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いしだあゆみ

日本の女優、歌手 (1948-2025) ウィキペディアから

いしだあゆみ
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いしだ あゆみ1948年昭和23年〉3月26日[1][3][4][5] - 2025年令和7年〉3月11日[6][7][8])は、日本歌手俳優フィギュアスケート選手。イザワオフィス所属[1]大阪府池田市出身[9]。本名・旧芸名石田 良子(いしだ よしこ)。

概要 いしだ あゆみ, 本名 ...
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来歴

要約
視点

生い立ち

4人姉妹の次女として[9]長崎県佐世保市で誕生[5]。難産の末に生まれ、生後2か月の時に肺炎にかかって生死の境を彷徨い、佐世保の米軍基地の病院でペニシリンを投与され助けられたという。大阪府池田市で育つ[注釈 1]

5歳からフィギュアスケートを始め、選手として活躍したほか、児童劇団でも活動し、「ともだち劇場」で同期生の中山千夏らとともに[10]泉田行夫の指導を受けた。1961年(昭和36年)には梅田コマ劇場で初舞台を踏む[5]。1962年(昭和37年)、14歳で上京していずみたくに師事[9]。4月20日にソノブックス社から「夢みる恋(原題:Walkin' Back To Happiness)」をリリースし、その後もソノシートで数曲を発表した。上野学園に進学、デビュー前は赤坂ナイトクラブで歌っていた[10]

歌手として芸能界デビュー

1964年(昭和39年)4月、本名から芸名いしだ あゆみに代えた。名付け親は永六輔[11]。同年、日本ビクター(音楽レコード事業部、現:ビクターエンタテインメント)から「ネェ、聞いてよママ」を発表した[5]。『おしゃれ作戦』『パント・ポップショー』などでテレビ番組デビューすると[10]、1965年(昭和40年)にかけて『七人の孫』に森繁久彌の孫役で出演するなど[4]劇団出身の演技力を活かして歌手俳優を掛け持ちした。

4年間で通算23枚のシングルを発表したものの、歌手としては2作目のシングル「サチオ君」が5万枚程度の売上を記録したのが最高で[12]、大きなヒット曲に恵まれなかった[13]。この期間、ドラマや他の仕事が忙しく歌手としての宣伝に協力できなかったと述べている[12]

歌手に専念するため、1968年(昭和43年)4月に日本コロムビアへ電撃移籍、同年6月10日に移籍第1弾(通算24作目)シングルとして発売された「太陽は泣いている」が転機となり、同年12月25日に移籍第3弾(通算26作目)シングルとして発売された「ブルー・ライト・ヨコハマ」は累計150万枚のミリオンセラーを記録し[14]、代表曲となった[4][5][13]。同年2月10日にはオリコンチャート週間1位にランクインし[13]、年間チャートでは第3位にランクインし、歌手としての地位を確立[13]横浜市ご当地ソングとして長く歌い継がれ、市民に愛される楽曲となっており[15]、多くの歌手によってカバーもされている。『NHK紅白歌合戦』には、1969年(昭和44年)の第20回に初出場、1973年(昭和48年)の第24回、1993年(平成5年)の第44回と、同曲で合計3回出場している。

1970年(昭和45年)の「あなたならどうする」がオリコン最高2位、1971年(昭和46年)の「砂漠のような東京で」がオリコン最高3位にランクインするなどヒットを連発、紅白歌合戦には通算10回出場している。

1977年(昭和52年)、ティン・パン・アレーと共同制作したアルバム『アワー・コネクション』を「いしだあゆみ & ティン・パン・アレイ・ファミリー」名義でリリース[3]、当時全盛期だったニューミュージックのテイストを取り入れた都会的なサウンドで繊細な歌声を聴かせた。

1981年(昭和56年)11月にアルファレコード(現:ソニー・ミュージックレーベルズ)へ移籍し、シングル「赤いギヤマン」、および松任谷由実呉田軽穂名義)や岩谷時子作詞を、PARACHUTEのメンバーが演奏を担当した、セルフタイトルのアルバム『いしだあゆみ』を発売[3]、歌手としても新境地を拓いた。これらのアルバムはシティ・ポップブームの中で再評価され、2013年(平成25年)に『Our Connection』が紙ジャケットリマスター盤で再発売、2017年(平成29年)には『いしだあゆみ』が初CD化され、隠れた名盤としてファンに愛されている[3]。また、1986年(昭和61年)には渡哲也とのデュエットシングル「わかれ道」をトーラスレコード(現:ユニバーサルミュージックLLC)から発売、同年12月11日放送の『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」コーナーに出演した。

俳優業へシフト

1973年(昭和48年)、『日本沈没』で演技力が高く評価され[5]、1977年(昭和52年)には『青春の門 自立篇』で報知映画賞助演女優賞を受賞。実力派女優としての地位を確立し、歌手より女優としての活動が主力となっていく[3]

1979年(昭和54年)、所属していた渡辺プロダクションから分社化したイザワオフィスへ、ザ・ドリフターズなどと共に移籍した。

1981年(昭和56年)の『駅 STATION』では高倉健の妻を演じた。1982年(昭和57年)の『野獣刑事』ではヌードが話題となり、『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』との両作品で第6回日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞した。1986年の(昭和61年)『火宅の人』では報知映画賞とブルーリボン賞第10回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞などを受賞。同年の『時計 Adieu l'Hiver』では経験を活かしてフィギュアスケートのコーチを演じた。

テレビドラマでも、1977年(昭和52年)『祭ばやしが聞こえる』、1979年(昭和54年)『阿修羅のごとく』、1981年(昭和56年)『北の国から』、1983年(昭和58年)『金曜日の妻たちへ』などに出演。1989年(平成元年)『青春家族』のヒロイン清水美砂とともに務め、放送時点41歳で当時としてはヒロイン史上最年長だった。2003年(平成15年)『てるてる家族』の登場人物である岩田夏子のモデルになっており、自らもクラブ歌手役として出演した。たびたび倉本聰脚本作品に起用され、石井ふく子プロデュース作品の常連でもあった。

2008年(平成20年)1月に『ラジオ深夜便』のコーナー「深夜便のうた」の1曲として久々の新曲「オアシス」を発表(作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童)。同番組で同年3月まで流された。「オアシス」は、NHKサービスセンターが刊行している『ラジオ深夜便年鑑2008』の付属CDと「深夜便のうた」のオムニバスCDで聴くことができるのみである。

2019年(平成31年)、『やすらぎの刻〜道』に出演した。

2020年(令和2年)には文化庁長官表彰[16]、2021年(令和3年)には旭日小綬章受章[17][18]。旭日小綬章受章にあたっては「身に余る光栄でございます」とコメントしている[18]

死去

2025年(令和7年)3月に入り、急激に体調が悪化し入院していたが、同月11日4時48分、甲状腺機能低下症のため、妹に看取られて東京都内の病院で死去した。76歳没訃報は同月17日に所属事務所のイザワオフィスから公表された。既に近親者による葬儀を終えており、故人の意思によりお別れの会などの実施はされないとしている[6][7][8]

韓国でも20社以上の報道機関がこの訃報を伝えた[19][20]。いしだの代表曲でもある「ブルー・ライト・ヨコハマ」は発表当時日本の大衆文化流入が厳しく制限されていた韓国でも海賊版などを通じて人気があった[21][22]

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人物

大阪学芸大学附属池田小学校[23]上野学園高等学校卒業[24]

実家は池田栄町商店街 “サカエマチ1番街”で3代続いた喫茶店「フジヤ」とパン屋を営んでいた。母親は福岡県大牟田市出身[24]。姉は石田治子。妹は石田ゆり、義弟はなかにし礼。池田小学校の同級生に安藤宏基がおり、「(いしだと)何度かアイススケートに行き、私はへたくそだったので、いろいろ手を取って教えてもらった[23]。両親(安藤百福安藤仁子)は愛犬と五月山へ散歩に行った帰り、「フジヤ」でクリームソーダを飲むことを楽しみにしていた[23]」と証言している。千葉真一の熱狂的ファンで、仕事の合間を縫いながら必ず『キイハンター』を観ており、千葉に会うと「大ファンです」と直に伝えている[25]。1979年(昭和54年)『闇の狩人』では一緒のシーンは無いものの同じ作品に出演し、1987年(昭和62年)の主演作『雪の朝に』では恋人役として念願の共演を果たした。

1969年(昭和44年)2月24日に生放送された『夜のヒットスタジオ』の「コンピューター恋人選び」コーナーでは、恋人と噂された森進一が公表され、その後に森の眼前で「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌唱中、動揺した影響からか途中で突如泣き崩れ、歌えなくなってしまった[26][27]篠木雅博は初めて会った時の印象を「実に存在感があり、きれいな人」と述べている。篠木が一気に企画内容を話したが、黙って聞いた後、いい悪いの答えではなく「あっ、これからサンマ買いに行かなきゃ」と述べただけで終わり、実にあっけらかんとした打ち合わせだったと回想している[28]

祭ばやしが聞こえる』で共演した萩原健一と1980年(昭和55年)に結婚したが[注釈 2]、1984年(昭和59年)に離婚した。2019年(平成31年)3月26日、萩原の訃報を知り、「ご冥福をお祈りします」と追悼している[30]

大阪出身だが標準語で喋るように心がけていた。冗談交じりであったようだが大阪弁を使う知人との会話では自身も大阪弁にならないようにも心掛けていたという[31]

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受賞

1977年

1978年

1982年

1983年

1986年

1987年

1997年

2020年

2021年

ディスコグラフィ

シングル

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アルバム

スタジオ・アルバム

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ライブ・アルバム

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ベスト・アルバム

ベスト・アルバム(ダウンロード専売版)

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タイアップ曲

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NHK紅白歌合戦出場歴

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(注意点)

  • 対戦相手の歌手名の( )内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
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出演

テレビドラマ

NHK
日本テレビ系
テレビ朝日系
TBSテレビ系
テレビ東京系
フジテレビ系

映画

舞台

バラエティほか

CM

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脚注

参考文献

外部リンク

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