写真と井上陽水[注 5]の写真が並べられて、どういうわけか陽水が売り出されることになってしまいまして。陽水って、サングラスを取るとそんなに美男子というわけでもないんですが…。」と語っており、デビュー当時はあまり厚遇されたとはいえなかった。「こんなことが続くはずがないと思っていたので、銀行は辞めませんでした。」とも振り返っており、小椋はその後も銀行員として勤務しながら音楽活動を続ける。
『雨』
『青春 ~砂漠の少年~』が制作費をカバーできる程度に売れたため、ポリドールは2枚目のLP『雨』に着手することになる。
多賀は「結局表に出せないから、「東大卒の謎のシンガー」で行くことにした。小椋の情報はテレビやマスコミ、外部にはすべてシャットダウンした。ラジオで少しずつ流して、人々の間に広まっていけば、絶対いいものを創ってるんだから売れないはずがないと思っていた。」と振り返っている。
「少しは私に愛を下さい」は、1971年に小椋のいた日本勧業銀行と第一銀行が合併したことを皮肉った歌(歌中の「バラ」は勧銀のマーク)。後に人事部にバレて怒られたという。
『彷徨』
1972年、1stアルバム『青春 ~砂漠の少年~』と2ndアルバム『雨』を再構成した3rdアルバム『彷徨』がリリースされる。小椋自身は「自分が知らないうちに出されていた」と証言している。
『彷徨』は232週間連続の長期間にわたりTOP100チャートに滞在し、ビートルズの『レット・イット・ビー』・『アビイ・ロード』に次いでオリコンLPロングセラー・チャート第3位の記録を持つ[要出典]モンスターアルバムとなった。日本の黒版LP総プレス枚数の第1位は井上陽水「氷の世界」、第2位は本作である[要出典]。
『残された憧憬』
1974年、フォーク、ロック、ストリングスを融合したニューミュージックの先駆けとなるアルバム『残された憧憬』がリリースされる。今までの小椋のクラシカルな世界から、キング・クリムゾン的なロックをフィーチャーしたポップスを目指す取り組みがなされた。大野進によると最新鋭の16チャンネルのミキサーを使用。元六文銭の安田裕美、後のYMO・細野晴臣、矢野誠、矢野顕子、林立夫、坂本龍一の先輩だった深町純、まだ10代だった高中正義が参加している。プロデューサーにはザ・モップスの星勝を起用した。
星勝は本作について「小椋佳は軽いサウンドだと思った。ロックじゃない。なんでオレが⋯って思ったけど、多賀さんと大野さんの尋常でない音取りの執念に圧倒され、気がついたら一緒になってのめり込んでいた。最高傑作だと思う。」と振り返っており、多賀英典は「(『残された憧憬』以後)小椋佳と星勝は切っても切れない関係。」と語っている。
多賀は本作と当時の音楽シーンについて、
「 | 陽水が「今何やってるの?」「小椋佳」「また小椋佳やってるの?」とやっかむように言うので「君は君、彼は彼だよ」と言った。その時までは陽水と小椋佳は別の世界だと思ってたけど、陽水や星勝君、安田裕美君に小椋佳の世界を音楽にしてもらったら、よりドラマチックな世界が表現できるのではないか?そう思って『残された憧憬』を創った。フォークギターとストリング中心からベースとドラムを中心にしたリズムセクションを強調してさ。ロックサウンドだよね。フォークというとギター一本とかの時代でさ。あまりサウンドというものは重要視されてなかったんだ。音取りなんて2時間で終わり、とかね、そんな時代だった。このアルバムから音楽業界もフォークからロックとストリングスを融合した濃厚でよりドラマチックなサウンドに変わっていったんだ。ニューミュージックの先駆けとなった。中島みゆきとか荒井由実が出てくるだいぶ前でさ。 | 」 |
と振り返っている。
初のお披露目:「シクラメンのかほり」と『遠ざかる風景』
デビュー後、銀行の人事部長などの図らいにより銀行員と歌手の兼業が一応許され[注 6]、控えめに音楽活動を行っていた[3]。しかし5年ほど経った頃、布施明に提供した「シクラメンのかほり」が大ブレイクし、マスコミが大騒ぎした。
