トップQs
タイムライン
チャット
視点

鈴木隆行

日本のサッカー選手 ウィキペディアから

Remove ads

鈴木 隆行(すずき たかゆき、1976年6月5日 - )は、茨城県日立市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワードミッドフィールダー[2]。元日本代表日立市立泉丘中学校茨城県立日立工業高等学校卒業。

概要 鈴木 隆行, 名前 ...
Remove ads

夫人はモデルの橋本優子

Remove ads

来歴

要約
視点

クラブ

Jリーグデビュー - 各地へのレンタル移籍

茨城県立日立工業高等学校では1年から国体に出場、2年の頃には地元のJリーグクラブ・鹿島アントラーズに声をかけられるほど注目されていた。3年でも中田英寿らと共にカテゴリー別の日本代表にも選出されるなど全国区の選手だった。しかし、日立工高にはサッカーを教えることのできる指導者はおらず、監督は鈴木に練習メニューを作らせていた。後に鈴木は「(鹿島加入まで)まともにサッカーを習ったことがなかった」[4]、「ただ遊んでいただけでした」[5] と振り返る。

高校卒業後の1995年、鹿島アントラーズに加入。1996年10月16日に行われた試合(第24節)でJリーグデビューを果たした。

しかしその後はトップチームでの出場機会に恵まれず、1997年3月から9月、ブラジルのリオデジャネイロ州3部リーグに新設された、ジーコが出資し自ら会長を務めるクラブ、CFZ・ド・リオへとレンタル移籍する[6]。ここで21試合7得点の成績を挙げ、リオ州2部昇格に貢献した。

レンタル期間終了後は鹿島へと復帰し背番号9を与えられたが、1998年10月にジェフユナイテッド市原へ期限付き移籍[6]J1参入決定戦アビスパ福岡との試合で貴重なゴールを決め、市原のJ1残留に貢献した。

1999年2月、再びリオ州2部のCFZ・ド・リオにレンタル移籍し[7]、5試合に出場するも無得点に終わる[8]。8月下旬に鹿島に復帰[8]。ナビスコカップ準決勝第1戦と第2戦、長谷川祥之とのツートップで、スタメン出場を果たす。柏レイソルとの決勝戦、途中出場で初の決勝の舞台に立ち、PK戦では2番目のキッカーを務めるも失敗、優勝を逃した。

2000年川崎フロンターレに期限付き移籍[9]。リーグ戦11試合に起用されていたものの無得点、クラブも勝てなかった。そんな中行われたミーティングで松本育夫社長が選手に意見を求めた際、鈴木はチーム内に溜まっていた不満を代弁したが、それ以降出場機会がなくなった。結局シーズン途中鹿島に復帰し、リーグ5試合で2得点、ナビスコ杯5試合で3得点、天皇杯5試合で2得点。復帰後の15試合で7得点を挙げ、一気にレギュラーに定着、鹿島の「三冠」に貢献した。ナビスコカップではその活躍により、ニューヒーロー賞に選ばれた。横浜F・マリノスとのチャンピオンシップでは第二戦で先制ゴールを挙げた。

欧州リーグでの挑戦

2002 FIFAワールドカップ終了後、その活躍が対戦国のベルギーで認められ、ベルギー1部リーグヘンク期限付き移籍。移籍期間は2002年7月15日から2003年6月30日まで[10]。しかし、センターフォワードではなく右サイドのウィング的ポジションで起用されることがほとんどであり、リーグ戦やUEFAチャンピオンズリーグでアシストを記録するなどしたものの、FWのレギュラーを奪えず無得点に終わる。

2003年7月、鹿島に復帰[10]。同年8月、ヘンクと選手の提携を結んでいるヒュースデン=ゾルダー(本拠はゾルダーだが、キャパシティーの問題から近隣の街・ヘンクのスタジアムを使用している)に翌年6月末まで期限付き移籍[11]。クラブは1年で2部リーグに降格したものの、本来のセンターフォワードでまずまずのプレーをしリーグ戦5得点を挙げた。

国内復帰 - 再びの海外

2004年、Jリーグ・第2ステージより鹿島アントラーズに復帰し、第5節アウェイの磐田戦で自身初のハットトリックを果たす(1得点はPK)。

2005年小笠原満男に代わり鹿島の選手会長を務めることとなった。第1節の浦和戦では決勝ゴールをあげる活躍をみせたが、シーズン途中の負傷離脱中にMF野沢拓也アレックス・ミネイロとのコンビで起用されたこともあり、復帰後はベンチスタートとなる時期もあった。リーグ戦では25試合に出場、3得点を挙げた。

2006年1月末に、セルビア・モンテネグロレッドスター・ベオグラードに完全移籍[12]。4月の国内カップ戦の準決勝ではアウェーでのラドニチュキ・ニシュ戦で初の先発フル出場、移籍後の公式初得点を含む2得点を挙げ、日本人選手として初めてのリーグ得点者となったが7月に入るとレッドスターのドゥシャン・バイエビッチ監督の構想から外れ[13]、出場機会が激減。

2007年1月19日横浜F・マリノスが完全移籍での獲得を正式発表した[14]。周囲からは横浜FCに移籍した久保竜彦の穴を埋める活躍を期待されていたが、開幕から数試合は出場したものの、その後は試合出場はおろか、ベンチメンバー入りすらできない不本意なシーズンとなった。12月1日、横浜FMより契約満了が発表される[15]。その後、東京ヴェルディからオファーがあったものの、条件面で折り合いがつかずに交渉が決裂。