「シクラメンのかほり」が売れたことで、小椋の歌手活動について第一勧銀で問題になった。その際、当時の小椋の上司で後の頭取・宮崎邦次は、「神田君はみんなと一緒になって最後まで残業して一生懸命仕事をしている。なんの問題があるのか?」と小椋をかばった。
これによりポリドールも小椋の存在を隠しきれなくなり、NHKコンサートでお披露目という流れになる。小椋にとっては初の本格的なコンサートであった。
1976年10月7日、NHKホール[9][10]でコンサートを行う。それまでコンサートは井上陽水と共に新宿ルイードでやったライブと、赤坂支店長時代の「お別れコンサート」の2回だけ[9]だったにもかかわらず、キャパ3300人(当時)のNHKホールで一晩だけのライブに11万通の応募があった[9]。これを収録したライブ・アルバム『遠ざかる風景』は20億円を売り上げた[9]。アルバムがそれまでのシングル・レコードの寄せ集めではなく、アルバムとして一つの主張をもった作品として考えられるようになるのは、小椋や吉田拓郎、井上陽水らフォークシンガーの良質なアルバムの制作と大ヒットからである[11]。
同時期、第一勧銀の財務担当だった小椋の顧客で、資生堂の当時の宣伝部長・福原義春に「神田君、こんなことやってるんだ」と言われてCMソングを依頼され、断り切れずに曲を創る。それが資生堂の初のCMキャンペーン「ゆれる・まなざし」。『揺れるまなざし』はCMソングの先駆けになった。これ以降、資生堂ではCMイメージソングを重要視するようになる。
浜松支店長時代
1982年1月、2度目のコンサートが普門館[注 7]で開催された。
この経緯について、「小椋さんは第一勧銀の頭取候補だったんだ。頭取候補が、支店長経験がないというのは問題だということになって浜松支店長をやることになったんだけど、ウチとしては東京にいてもらわないと困るんだ。アルバム『いたずらに』はそんな最中の制作で、第二回目のコンサートをやってケジメをつけようということになって普門館コンサートが企画された。だから最後の曲が『さよなら』なんだよね。」と、キティレコードのプロデューサーであった岩瀬貞行は語っている。
その後、浜松では地元の要請に応えて「やら舞歌[注 8]」を作った。これはその後も浜松まつりなど浜松市のイベントで使われ続けている。第一勧銀浜松支店の担当取引先であった縁で、退職後の2005年にも同市の菓子製造会社春華堂の「うなぎパイ」の広告曲「うなぎのじゅもん」を作っている。
浜松支店長時代、戸田俊太郎氏との縁から、パチンコ企業の株式会社中部総業の広告曲「パパのうた」を作っている。
銀行退職後
銀行で様々なことを見てきたが、40歳を過ぎた頃にサラリーマン人生に疑問を感じ始め[注 9]、1993年(49歳)で銀行を退職[3]。ほどなくして全国各地からコンサートの依頼が次々に舞い込んだため[注 10]50歳からコンサート活動を始め、多い時で年間100本ほどライブを行った[3]。
また、音楽活動の一方で再び母校の東京大学法学部に学士入学し、1995年に法学部第3類(政治コース)を卒業[1]。さらに東京大学文学部思想文化学科とその大学院(人文社会系研究科の思想文化コース)でも学び、2000年に修士号を取得した(哲学専攻)。
胃がんの早期発見
2000年に国立国際医療センター総長矢崎義雄と看護部長山西文子が小椋のもとを訪れ、翌年開校する国立看護大学校校歌の作詞・作曲を依頼された。矢崎の妻が熱烈な小椋ファンであった。大の病院嫌いであった小椋は49歳で銀行を退職してから8年間、1度も健康診断を受けていなかった。矢崎から「50歳を過ぎたら体のどこかが痛んでいるものだから、1度遊びに来るつもりでうちの病院においでなさい」と人間ドック受診を薦められた[12]。2001年5月に全国コンサートツアーの最後の沖縄公演を残した2泊3日で人間ドックに入り、胃がんの早期発見につながった[13][14][15]。
2014年、生前葬としてNHKホールで4日間連続の歌が重複しない100曲コンサートを行った。
デビュー50年を迎えた2021年の秋のツアーを最後に芸能界を引退することが発表された[16]。当初は同年秋にラストツアーが終了し、引退予定であったが新型コロナウイルス流行等による延期により、翌2022年での引退予定となった。その後も2023年1月に大阪と東京でラストツアーの追加公演を開催。自身の誕生日でもある、2023年1月18日にNHKホールで最後のコンサート『小椋佳ファイナル・コンサート・ツアー「余生、もういいかい 最後にもう1回 特別追加公演」』を開催し、コンサート活動から引退した[17]。2023年2月25日には『アニメーション紀行 マルコ・ポーロの冒険』の再放送を記念したイベントのゲストに出演[18][19]。なお、小椋の公式サイトでは、大型会場でのコンサート活動は終了するが、オファーがあれば中小会場での公演活動を継続する予定である旨が記されている。
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逸話
要約
視点
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快挙
『夢追い人』と『彷徨』の2枚は、オリコンTOP3に連続11週チャートイン[要出典]という、未だ破られていない最高記録を持つ。
当時の小椋佳がどれほどヒットしていたのかについては、以下のような証言がある。
「 | 当時のキティはもの凄く儲かっていた。小椋佳のライヴの2枚組(『遠ざかる風景』)なんか100万枚売れてたしさ。 | 」 |
—宗像和男(キティレコード・プロデューサー) |
「 | 小椋佳と井上陽水の大ヒットで多賀英典はドイツのポリドール社からスタジオをプレゼントされた。それが「キティ伊豆スタジオ」だった。 | 」 |
—大野進 |
「 | ポリドールの第一スタジオで小椋さんの音取り。第二スタジオで陽水の音取りなんてこともよくあった。いい時代だった。 | 」 |
—安田裕美 |
人物評
「 | 小椋佳はよく素人の余興と言われるがとんでもない。彼が米国に研修に行っていた時、ロスで『夢追い人』のレコーディングをやったんだけど、一緒に麻雀を徹夜でやる。朝になると僕等は寝てても彼はちゃんと銀行の仕事に出かけてこなす。そういった強烈なパワーの持ち主だった。 | 」 |
—多賀英典 |
影響
「 | (学生時代に)『青春 〜砂漠の少年〜』は擦りきれるほど何回も聞いた。友人に何度も何度もいいだろ?いいだろ?って言ったんです。そんなわけで『俺たちの旅』は小椋さんにお願いしました。 | 」 |
—中村雅俊 |
曲作り
「シクラメンのかほり」の発表からほどなくして、年間約50曲ペース(多い年で100曲)で楽曲を制作するようになった[3]。
小椋はよく「ギター弾けないんですよ」と語っているが、これは「アコースティック・ギターが弾けない」という意味である。
「 | 僕はギターが弾けないんです。ですから僕のバックに流れてるすばらしいギターの音が聞こえるのは、ここにいる安田裕美さんが弾いているんです。いわば「本当の小椋佳」です。 | 」 |
—小椋佳(1981年普門館のコンサートにて) |
「 | 昔から我が家にあったボロいクラシック・ギターで、コードを3つぐらいしか知らないのに、曲を創っては、夜、私をたたき起こして「一曲創ったんだ。聞いてくれる?」とやるんです。 | 」 |
—神田富雄(実弟) |
1976年のNHKコンサートでは「アンコールがあったら一人でやれ」と多賀に言われ、安田からマーティンのアコースティックギターを借りて練習させられ、『木戸をあけて』の弾き語りをした。
以上のようにシンガーソングライターであるものの、本人曰く「楽譜を書き起こせないし、楽器演奏も苦手」という異色の音楽家である[3]。小椋は譜面が書けないので、ギターのコードを弾きながら書いた詩を口ずさんで曲にしていくという手法を用いてカセットに録音していた[3]。その歌を他の人に依頼して楽譜に書き起こしてもらった後、アレンジャーに編曲してもらうという方法で楽曲制作を行っている[3]。
「 | よく小椋さんの家に行って曲作りと譜面起こしを手伝いました。 | 」 |
—安田裕美 |
病気
銀行員時代は接待などで飲み歩いたこともあり、当時は体重80kgに血糖値が400もあり何年もの間糖尿状態だった[3]。
2001年に人間ドックで胃癌と診断され、8時間に及ぶ手術で胃の3/4を切除。手術後食事に気をつけるようになったことから、2023年1月現在の体重は50kg台となり、持病だった糖尿病が改善されたとのこと[注 11]。
2012年には劇症肝炎で生死を彷徨った。もっとも病の後も1日2箱の煙草を欠かさず、また米留学以来常にコーラを愛飲し、1.5リットルのボトルが1日半でなくなるという[20]。
芸名の由来・家族
芸名の「小椋」は、大学3年生の時に法律の勉強で福島県耶麻郡北塩原村の学生村に約2ヶ月間滞在中、周りの住民の姓のほとんどが「小椋」姓であったことにより命名したもので[21][22]、その縁もあり、2010年から"裏磐梯観光協会大使"を務めている。同地の地酒「佳き酔 歌磐梯」は小椋が命名したものである[23][24]。「佳」は、後の妻となる恋人、塚原佳穂里の名の第一字から取ったもの[5]。
長男・神田知秀は小椋のマネジメント会社である株式会社ゴッド・フィールド・エンタープライズの代表取締役である。次男・神田宏司は、国内でも数少ない琵琶の製作者である。俳優の神田利則は甥に当たる。義兄の塚原将は小椋が作曲した楽曲「時」の作詞家である。
日常の家事について、子供の頃は母親、結婚後は妻にそれぞれ依存してきたという。そのため2000年代前半に「一度は一人で生活してみよう」と思い立ち、妻との「週末婚」を始めた[3]。妻は当初戸惑ったが、ほどなくして週末婚は私生活でも仕事面でもいい効果をもたらした[注 12]。2022年のクリスマスに約20年間続いた週末婚を解消し、再び妻との同居生活に戻った[3]。
その他
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ディスコグラフィ
要約
視点
シングル
アルバム
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書籍・著作
- 連載
- 書籍
- 『青春の落書』〈For ladies. あなたの詩集 ; 64〉、新書館、1974年11月25日。
- 川仁忍 撮影『おくればせの自己紹介 : NHK特集「小椋佳の世界」』日本放送出版協会、1976年11月20日。
- 『渡良瀬逍遥』立風書房、1977年6月10日。
- 宮田雅之 切り絵『聞いたこともないシルクロード物語』日本放送出版協会、1980年5月20日。
- 『小椋佳いたずらに』〈新潮文庫〉、新潮社、1981年10月25日。
- 『今語るあの時あの歌 小椋佳(CD BOOK series)』インタビュー・テキスト前山聿志 (アートデイズ、2006年)ISBN 4-86119-059-2
- 『言葉ある風景 (祥伝社黄金文庫 お 16-1) 』(祥伝社、2007年)ISBN 4396314345
- 『もういいかい まあだだよ』双葉社、2021年。ISBN 4575316830。
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テレビ番組
- 小椋佳 歌談の部屋(ハイビジョン試験放送)
NHK紅白歌合戦出場歴
- 注意点
- 出演順は「出演順/出場者数」で表す。
ラジオ番組
2018年4月現在。
- 現在
- 小椋佳の歌とともに - コメント出演(K-mix、金曜 20:00 - 20:30)
- 過去
- 小椋佳〜闌の季節 (2017年4月 - 2018年5月、文化放送)
- 小椋佳 言葉ある風景(文化放送)
- 小椋佳 夢中真っ最中(ニッポン放送)
- ラジオ深夜便 ミッドナイトトーク(NHKラジオ第1放送・ラジオ深夜便、奇数月第1木曜日)
- 小椋佳〜このひと このうた このドラマ(ニッポン放送)
- Changeの瞬間 〜がんサバイバーストーリー〜 (2020年12月6日・13日、朝日放送ラジオ)[31]
脚注
関連項目
外部リンク
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