2008年2月、米MLSチーバスUSAと交渉、ここでも条件面等で折り合わず契約には至らなかった。

2008年3月25日、米ユナイテッドサッカーリーグポートランド・ティンバーズへの加入が発表された。4月26日のホームにシアトル・サウンダーズを迎えた試合で、1ゴール1アシストを記録した。

2010年末、ポートランドを退団[16]

引退報道 - 国内復帰

2011年4月22日、鹿島時代に同チームで一緒にプレイした増田忠俊のTwitterにて2010年に引退し、今後はサッカー関連の仕事に就くとツイートされ、広まる[17]。だが鈴木の所属事務所は「今後に関しては現時点で未定ですが、現役続行も含めていろいろな可能性がある状況です」として引退を否定した[16]。鈴木の引退を発した増田も引退ではなく今後については模索中だと訂正・謝罪した[18]

2011年6月3日水戸ホーリーホックへの加入が決定[19]。4シーズン振りのJリーグ復帰となった。なお本人の強い希望により、無報酬でのアマチュア契約となる[20]。 「震災が起きて、非常に経営も苦しいということを聞いていた。チームに迷惑をかけないように加入したかったので、僕の強い希望でアマチュア契約となった」

2011年7月31日愛媛FC戦で小澤司フリーキックをヘッドで合わせて、6年ぶりのJリーグゴールを決めた。 2011年度は20試合に出場し5得点を挙げる

2012年からはプロA契約を結ぶことが発表された。2013年シーズンのリーグ戦ではキャリア初の2桁得点を記録した。2014年シーズン終了後、戦力外通告を受け退団が決定。

現役引退

2015年2月、ジェフユナイテッド市原・千葉へ移籍[21]。「引退するかどうか迷っていた部分もあったが、また拾っていただいた。持っているものを全て出したい」とコメントした。 千葉では2試合の出場に留まり、シーズン終了後に引退が発表された[22]

引退会見では、引退の経緯について「今までどんな状況でも辞めたくないなと思っていたけど、10月にふと辞めようと決断しました。次に進みたいという気持ちが強くなって、プレーしたい気持ちを超えたのだと思う」とコメントし、プロのサッカーチームの監督を目指す事を明かしている[23]

日本代表

2001年フィリップ・トルシエによって日本代表に初招集される。4月25日のスペイン戦にて途中出場し、代表デビュー[3]。しかしこの時は後半アディショナルタイムも4分以上経っての投入で、直後の30秒後に試合が終了しボールに触れる事もなかった。日本で開かれたFIFAコンフェデレーションズカップカメルーン戦では初スタメンに抜擢され、2得点を挙げる結果を残し、マスコミなどからシンデレラボーイと呼ばれた。トルシエは鈴木の抜擢を「(鈴木の)目で決めた」と述べ(なお、トルシエは後年「本当は(アフリカ系選手に対するために)鈴木のフィジカルコンタクトの強さを買って起用した」とも明かしていた)、本人も試合直前まで知らされていなかったという。次のオーストラリア戦では肘打ちをしたと見なされ一発退場になるが、この大会以降代表に定着した。

2002年、トルシエからは献身的なプレーが認められ、FIFAワールドカップのメンバーに選出。エコノミークラス症候群による戦線離脱を余儀なくされた高原直泰、盲腸の手術明けで本調子でなかった西澤明訓らに代わり、鹿島のチームメイトである柳沢敦と共にツートップを形成。初戦のベルギー戦でその大会における日本代表の初得点を挙げる。この得点は日本がワールドカップ通算で初めての勝点1を得る貴重な同点ゴールとなった。

2006 FIFAワールドカップ・アジア一次予選ではケガで不調のエースFW久保竜彦に代わりジーコに「FWの軸」として指名され、3戦連続ゴールを決めるなど活躍。AFCアジアカップ2004でも1得点で日本の優勝に貢献する。2005年、最終予選では3試合に先発するも右足首の怪我に泣き、ノーゴールに終わった。この頃から玉田圭司大黒将志の台頭で代表の出場機会が減り始め、10月12日のアウェイのウクライナ戦が最後の出場となり、ドイツワールドカップの日本代表メンバーにも選出されなかった。

引退後

引退後はサッカー指導者、サッカー解説者として活動している。

2018年5月17日、日本サッカー協会理事会においてJFA 公認S級コーチに認定される[24]

Remove ads

個人成績

さらに見る 国内大会個人成績, 年度 ...
その他の公式戦
国際大会
さらに見る 国際大会個人成績, 年度 ...
出場歴
Remove ads

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 55試合 11得点(2001年 - 2005年)[3]
さらに見る 日本代表, 国際Aマッチ ...

出場

さらに見る No., 開催日 ...

ゴール

さらに見る #, 開催年月日 ...
Remove ads

チームタイトル

鹿島アントラーズ
レッドスター・ベオグラード
  • セルビア・モンテネグロ・プルヴァ・リーガ 優勝 : 2005-06
  • セルビア・スーペルリーガ 優勝 : 2006-07
  • セルビア・カップ 優勝 : 2006-07
日本代表

個人タイトル

脚注

関連項目

Loading content...

外部リンク

Loading content...
Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads